――稀に見るほど綺麗な夜景なのに、男はその夜景には一切興味がなかった。この夜景を独り占めしたくて、ビルごと買収したはずなのに。一度もその景色をその目に焼き付けることもなく、男は一切の興味をなくしてしまった。
ハロルドという男。
彼が今興味を持つのは、金、縄張り、薬、そして――鍵。
「鍵を持って来い」
まだ、手元に届かない鍵。自分が出るほどではないと、ハロルドは考えていた。子供一人、腕利きの大人がいればどうにでもなると。
あの、最初に送り込んだ男は、使えなかった。下見も準備も足りなかった、そう思っていた。それなのに、一丁前に自分の目の前に、成果もないまま帰ってきたから、彼は始末を命じた。そしてその辺に捨てた。それ自体は、よくあることだった。
「承知いたしました、ボス」
新たな監視役はそれ以上聞かず――聞いてはいけない気がして――写真を回収して封筒へ戻し立ち上がる。仕事は簡単で、少女が持つ鍵のそれだけ。近くに男二人と女がいたが、特段目立った様子はない。
写真は、あのダイナーへ行った日に撮影した。親戚の集まりだろうと、そう思っていた。
だから気付かなかった。写真の端に写り込んでいた二人の男、オリオンとジャック、彼らの重要性を。
よって、彼の中で、この二人は重要度の低い情報として処理されてしまった。末端のけじめを付けさせ、縄張りの掃除に向かい、人脈を着々と広げていく。そんな、日々膨大な情報を扱う彼にとって、偶然写り込んだだけの人物など、いちいち気に留める価値はないと判断したのだ。
結果、まだハロルドも知らなかった。
シリアルキラー二人に、自身が要注意人物として認識されていることに。彼らが、自身の求める鍵を持つ少女を、守ろうとしていることに。
――翌日。
監視役の男は小さなバーの奥にいた。昼間だというのに店内は薄暗く、外の光は厚いカーテンによって遮られている。空気はどこか湿っていて、古びた木の匂いとアルコールの残り香が混ざり合っていた。客はいない。貸し切りだった。静寂の中で、時計の針の音だけが刻々と大きく響いている。
テーブルには二人の男がついている。一人は短髪で、鋭い目つきをしていた。もう一人は長髪で、どこか飄々とした雰囲気を漂わせている。どちらも荒事に慣れた顔で、場の空気に緊張はない。むしろ、退屈そうにさえ見えた。
「仕事だ」
監視役が封筒を投げる。その動作には無駄がなく、慣れた手つきだった。短髪の男がそれを受け取り、封を切る。中から取り出した写真を一枚ずつ確認していく。
金髪の少女。家の外観。学校の門。首元に下げられた鍵。
「何だ、まだガキじゃねぇか」
短髪の男が鼻で笑う。その声には軽蔑と退屈が混じっていた。長髪の男も身を乗り出して写真を覗き込む。
「報酬は?」
「悪くない。状況に応じて、増やしてやろう」
監視役が簡潔に答える。その言葉に、二人の男の表情がわずかに緩む。
「回収だけだ」
「鍵を持って来い」
短く続けて、監視役の男はジッと男たちを見た。
短髪の男が鼻で笑い、持っていたグラスから酒を一口含んだ。その仕草には余裕があった。
「楽な仕事だな」
長髪の男も頷きながら、写真を指で弾く。
「護衛は?」
「いない」
監視役は即答した。少なくとも報告ではそうなっている。
「同居人は?」
「女一人だ」
監視役は、写真を一枚抜き出してテーブルに置く。そこには買い物帰りのマーサの姿が写っていた。袋を両手に抱え、ゆっくりと歩くその姿は、どう見ても脅威には見えない。
長髪の男が鼻で笑う。
「ただのババアじゃねぇか」
「だな」
短髪の男も笑う。二人の間に緊張はなく、完全に気が緩んでいた。
「子供一人」
「ババア一人」
「回収して終わり」
それだけの認識だった。監視役もそれを否定しない。むしろ、その程度の仕事だと自分でも思っていた。だからこそ、余計な情報を付け加える必要はないと判断した。
写真の束に混じっていた別の写真を見逃したのも、その油断のひとつだった。リリィの後ろ、少し離れた場所に写り込んでいた男。買い物袋を持って歩くその姿は、ただ買い物帰りの男にしか見えない。オリオンという名を持つその男の存在は、誰の記録にも残っていなかった。
別の日の写真には、ベンチに座る別の男が写っていた。ジャック。こちらもまた、偶然そこにいただけのように見える。どちらも特別な動きをしているわけではなく、監視役は価値がないと判断した。
この時点で言い訳をするならば、監視役はただの親戚程度だと本当に思っていた。少女は懐き、男たちもそれを受け入れているように見えた。主に男たちが家の出入りをするのは夜から早朝にかけてで、写真を撮る時間に表におり、かつ同居人としての距離にしては、離れているように見えた。
そして、それが最初の間違いだった。
「いつやる?」
短髪の男が聞く。声には焦りも緊張もなく、ただの楽な仕事の前の確認だった。
監視役は、少しだけ考える素振りを見せたが、すぐに答えを出す。
「明日」
それだけだった。長髪の男が笑う。
「夕飯までには終わるな」
「終わるだろ」
「終わったらすぐに飲みに行こうぜ!」
「そりゃあいい!」
短髪の男も笑った。その笑いは軽く、仕事に対する真剣さは感じられない。
誰も疑わない。誰も警戒しない。彼らにとっては日常の仕事であり、特別なことではなかった。だからこそ、見落とした。だからこそ、気付かなかった。
自分たちが向かおうとしている家が、他のどんな仕事よりも、よほど危険だということに。
――宣言のあった、翌日の昼下がり。
空は雲ひとつない青空で、穏やかな陽光が町全体を優しく包み込んでいた。窓から差し込む光は、この季節にしては柔らかく、室内の空気をほんのりと温めている。外では風が静かに木々を揺らし、どこかの家からは昼食の残り香が漂ってくるような、そんな平和な時間だった。
リビングでは、リリィが床に腹這いになりながら、夢中で何かを描いていた。
彼女の周りには色とりどりの色鉛筆が散らばり、スケッチブックは何ページもめくられている。先日、新しく買ってもらったばかりの文房具を、まるで宝物のように広げていた。
その様子を横目に見ながら、マーサは洗濯物を丁寧に畳んでいる。年季の入った手つきは無駄がなく、長年の習慣がそのまま形になっているようだった。
「これは誰だい?」
マーサが何気なく声をかけると、リリィは顔も上げずに即答した。
「ジャック」
スケッチブックには、棒人間のような簡素な絵が描かれていた。頭の大きさが特に目立って、どこかアンバランスである。
「似てないねぇ」
マーサはくすりと笑いながら言う。
「にてるもん」
リリィは真剣そのものだった。その表情には一切の迷いがない。
マーサはその様子が可笑しくて、思わず肩を揺らした。
「じゃあこれは?」
次のページを指差す。
「オリオン」
今度の絵は、太い眉毛が強調されていた。これもまた、似ているとは言い難い代物だった。別に、オリオンの眉毛は太くない。
「それも似てないねぇ」
「にてる!」
リリィはむっとした顔で言い返す。その頬は少し膨れていた。そのやり取りは、どこにでもあるような穏やかな日常の一場面だった。
しばらくして、リリィがふと手を止める。
「オリオンたちおそいね」
寂しそうにぽつりと呟いた。
今日は買い出しの日で、オリオンとジャックは深夜の仕事の流れから、そのまま家に帰らず出掛けている。
「そのうち帰ってくるさ」
マーサは気楽に答えた。長い人生を生きてきた彼女にとって、数時間の遅れなど誤差のようなものだった。
リリィもそれ以上は気にせず、再び絵に集中し始める。
その時だった。インターホンが鳴る。ピンポーン、と乾いた音が家の中に響いた。
その音を聞いて、リリィがぱっと顔を上げる。
「かえってきた!」
オリオンたちが帰ってきたのだと思ったらしい。勢いよく立ち上がり、玄関へ向かおうとする。
だが、その動きをマーサが制した。
「待ちなリリィ」
静かな声だったが、不思議と強い響きを持っていた。リリィは思わず足を止める。
マーサ自身も、はっきりとした理由があるわけではなかった。ただ、胸の奥に小さな引っ掛かりを感じていた。
オリオンもジャックも鍵を持っている。わざわざ、インターホンを鳴らす必要はないはずだ。荷物が多くたって、大の大人が二人。鍵を開けてもらわずとも、どうにかできるはずだと。
ほんの些細な違和感だった。だが、年を重ねると、そういう感覚を無視できなくなる。
マーサはゆっくりと玄関へ向かう。リリィはその少し後ろを、不安そうに付いていった。
そして、ドアスコープを覗く。そこに映っていたのは、見知らぬ男だった。
一人。
きちんとしたスーツ姿で、整った身なりをしている。男の口元には、笑みが浮かんでいた。だが、その笑顔はどこか不自然で、作り物のように見えた。
マーサの目が細くなる。
「どちらさんだい?」
ドア越しに声をかける。
男はすぐに応じた。
「役所の者です。この家の土地について、お話しがあります」
愛想の良い声だった。
しかし、マーサはドアを開けなかった。
――なぜなら、ドアスコープの端に、もうひとつの影が映っていたからだ。
男の背後に、もう一人いる。