夕暮れの街を、一台の黒い車が駆け抜けていく。
運転席ではジャックがハンドルを握り締め、普段なら鼻歌のひとつは歌う男が、一言も口を開かないままアクセルを踏み込んでいた。
助手席のオリオンは膝へライフルケースを置き、流れていく景色を静かに見つめている。
後部座席では、マーサが後頭部へ巻いた応急処置の包帯を押さえながら、窓の外へ視線を向けていた。
エンジン音だけが重苦しい空気を震わせ、誰も無駄な言葉を口にしようとはしない。
ただ、リリィの無事を祈り、怒りや焦りは表に出さない。感情に流されれば判断を誤ることを、三人は痛いほど知っていた。
やがて住宅街を抜けると、景色は次第に人気のない工業地帯へ差し掛かる。奥へ行けば広がる、錆び付いた倉庫に使われなくなった煙突。劣化と悪戯で割れた窓ガラスに壁、無造作に捨てられた廃車。
日が傾き始めた空の下で、それらはまるで墓標のように、静かに並んでいた。
「橋を渡った先だよ」
マーサはこの周囲について詳しかった。ここにはいくつも使い捨てられた工場や倉庫があるのに、人の出入りがあるのはいつも決まった工場だった。
「案内は任せる」
オリオンが静かに呟き、ジャックは返事の代わりに速度を落とした。
不用意に車を乗り付ければ、到着した瞬間に包囲される可能性も高い。それでは、リリィに危険が及ぶ。そんなことはできない。数百メートル手前で車を止めると、三人はそれぞれ静かに降り立った。
遠くに見える廃工場は、長い年月を放置されてきたせいか外壁の塗装は剥がれ落ち、割れた窓からは薄暗い内部が覗いている。工事業地帯ではなく、その手前に配置された、ひとつ。
オリオンは双眼鏡を取り出し、建物全体をゆっくり観察していく。
マーサの言う通りで、正面入口に二人、二階通路に一人。屋上には、見張りらしき影がふたつほど動く。
視線を動かすと、建物の裏手にも複数の人影が動いているように見えた。
「予想以上だな」
オリオンが双眼鏡を下ろす。ジャックも建物を見つめ、ニコリと笑った。
「すげぇ。俺たち歓迎されてるじゃないか!」
「笑い事じゃないよ」
マーサが呆れたように言い返す。
オリオンは、工場の見取り図を頭の中で組み立てながら、ゆっくりと二人へ視線を向ける。
「正面から突っ込めば囲まれるだろう。三方向から入る」
「あたしも行っていいのかい?」
「当たり前だぜ! マーサ一人で半分くらい消せるんだろ?」
「……期待されたらやるしかないじゃないか」
各々、無言で無線機を持つ。三人は、物音ひとつ立てないよう、身を低くしながら工場の周囲へ散開すると、それぞれ決められた位置へ向かってゆっくりと歩を進めていった。
日没までは、あとわずか。
西日が長い影を地面へ落とし、崩れかけたコンクリートや、積み上げられた鉄骨が天然の遮蔽物となって視界を細かく分断している。
別れて潜入するには、なかなか悪くない条件だった。
オリオンは、工場から少し離れた給水塔の鉄階段を静かに登り始める。
錆びた階段は今にも軋みそうだったが、一歩ごとに体重を分散させることで音を殺し、最上部へ辿り着くころには、周囲へ存在を悟らせることなく狙撃位置を確保していた。
双眼鏡を覗くと、工場内部の様子が少しずつ見えてくる。互いの死角を埋めるように動いており、誰か一人を倒しただけでは、すぐ異変に気付かれる布陣だった。
オリオンは深く息を吸い、無線機のスイッチを押す。
「配置完了」
短く告げると、耳元からジャックの声が返ってきた。
『こっちも問題ない。裏口まで来た』
ジャックは、崩れた外壁を利用しながら建物の裏手へ回り込み、非常口へ視線を向ける。
錆び付いた鉄扉の前には見張りが一人。タバコを吸いながら周囲を眺めているが、その立ち姿に隙はない。
ジャックはナイフへ手を添えながら、鼻で笑いながら言う。
『まぁまぁ、腕は良さそうだ』
「油断するな」
オリオンは双眼鏡を覗いたまま答える。
そのころ、マーサもまた工場の反対側へ辿り着いていた。
建物の脇には古いコンテナや廃材が積み重なっており、その陰へ身を隠せば外から見つかる心配は少ない。
彼女は息を整えながら、後頭部へ触れた。……傷はズキズキと痛むし、出血も完全には止まっていない。それでも、不思議と足は震えなかった。
すべては、リリィのため。
ふと視線を上げると、二階の割れた窓から細い光が漏れていた。
――誰かがいる。
いや、何かを見張っている。マーサは目を細めてみた。が、あそこにリリィがいるのか、それとも鍵があるのか、はたまたボスでもいるのかはわからない。
だが、やはり、目的地はあの建物の中で間違いない。三人は互いの姿こそ見えなかったが、それぞれの位置と役割だけは正確に把握していた。
だからこそ、誰も無駄な確認はしない。彼らに必要なのは、開始を告げる合図だけだった。
オリオンは、ライフルへ静かに弾を送り込み、照準を屋上の見張りへ合わせる。
ジャックは腰を落とし、非常口の見張りとの距離を測る。ナイフと拳銃の確認も忘れない。
マーサは、近くに立てかけられていた鉄パイプを握り、ゆっくりと深呼吸した。
……誰か一人でも動き出せば、この静寂は終わる。
その合図を告げる最初の一発を放つ役目は、誰が決めるでもなく、オリオンに託されていた。
――一方で、工場の奥深くでは、リリィが古びた鉄製の椅子へ座らされたまま俯いていた。
両手は背もたれごと拘束され、足首にも太い結束バンドが巻かれている。
暴れて逃げられない程度の拘束だったが、それでも子どもの力では到底外せそうになかった。
周囲には木箱やドラム缶が無造作に積み上げられ、長年放置されてきた機械には分厚い埃が積もっている。
工場全体に油と鉄錆の臭いが漂い、ところどころ天井の割れ目から差し込む夕日だけが薄暗い空間を照らしていた。
リリィは恐る恐る顔を上げると、目の前では、数人の男が何かを話し合っていた。
誰一人として自分を見ていない。それはわかっている。なぜなら、視線は皆、首から下げた銀色の鍵へ向いていたから。
まるで「その鍵がここへ連れて来られた理由」であるかのようだった。
「確認したのか」
一人の男が尋ねる。
「間違いありません」
別の男が答える。
「写真と一致しています」
その言葉を聞いても、リリィには意味がわからない。
写真とは何なのか。何が一致したというのか。ただ、自分の胸元へ向けられる視線だけが、異様に冷たく感じられた。
「外せ」
短い命令が飛び、一人の男がリリィへ近付くと、鍵へ手を伸ばした。
その瞬間、リリィは反射的に身体を引く。
「やだ!」
小さな抵抗だった。だが、その一言で男の手が止まる。
「これは……!」
リリィは震える声で続けた。
「パパとママにもらったの」
もう両親のいない彼女に残された、大切な宝物だった。
そんな大事なものを、知らない男へ渡すつもりなど毛頭ない。
男はため息を吐き、無理やり鎖へ手を掛けようとする。しかし、その動きを別の声が制した。
「待て」
全員が振り返る。
奥の通路から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
黒いスーツには埃ひとつ付いていない。廃工場という場違いな場所でありながら、その身なりだけは場違いなほど整っていた。
男はリリィへ一瞥もくれず、真っ直ぐ鍵だけを見る。
「傷を付けるな」
感情のない声だった。
「鍵が壊れれば意味がない」
その言葉を聞いた瞬間、リリィは答え合わせをしていた。この人たちは、自分を見ていない。欲しいのは、この鍵だけなのだと。
「開ける場所は覚えているか」
その問いに、リリィは小さく首を振った。
「しらない」