翌朝、家の玄関は無残な姿のままだった。吹き飛んだ扉には、応急処置として板が打ち付けられており、見た目は最悪で防犯面も不安、何より恥ずかしかった。辛うじて『家の入口』としての体裁を保っているソレは、明らかに事件の跡だ。
おかげでマーサは朝から機嫌が悪く、朝食のトーストを齧りながらぼやく。
「修理代請求したいねぇ」
「できるなら俺もしたい」
頷きながら、同じくジャックもトーストを齧った。
「玄関高いもんな!」
「そこなのかい。自分ちじゃあないけど、これじゃリリィが不憫すぎるよ」
マーサが呆れたように返す。
四人は仕方なく、生活の場をマーサの家へと移していた。だが、リリィは前の家から動こうとせず、可能な限り、彼女の意志を尊重して、リリィの家で過ごしていた。
リリィだけは、昨日の不穏さを一切感じさせないほど元気で、板で塞がれた玄関を見つめて、それからしばらく観察したあと、満面の笑みで言った。
「ひみつきちみたい!」
「全然違うよ」
マーサが即座に否定する。だが、リリィは意に返さずさらに目を輝かせる。
「でもかっこいい!」
マーサは首を振る。
「全然かっこよくないよ」
リリィは食い下がる。
「ないしょのおへやみたい!」
諦めないリリィに、マーサはため息混じりに言い返した。
「違うって言ってるだろう」
そんなことを言うリリィは本気で楽しそうで、昨日の恐怖を引きずっている様子もない。子供特有の回復力なのか、それとも守られたという安心感なのかは、誰にもわからなかった。
賑やかな食卓は平和の象徴だった。だが相変わらず、オリオンだけが渋い顔をしている。
昨夜の言葉が頭から離れない。鍵、組織、ハロルド。そして『見つかった時点で終わりなんだ』と言う男の震えた声を、何度も何度も思い出していた。
「オリオン?」
突然名を呼ばれ、顔を上げるとリリィだった。
「何だ?」
「きいてた?」
「あぁ、聞いてない」
「どうしてきいてないの?」
リリィが頬を膨らませる。
「何でだよオリオン。今の返し方は、完全に聞いてる雰囲気出てただろ」
「ははっ。アンタらしいねぇ」
その言葉に、オリオンは小さく息を吐いて、ほんの少しだけ口元を緩める。
今だけは、まるで何事も起きていないかのように穏やかで、束の間の平和がこの家を包み込んでいた。
――だがしかし、同じころあのビルの一室では、その穏やかさとは対照的に、息苦しいほどの重苦しい沈黙が流れていた。
窓は固く閉ざされ、外の光を遮るようにカーテンも引かれている。そのため、昼間であるにもかかわらず室内は薄暗く、空気は酷く淀んでいた。
机の上には数枚の写真が整然と並べられており、それぞれが無言のまま状況の異様さを物語っている。
そこに写っているのはリリィ、無残に壊された玄関、そして、連絡が途絶えた二人の男だった。
「報告はまだか」
声の主はハロルド。低く抑えられた声が、静寂を切り裂くように響き、部屋の隅に立つ男がわずかに首を振る。
「……ありません」
その短い返答の後、再び沈黙が訪れた。が、それは先ほどよりもさらに重く、誰も軽口を叩くことも笑うこともできないほど、ピンと張り詰めていた。
「死んだな」
ハロルドが断定的に言い放つその言葉には、推測の余地など一切含まれていなかった。
「その可能性が高いかと」
「可能性ではない」
彼は淡々とした口調で言い切りながら、机の上の写真へと視線を落とし、金髪の少女とその首元にある鍵だけをじっと見つめている。
「死んだ」
静かな声でありながら、その言葉には揺るぎない確信が込められており、誰一人として反論する者はいなかった。
ハロルドはしばらく、無言のまま立ち尽くしていたが、やがて一枚の写真を手に取り、それをまたじっと見つめる。
そこには、監視中に偶然写り込んでいた二人の男、オリオンとジャックの姿があり、これまで価値がないと判断されていた写真だった。
「調べろ」
短く命令が発せられる。
「すべてだ」
その言葉に部下は即座に頷く。
「はい」
ハロルドは再び写真へと視線を戻し、しばらく見つめた後、初めてわずかに眉をひそめた。
「面倒だな」
その一言が発せられた瞬間、部屋の空気はさらに重く沈み込み、誰もがその意味を理解していた。
この男――ハロルドは、滅多に己の感情を表に出さない存在であり、だからこそ、そのわずかな変化が重大な意味を持つのだ。
「投入する」
男が静かに告げると、部下たちは一斉に顔を上げ、次に続く言葉を待つ。
「アイツらを呼べ」
その瞬間、空気が凍りついたかのように張り詰め、一人の部下が思わず顔を上げる。
驚きと恐怖が入り混じった表情を隠しきれない。
「ですが……」
言いかけたその瞬間、ハロルドが視線だけを向けると、それだけで言葉は途切れ、完全な沈黙が戻る。
「次は終わらせろ」
誰も反論しなせず……できるはずがなかった。この場にいる全員が理解している。彼の呼ぶ「アイツら」が動くということは、失敗が一切許されなくなるということを。
その命令だけが、静まり返った部屋の中に重く響き渡った。
――昼食前、オリオンはマーサの家の庭先に立っていた。
マーサの家は古く、小さいながらも手入れの行き届いた庭がある。季節の花が植えられ、洗濯物が揺れ、どこにでもある住宅街の風景が広がっていた。
その中で、リリィは笑っていた。命を狙われていたとは思えないほど、無邪気に。
マーサと一緒に花へ水をやり、何がそんなに面白いのか分からないことで、けらけらと声を上げて笑っている。
その様子を、オリオンは少し離れた場所から眺めていた。
見張っているわけでも、監視しているわけでもない。ただ、彼女から目が離せなかった。
リリィは、普通の子供だった。
学校へ行き、友達と遊び、宿題を嫌がり、甘い物を食べて喜ぶ。いたって普通の、本人自体はいたって普通の、年相応の少女だ。
……だからこそ、考えてしまう。
自分たちが何者なのか。守る側なのか。それとも、壊す側なのか。
オリオン自身、は人を殺してきた。一人や二人ではない。もっと数えきれないほど、その数などもとうに覚えていない。
顔も名前も、記憶の中から消えている。仕事だった。必要だった。それだけの話だ。
だが、だからといって消えるわけではない。引き金を引く感触も、飛んだ血のにおいも、標的の目の奥の光りも、これまでに背負ってきた罪も。すべて残っている。
それなのに。
リリィは、自分を、ジャックを、信じている。
当たり前のように隣へ来て、当たり前のように笑い、当たり前のように頼る。
その信頼が、ときどき無性に恐ろしかった。
そんなことを考えていたとき、不意にリリィの笑い声が庭に響く。ホースの向きを間違えた結果、水がマーサへ罹ったらしい。マーサはそのままリリィを追いかけ「ごめんなさい」と笑いながら、リリィは逃げていた。
それは、どこにでもありそうな日常の光景だった。オリオンに、普通の日常はわからない。だが、この光景を見て、微笑ましいと思った。
あまりにも平和で、あまりにも眩しかった。
だからこそ、オリオンは考える。『こんな場所に、自分たちのような人間がいていいのだろうか』と。『こんな眩しいほどの笑顔の近くに、自分たちのような人間が立っていていいのだろうか』と。
答えは出なかったが、ただひとつだけ理解した。
もしあの笑顔を守るためなら、自分は人を殺すだろう。彼女の両親を殺した時と同じように。
「難しい顔してんな」
背後から声がした。振り返らなくてもわかる、ジャックだ。いつの間に来たのか、片手にコーヒーカップを持ったまま、オリオンの隣へ立つ。
オリオンは何も答えず、ジャックも無理に話を続けない。しばらく、二人で庭を眺めている。
そしてようやく、オリオンはぽつりと呟いた。
「私たちに」
声が掠れる。
「私たちに、あの子を愛する資格はない」
ジャックは黙ったままだった。コーヒーを一口すすり、そのまま黙っている。
「私たちは人殺しだ。今まで何人殺したかも覚えてない。そんな人間が」
一度言葉を切って静かになった瞬間、リリィの笑い声が耳に響く。
それが、余計に苦しかった。
「家族みたいな顔をするべきじゃない」
視線の先では、リリィが花壇の縁へ腰掛けて、何かをマーサへ話している。その顔はよく見えないが、それでも楽しそうなのはわかった。
やがて、ジャックが口を開く。