「珍しい顔だな」
店の奥から声がして、現れたのは痩せた老人だった。白髪混じりの髪に丸眼鏡をかけ、一見するとどこにでもいる古物商にみえる。だが、この男が扱うのは骨董品ではなく情報だった。
「久しぶりだな」
と、ジャックが言い、さらに「まだ生きてたのか」と続ける。すると「失礼だな」と店主は笑って「もちろん、お前より長生きするつもりだ」と返した。
「いや、無理だろ。ジジィが先に死ぬ」
「どう考えてもお前が先に死ぬ」
「何でだよ! 俺だぞ!?」
「お前だからだよ」
と軽口が続くが、オリオンは一切笑わず、店主もそれにすぐに気付くいた。今日は和やかな雑談の日ではない、と。
「それで。何があった」
店主がそう問うと、店の空気が静かに変わり、オリオンは答えの代わりにひとつの名前を口にする。
「ハロルド」
その瞬間、店主の表情から笑みが消え――それは本当に一瞬だったが確かに消え――すぐに取り繕うも、ジャックもオリオンもそれを見逃さず、店主はハリボテの笑顔のままゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
「……誰から聞いた」
そう低い声で問うその様子は、先ほどまでとはまったくの別人のようで、店の空気はさらに静かに重くなり、じわじわとまるで見えない何かが首へ手を掛けてくるようだった。
店主は、長い沈黙の後に小さく息を吐き「面倒な名前を持ってきたな」と呟いた。その声には呆れも混じっていたが、恐れも確かにあった。
オリオンはそれを聞き逃さず、ジャックもまた笑わずに聞いていた。ハロルドというその名前は、自分たちが思っていた以上に厄介な存在らしい。
その名が口にされた瞬間、店の空気が僅かに歪んだように感じられた。油と埃、タバコの匂いが混じる薄暗い店内に、重たい沈黙がゆっくりと這い落ちていく。外では風が軋むように吹いているのに、ここだけが切り離されたように静まり返っていた。
そのまま、店主はしばらく何も言わず、節くれだった指先で机の表面を軽く、しかし規則的に叩いていた。その乾いた音がやけに耳につく。
彼は考えているのだ。
どこまで話すべきか、何を隠すべきか。
二人がハロルドの危険性を理解するのに、その沈黙だけで十分だった。
ヤツはただの犯罪者ではない。ただの売人でもない、もっと厄介な何かだ。
その事実が、言葉にされる前からじわじわと伝わってくる。
「聞くが」
やがて店主が口を開く。その声は低く、慎重に選ばれた言葉のようで、重くのしかかった。
「お前ら、どこまで関わった?」
オリオンはすぐには答えない。視線をわずかに逸らし、代わりに質問で返す。
「何の話だ」
その声音には、いつもの警戒が滲んでいた。
「薬だ」
店主は即答した。迷いも躊躇もない断言だった。
「いいか。ハロルド……アレが動く時は決まってる」
その言葉と同時に、店の奥で古びた時計が鈍く鳴る。カン、と乾いた音が大きく響き、三人の間に張り詰めた空気をさらに強調した。
「金」
店主は一本指を折る。
「縄張り」
もう一本。
「薬」
三本目を折りながら、ゆっくりと視線を上げる。
そして続ける。
「……だいたいは、この薬だ」
ジャックが小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていたものを、ようやく吐き出すように。そして、そのままの顔でオリオンを見る。
店主の持つ答えは、彼らにとって予想通りだった。予定通りだからと言って、安心できるわけではない。
むしろ逆だった。厄介なのだ。予想が当たったということは、状況が最悪に近いということでもある。
「末端を処理した」
続けて、オリオンが短く言う。その声には、感情を押し殺した硬さがあった。
店主はゆっくりと目を細める。
「そりゃ夫婦か?」
「ああ」
「ガキがいたな」
その一言に、オリオンとジャックが同時に顔を見合わせた。反射的な動きだったが、二人の心に影が落ちる。
老人はそれを見て、小さく舌打ちした。
「やっぱりか」
「何を知ってる」
オリオンの声が低くなり、その音をまとった空気がさらに張り詰める。
どうしてか、店主はすぐには答えない。
代わりに、二人をじっと見つめる。その視線は鋭く、まるで値踏みするようだった。どこまで信用できるのか、どこまで話していいのかを測っているような。
「その子供」
やがて店主が口を開く。
「首に何か下げてないか?」
沈黙が落ちる。
「いや、首じゃなくてもいい。妙に大事にしているものがないか。どうだ?」
オリオンが眉をひそめ、記憶を探るように視線を落とす。ジャックも同じように思い出そうとする。
まずは、大事にしているもの。
リリィはいつも、ぬいぐるみを大事に持っていた。古ぼけて、とっくに汚れた猫のぬいぐるみ。
大きくないが、小さくもない。子どもが大事に抱えるには、ちょうど良いサイズだった。
次に、首。
幼子が首に下げるならば、ネックレスだろう。
リリィは、確かにネックレスをしている。
初めて会った日から。独り、誕生日を祝っていた時も、失敗した朝食を食べていた時も、マーサがフライパンで男を撃退した時も。
もちろん、今朝も。 眠る時でさえ、胸元でかすかに揺れていた。
――小さな真鍮の鍵をチャームにした、ペンダント。
そうだ、確かにあった。
ずっと、ずっと。
目の前に。
「……あるな」
ジャックがゆっくりと答える。彼もぬいぐるみと鍵を思い浮かべ、しかしそのどちらも店主に伝えなかった。
「ある」
オリオンも、ジャックとほぼ同時に答えた。当然、彼も思い当たった物がなんだったかは、口にしない。
店主はその言葉を聞いた瞬間、目を閉じた。深く息を吐く。
その反応だけで十分だった。二人が理解するのも、店主の回答としても。
オリオンの中に、形のない嫌な予感がじわじわと広がっていく。
「捨てろ。すぐにだ」
店主が言う。その声は低く、押し殺したようだった。
「帰れ。帰って捨てろ」
「理由は」
不躾な態度に、ある程度理由を把握していても、オリオンが真意をと問い返す。
「駄目だ、聞くな」
店主は即答した。その言葉には明確な拒絶があった。
そして数秒後、腹を括ったのかまるで独り言のように続ける。
「もし本当にそれなら」
顔色が変わる。暗い店内でも、血の気が引き、青ざめていくさまがはっきりとわかるくらいに。
ジャックは、彼のそんな表情を初めて見た。普段は何事にも動じないこの男……この店の店主が、ここまで露骨に恐怖を見せるとは思っていなかった。
「ハロルドは諦めない」
その言葉が落ちた瞬間、店の空気がさらに冷たくなる。まるで見えない何かが、すぐそこまで迫っているかのようだった。
「その子を連れて逃げろ」
店主は言う。今度ははっきりとした命令だった。
「今すぐだ」
オリオンとジャックは顔を見合わせる。互いの目に浮かぶものを確認するように。
そして理解する。昨夜の襲撃は、やはり始まりでしかなかったのだと。
昨夜の襲撃は、ただの偶発的な事件でも、運の悪い出来事でもなかったのだと、二人は薄々感じ始めていた。それは何かの始まりであり、まだ見えない大きな流れの一端に過ぎないのだと。
襲撃者の手前「こちらはすべて理解している」と、優位な立場であると思わせるために、少々嘘を吐いた。だが、それは間違いではなかったし、正解だったとも思う。
店の中へ、何度目かの重たい沈黙が落ちる。その沈黙は単なる静けさではなく、言葉にできない不安や予感が凝縮されたような、息苦しさを伴っていた。
外では、相変わらず風が吹いている。古びた看板が軋む音が時折響き、遠くでは車の走る音も聞こえる。
街はいつも通り動いているはずなのに、この店の中だけは、まるでこの世から切り離された別の世界のようだった。時間の流れすら違う気がする。秒針の進みが遅くなったかのように、空気が粘りついて肌を撫でる。
店主は、机の上に置かれた古い灰皿へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。何度も吐きたくなるその吐息には、疲労と諦めが混じっている。長い年月を生き、何度も同じような光景を見てきた者だけが持つ、重たい感情だった。
まるで、結末を知っていながらも、それを止められなかった過去を、いくつも抱えているかのように。