それでも、まだ大丈夫だと思っていた。父親も母親も、もともと昼間から家にいるような人ではないし、大事な仕事だってある。
何の仕事をしているのかはよく知らなかったが、二人とも忙しいのだということだけは知っていた。いつもいないから。だから、帰りが遅いのも仕方がない。
今日は自身の誕生日だけれど、大人には大人の事情があるのだろう。
少女はそう考えることにした。
そうしないと、少しだけ不安になってしまうからだった。
テーブルの上に置いた、パンのケーキを見る。
乾かないように、透明な蓋で覆ってみたものの、ジャムは朝よりも艶を失い始めていて、パンも少しだけ乾いているように見えた。バランスが悪かったのか、また傾いて見える。
さっきと同じように形を整えようとしたが、触れば触るほど崩れてしまいそうな気がして、途中で手を止めた。
大丈夫。
まだ大丈夫。
そろそろ帰ってくる。
ケーキはこのまま残ってる。
少女はそう自分に言い聞かせると、冷蔵庫からコップに水を注いで飲み、空腹を誤魔化すようにお腹を撫でた。
……本当は少し食べたかった。
けれど我慢する。
せっかく作ったケーキなのだから、最初の一口はみんなで食べたいと思ったし、その方がきっと誕生日らしい気がした。
窓の外では、街が少しずつ夜の準備を始めている。
空は茜色に染まり、家々の窓には灯りが点き始め、どこからか夕飯の匂いも漂ってきた。そんな気がする。
少女は膝を抱えるように椅子へ座りながら、玄関の方へ何度も視線を向ける。
家の前でわずかに大きな音がすると、その度に胸が少しだけ弾み、その度に静かになる。
それでも、少女は待っていた。
今日は誕生日だから。
きっと帰ってきてくれるはずだから。
そして帰ってきたら、このケーキを見せるのだ。
「上手にできたね」と褒めてもらえるかもしれないし、一緒に笑ってくれるかもしれない。
そんな小さな期待を胸に抱きながら、少女は再び時計を見上げた。
だが、期待も虚しく、気が付けば窓の外はすっかり暗くなっていた。
夕焼けの照りはとっくに消え、住宅街の灯りだけが、ぽつぽつと夜を照らしている。
少女は何度も時計を見ていたせいで、短い針がどこを指しているのか、もうよくわからなくなりそうだった。
それでも間違いなく、時間は確実に過ぎている。
帰ってこないまま、電話が鳴ることもないまま、 玄関の扉が開くこともないまま。
少女は、椅子へ座ったり立ち上がったりを繰り返しながら、その度に窓の外を覗いていた。が、期待していた車が通ることはなく、聞き慣れた足音が近付いてくることもなかった。
お腹は空いていた。
朝よりも。
昼よりも。
ずっと。
どこかを探せば、食べられるものはきっとある。それに、ケーキに使ったパンだって、耳が残っている。
それでも、少女は手を付けなかった。
食べてしまったら、今日の頑張りが、そこで終わってしまう気がしたからだ。
ケーキも同じだった。
パンは少し乾いているし、ジャムも朝ほど綺麗ではない。
それでも、少女にとっては大切な誕生日ケーキだった。
テーブルの前へ座り、ふたを開けてそっと形を整える。何かしていないと、気が狂いそうだった。
崩れていた部分を指で押さえ、零れそうになっていたジャムを戻しながら、少女は小さく笑った。
「だいじょうぶだよ」
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。
ケーキに言ったのかもしれない。
自分に言ったのかもしれない。
とにかく、そう言わなければ泣きそうな気がした。
テレビでは楽しそうな番組が流れている。どこかの家族が笑っていて、どこかの子どもがお祝いされている。映像は、知らない子供の誕生祝いだ。
その光景は、あくまでも画面の向こう側の話で、少女の潤んだ瞳には、ただ他人の幸せそうな様子が映し出されていた。
少女は膝を抱え、今度はソファへ身体を沈める。
眠い。
だが、ここで眠ったら、両親が帰ってきたことに気付けないかもしれない。
だから起きている。
待っている。
誕生日だから。今日だけは。今日だけは、帰ってきてくれると信じていたかった。
少女は静かな部屋の中で、泣きそうになりながら、もう一度だけ時計を見上げた。
……カチカチと音を鳴らしながら、時計の針は随分と進んでいた。
少女には正確な時間までは分からなかったが、もう遅い時間なのだろう、ということだけは理解できる。
窓の外を歩いている人もほとんどおらず、向かいの家の灯りも消えていた。
家の中のテレビだけが、部屋の中で喋り続けている。
少女は膝を抱えたまま、その音をぼんやりと聞いていた。
帰ってこない。
もしかしたら、今日は本当に遅いのかもしれない。
仕事が長引いているのかもしれない。
道が混んでいるのかもしれない。
トラブルが起きたのかもしれない。
それ以外に、何か理由があるのかもしれない。
けれど、どれだけ理由を考えてみても、その間、玄関の扉は一度も開かなかった。
仕方なく、少女はゆっくりと立ち上がり、そしてテーブルへ近付いた。
パンのケーキはまだそこにある。
朝からずっと、手直しはしたものの、自分が作ったままの形で。
朝、出来上がった時ほどの輝きは、もうとっくに失っていた。
それでも、少女にとっては特別なケーキだった。
だって、今日のために作ったのだから。
少女はそっと椅子へ腰掛ける。
少しだけ考えた。本当に、少しだけ。
それから、テーブルの端に置いてあったライターを手に取る。
いくらか探してみたが、悲しいことにろうそくはなかった。見つけられなかった。
だから、代わりだった。
少し、いや、だいぶ変かもしれない、でも、これでも火は点くし、手に持っていれば問題ない。
ケーキに刺せないのは残念だが、ケーキを輝かせてみせることはできる。
今日は、誕生日だから。
私の、誕生日なのだから。
何もしないで終わるのは嫌だった。
少女はライターを握ったまま、小さく息を吐く。
「……もうすこしだけ、まとうかな」
誰もいない部屋へ向かって呟く。
帰ってくるかもしれない。そうやって、もう長い時間待った。
あと少ししたら。
あと少しだけ。
だからその時まで。
ケーキも。
誕生日も。
歌も。
取っておこうと思った。
少女は、テーブルの上のパンを見つめながら、静かに微笑む。
その笑顔は寂しかった。
けれど、まだ諦めてはいなかった。
数えられないくらい、時計の針は随分と進んでいたが、少女が何度も窓の外を見ても、どれだけ待っても父親も母親も帰ってこない。
お腹は空いていて、強い眠気もあった。
知っている、まだ誕生日が終わるまで、時間はある。それは僅かな気がしたが「残っている」という事実に変わりはなかった。
少女は、テーブルの上のパンのケーキを見つめる。もう、何度目だろうか。それすらわからない。
気になって、結局、朝から何度も形を直したそれは、その柔らかさと輝きを、とっくに失っていた。
それでも、少女にとっては世界にひとつだけの誕生日ケーキだった。
両手でそっと持ち上げ、落とさないように、壊さないように慎重に、そのまま自分の部屋へ向かった。
狭い部屋だった。
ベッドと小さな棚があるだけの部屋で、窓際には色褪せたぬいぐるみが並んでいる。
少女はベッドの横へケーキを置き、ライターも一緒に置く。誰も褒めてくれない代わりに、少しだけ笑った。
「これをみたら、きっとおどろく、よね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ママも、パパも、きっと、多分、帰ってきたら。
その時は見せよう。
上手にできたんだよって。
七歳になったんだよって。
それまで、大事にしておこうと。
少女は毛布を膝へ掛け、玄関の音が聞こえるよう、部屋のドアを少しだけ開けた。帰ってきたらすぐにわかるように、すぐに迎えに行けるように。
それから少女はベッドの横に置いたケーキを見つめる。
少しだけ嬉しくて、少しだけ寂しかった。
そして何より、まだ期待していた。
だから少女は、もう少しだけ待つことにした。