「いいか、よく聞け」
店主が低い声で言う。その声は大きくはなかったが、確かな重みを持っていた。
オリオンもジャックも、野暮になるから口を挟まない。ただ続きを待つ。二人とも、この空気の中で、この男が無駄な話をする人間ではないことを知っている。
「今から話すのは、そうだ、あくまでも噂だ」
店主はそう前置きする。
その言葉には、責任を回避するような軽さではなく、むしろ、これから語る内容の危うさを示す慎重さがあった。
「本当かどうかは知らん」
一拍置いてから続ける。
「だが、裏の世界じゃ昔から言われてる」
視線をふたりから外し、窓の外を見たまま、独り言のように語る。その視線はどこか遠く、過去の喧騒を見ているようでもあった。
「まず、ハロルドは人を信用しない」
静かな声だったが、その言葉ははっきりと響いた。
「部下も信用しない」
「仲間も信用しない」
「家族も信用しない」
淡々と並べられる言葉。しかし、その一つひとつが、まとわりつくような重みを持っていた。普通の人間ならば、どこかで信じる対象を持つはずだ。それをすべて否定する存在。
そこで一度言葉が切れる。店主の顔がわずかに歪んだ。嫌悪か、あるいは理解できないものへの戸惑いか。
「だが『鍵』だけは別だ」
その一言で空気が変わった。
オリオンが顔を上げる。ジャックも同じだった。二人の視線が店主に集中する。
「鍵?」
疑問に思ったふりをして、ジャックが問い返す。おそらく、その鍵の行方は知っている。話の流れから、リリィ以外ありえない。
リリィが持っている、あのペンダント。あの、鍵。
ジャックの思惑を知ってか知らずか、店主はその問いにゆっくりと頷く。
「だから噂だと言っただろう」
苦々しそうに言いながらも、話を止める気はないようだった。
「金庫があるらしい」
その言葉に、店の空気がさらに重くなる。見えない何かが、確実にそこに存在しているかのように。
「誰も場所を知らん」
「誰も中身を知らん」
「だがハロルドだけは知っている」
話乍ら、彼は指先で机を叩く。一回。二回。三回。その規則的な音が不吉で、たとえば何かのカウントダウンのように感じられた。
「そして」
今度は、ゆっくりと二人を見る。その視線は鋭く、逃げ場を与えない。
「その金庫を開けられる鍵が、この世にひとつだけ存在する」
沈黙が落ちる。先ほどまでとは違う、張り詰めた沈黙。
ジャックが笑おうとする。だが、喉の奥で引っかかり、声にならない。冗談に聞こえなかったからだ。
「その話、馬鹿げてるな」
それでもそう言うしかない。現実感を取り戻すための、かろうじての抵抗。
店主も頷いた。
「ああ」
「だよな。まるで映画の世界だ」
「俺もそう思う」
だが、その目は笑っていない。
そして、静かに続ける。
「だがな」
その目が細くなる。何かを見極めるように。
「もし、そのガキの持っている物が、その鍵なら」
言葉が止まる。その先を言う必要はないとでも言うように。
誰も続きを催促しない。むしろ、聞きたくないという気持ちすらあった。既に察してしまった。ここから先は、やりたくもない答え合わせだ。
店主は数秒黙り込んだ後、ようやく口を開いた。
「お前らは、その辺のガキ一人、気紛れで拾っただけのつもりかもしれん」
その声はやけに落ち着いていて静かだった。だが、その静けさが逆に重く響く。
「違う」
オリオンの視線が動く。ジャックももう笑わない。
「お前らは今」
店主の視線が二人を射抜く。その目には確信があった。
「ハロルドの喉元に手を掛けてる」
もう、何度目だろうか。店の中が静まり返る。誰も言葉を発さない。外の風の音すら遠く感じる。
ただ、オリオンの脳裏に浮かぶ。
掃除されていないリビング、薄汚れたキッチンに、いつまでも返ってこない親。
その家の中で、たった一人で誕生日を祝い、健気に両親を待ち続けた少女。無邪気な笑顔に、まだあどけない言葉と好奇心。
確かに、思い返せば見ていたかもしれない。必死に、何かを守るように胸元を押さえていた姿を。
そして、その胸元で揺れていた小さな鍵。
あの時は、ただの装飾品だと思っていた。子供が身につける、他愛のないアクセサリーだと。
だがこの場で、その認識が音を立てて崩れていく。
ここに来て初めて。あの鍵のペンダントが、ただのアクセサリーではない可能性を、現実として受け止め始めた。……始めてしまった。
短く店主へ礼を言い、店を出る。そのころには空は少しだけ色を変え始めていて、昼と夕方の境目、まだ明るいのに影だけが長く伸び始めるその時間が、心のざわめきとともに落ち着かない気配をまとっていた。
オリオンとジャックは並んで歩くが、行きとは違いどちらも口数が少なく、ハロルド、金庫、鍵――情報屋である店主の言葉が、頭の中で何度も繰り返されて離れない。
「なぁ。あのジジィの話、信じるか?」
しばらくして、ジャックが軽い口調で聞いたが、その奥には確かな真剣さがあった。
オリオンは少し考え、そして首を横に振る。
「わからん」
「だよなぁ」
ジャックも同意するが、金庫だの鍵だのという話は、まるで古い映画のようで現実味がなく、それでも店主の顔だけはどうしても忘れられなかった。
あれは演技ではない、本気で怯えていた――その事実だけがいつまでも引っ掛かり、胸の奥に小さな棘のように残り続ける。信じるならば、時間はない。信じなくとも、何かは必ず起こる。それは、間違えようのない事実だった。
やがて家が見えてくると、窓は開いていてカーテンが揺れており、どこにでもある平和な光景が広がっていた。いくらか車が目の前を走り抜け、遠くから犬の鳴き声に混じり、子どもの声が聞こえてくる。……が、それが本当にいつも通りのものなのか、どこか疑いたくなる自分たちがいた。
玄関を開けると、真っ先に聞こえてきたのは笑いを伴う言い合いだった。
「だから違うって言ってるだろ!」
「ちがわないよ!」
「違う!」
「ちがわない!」
ジャックが顔をしかめる。
「何してんだ?」
リビングを覗くと、リリィとマーサがテーブルを挟んで向かい合い、二人ともやけに真剣な顔をしていた。
何事かと思えば。
「オリオンとジャック、どっちがおりょうりへたなのかっておはなし!」
リリィが元気よく答え、オリオンは天を仰ぐ。
「最高にくっだらねぇ……」
呆れた声でジャックは言った。
「オリオンだよ」
そこへ、マーサが即答する。
「おい」
「そりゃ大正解だ」
ジャックがオリオンを笑う。
「お前、火災報知器鳴らしたじゃないか」
「たった一回だろ!?」
「その一回で十分だ」
リリィが笑い、マーサも笑う。
の笑い声を聞きながら、オリオンの視線は自然とリリィへ向いていた。
……胸元、首から下がる細い革紐。その先で揺れている、小さな真鍮の鍵が夕陽を受けて鈍く光る。
これまで何度も見た、毎日毎時間見ていたはずなのに、今日に限ってそれが妙に重く、意味を持って見えてしまう。その意味を、今さら消すことはできない。
「ん?」
リリィが気付き、鍵を握る。
宝物を見せびらかす、子どもみたいに。
「これ?」
オリオンは何も答えない。
リリィは嬉しそうに笑い、そして胸元の鍵をぎゅっと握りしめた。
「あのね。パパとママにもらったの」
その笑顔は無邪気で、何も知らない、本当に何も知らないということをわかっているから、その光景が酷く現実離れして見えた。
だからこそ、オリオンの胸の奥に、言葉にできない嫌な感覚がゆっくりと沈んでいく。
――もし、本当にあれが噂の鍵なら。
あの夫婦は、最後に何をリリィへ託したのだろう。
そして、彼女をどうするつもりだったのだろう――考えたくないのに、その問いだけが頭から離れなかった。
くだらないやりとりをしながらも、夕食の支度が始まるころには、家の中はすっかりいつもの騒がしさを取り戻していた。