「うん」
その返事を聞いたマーサは、静かに隣へ腰を下ろした。
「大丈夫さ」
優しく頭を撫でる。
「あの二人は、簡単には負けないよ」
もちろん、リリィも知っている。
今、胸の奥がざわつくのは、子どもなりに何かを感じ取っているからだった。
そんなことを考えていると、家の外で砂利を踏む小さな音がした。
誰かの歩く音。しかも、一人ではない。一定の間隔を空けながら、複数の足音が家を囲むように近付いてくる。
マーサは何も言わず立ち上がると、そっとカーテンの隙間から外を覗いた。
見知らぬ男が一人。だが、音を正とすれば、この男だけではない。
それに、この歩き方と音だけでわかる。素人ではない、と。
「リリィ」
マーサは振り返らずに呼んだ。
「奥の部屋へ行きな」
穏やかさのない声に、リリィは表情を曇らせる。
「おばちゃんは……?」
「いいから」
リリィはそれ以上何も聞かず、小走りで奥の部屋へ走った。
その背中を見送ったマーサは、ゆっくりと台所へ向かう。まず、包丁を一本。そして、半分開いていた掃除用具入れから、柄の長いモップを引き抜く。
「まったく」
小さく息を吐く。
「このあたしを休ませる気はないのかい?」
その呟きとほぼ同時に、玄関の戸が静かに叩かれた。
コン、コン。
そこには乱暴さも、焦りもなく、それがかえって不気味だった。マーサはモップを握り直し、静かに玄関へ向かと、ドアの前で立ち止まり、深く息を吐く。
怒鳴る声もなければ、扉を蹴破る音もない。あるのは、不気味なほど静かな気配だけだった。
「誰だい」
返事はない。代わりにコン――と、もう一度扉が叩かれる。
マーサはゆっくりと鍵を外し、勢いよく開けたその瞬間、黒い影が一気に踏み込んできた。
男だった。
男は拳銃を構えたまま、迷いなく室内へ足を踏み入れる。だが、その一歩目は最後まで踏み込めなかった。
ゴッ。
モップの柄が男の脛へ叩き込まれる。
「……ぅ」
呻き声をあげて体勢を崩したところへ、今度は柄尻が顎を打ち抜いた。
「……おっ」
男は玄関の外へ転げ落ちる。
「挨拶してから入りな」
その声に反応するように、二人目が窓を蹴破って侵入してくる。
マーサは振り向きざまに包丁を投げた。狙ったのは顔ではない。肩だった。
包丁は服を掠め、壁へ突き刺さる。男は一瞬だけ動きを止める。その隙を逃さず、マーサは近くの椅子を蹴り飛ばした。
椅子は男の膝へぶつかり、再び体勢が崩れる。
「まったく」
マーサは呆れたように息を吐く。
「舐めんじゃないよ!」
この喧騒の中、廊下の奥の部屋では、リリィが必死に息を潜めていた。
マーサは一歩も下がらない この廊下を通せば、男たちはリリィへ手が届く。それだけは、絶対に許せなかった。
男たちは互いに目配せを交わす。
焦りのないその表情に、マーサの胸に小さな違和感が走った。
――何かがおかしい。
そう気付いた時には、もう遅かった。
「しまった……!」
マーサはモップを振り抜き、目の前の男を強引に突き飛ばすと、そのまま廊下の奥へ駆け出した。
しかし、背後から伸びた腕が彼女の肩を掴む。マーサは身体を捻り、その腕へ肘を叩き込んで振り払う。さらに振り返りざま、モップの柄を横薙ぎに振るった。
見事、男のこめかみに直撃する。鈍い音を立てて男が床へ崩れ落ちた。
「リリィ!」
叫んだ瞬間、その光景が目へ飛び込んできた。
閉められたはずのドアの向こうに見える、開け放たれた窓。その奥に、黒ずくめの、おそらく男。その腕の中には、必死にもがくリリィが抱えられている。
「はなして!」
リリィが叫び、小さな拳で男の胸を叩く。
しかし、男は眉ひとつ動かさない。
「おばちゃん!」
その声に応えるように、マーサは最後の力を振り絞って駆け出した。
あと一歩。あと一歩届けば――
鈍い衝撃が、マーサの後頭部を襲った。
視界が大きく揺れ、膝から力が抜け落ち、身体が床へ崩れ倒れる。
遠ざかる意識の中で、マーサは歯を食いしばる。
――まだだ。まだ眠るわけにはいかない。
「片付いたか」
男の一人が近付いてきて、靴音がすぐ背後で止まった。
……完全に意識を失った人間を演じることなど、長い人生で一度もしたことはない。
だが今は、それしかなかった。あの、夕飯の時に死んだふりをしていた男を思い出して、必死に息をひそめる。
「死んでるか?」
「いや、生きてると思う」
別の男が答える。
「まぁ、ターゲットじゃないからな。ガキは確保した」
「急げ。こいつはいいだろう。町はずれの廃工場へ戻る」
その言葉に、マーサの意識が研ぎ澄まされる。耳だけが、静かに男たちを追った。
「ハロルド様へ連絡は?」
「現地に着いてからだ」
「鍵はまだガキが持ってる」
「構わん。後で回収する」
廃工場。ハロルド。鍵。
必要な情報だけを、ただひたすら頭の中で繰り返す。忘れないように。絶対に、忘れないように。
マーサは動かなかった。今起き上がっても、敵を倒しきる自身もなければ、下手したら情報も、自分の命も失ってしまう。
やがて、車のドアが閉まる音が遠くで響き、エンジン音が少しずつ遠ざかっていく。
辺りが完全に静かになったことを確認すると、マーサはゆっくりと目を開けた。後頭部から伝う血を袖で拭いながら唇を噛む。
「……待ってな」
後頭部から流れる血が頬を伝い、視界の端を赤く染める。
聞いた言葉を反芻し、出血を抑えるためにタオルを拝借する。傷口を押さえると痛みが響いたが、そんなことに構ってはいられない。
男たちが去ってから十分ほど経った頃、玄関の外で慌ただしい足音が止まった。
「マーサ!」
大きな呼び声とともに、家の中へ入ってきたのはジャックだった。そのすぐ後ろから、オリオンも部屋へ飛び込んでくる。
……二人の視線が室内を走る。何が起こったかは明白だった。
「無事か」
「あっはっはっ。無事じゃないねぇ」
まだ軽い言葉に、二人はホッと胸を撫で下ろした。
マーサの無事は確認出来た。だが、しかし――
「リリィは」
オリオンの問いに、マーサの表情が曇る。
「連れて行かれたよ」
部屋の空気が一変する。
ジャックから笑みが消え、オリオンはゆっくりと目を閉じた。それまはるで、どちらも自分の判断が遅れたことを、悔いるような動作だった。
しかし、マーサはすぐに続ける。
「でも、場所はわかった」
二人が同時に顔を上げると、マーサは壁にもたれながら、男たちの会話を思い返した。
「廃工場だよ」
「ハロルドって名前も聞いた」
「鍵はリリィが持ったままだから」
それだけで十分だった。
オリオンもジャックも、マーサに背を向けて歩き出す。
「待ちな」
二人の足が止まる。
振り返ると、マーサが壁から身体を離していた。
「あたしも行くよ」
オリオンは即座に首を振った。
「ダメだ」
「今回ばかりはオリオンに賛成だ。どう見たって傷が深い」
ジャックも珍しく真面目な顔で言う。マーサはそんな二人を睨み付けた。
「行かないわけないだろ!!」
部屋へ怒声が響く。二人とも、賭ける言葉を失っていた。
マーサは肩で息をしながら、それでも一歩前へ出る。
「リリィはあたしの孫みたいなもんなんだよ」
「迎えに行かない理由がどこにあるって言うんだい」
ジャックは苦笑し、オリオンを見る。
オリオンは小さく目を閉じると、観念したように言葉を吐いた。
「……好きにしろ」
「最初からそのつもりさ」
三人は、互いにそれ以上何も言わなかった。
もう十分だった。守りたいものは同じで、だからこそ向かう場所も同じ。ならば、三人揃って迎えに行くだけだ。
――静かな夕暮れの中、一台の車が勢いよく走り出す。その行き先は、廃工場。
リリィを、取り戻すために。