「そうか?」
それだけだった。
「あの顔見ろよ」
ジャックが顎で、リリィとマーサを指す。
リリィは笑顔だった。ずっと笑っている。嫌なことを、すべて吹き飛ばしてしまいそうなほど、輝いた笑顔。
「……」
オリオンは何も言えなかった。
「あいつは気にしてないさ。俺たちが、何者かなんて」
オリオンは黙っている。
「気にしてるのはお前だけだ」
オリオンは視線を逸らす。
その瞬間の彼の表情を、ジャックは見逃さなかった。
「おい」
オリオンは答えない。
「ハンカチが必要なら言えよ?」
そのまま、二人は黙る。庭から聞こえる笑い声だけが、風に乗って遠くまで響いていた。
――その後、昼食を終えたリリィは「宿題をする」と言いながら数分で飽き、結局マーサに捕まって、台所の手伝いをさせられている。
ジャックは気になっていた雑誌をめくり、オリオンはリビングの窓際でお気に入りの小説を開いていた。
傍から見れば、よくある平和な一日だった。昨日の襲撃など、まるで夢だったかのように。
だが、オリオンは五度目のページを読んでいた。五度目の、同じページ。
なぜか、内容が頭に入らない。同じ文章を何度も目で追いながら、意識だけが別の場所へ向いている。目は文字を捕らえるのに、頭はそれを零していく。
……何かがおかしかった。
しかし、視界の先に異常があるわけでもなく、おかしな音が聞こえるわけでも、変わった匂いがするわけでもない。
理由は説明できないが、それでも、長年培った彼のキラーとしての感覚が、うるさいほどに警鐘を鳴らしていた。
その警鐘に沿って、オリオンはゆっくりと本を閉じた。一拍遅れて、向かいのソファで雑誌を眺めていたジャックが顔を上げる。
「どうした? トイレか?」
問い掛ける声は軽い。だが、ジャックの目は笑っていなかった。オリオンは、窓の外へ視線を向けたまま答える。
「わからない」
それが正直な感想だった。「敵意が感じられる」と断言できるほどの根拠はない。しかし「気のせいだ」と言い切れるほどの安心感もない。
オリオンの、この手の勘は外れない。
キッチンの二人に声をかけようと、席を立ったその瞬間。ふと、視線を場度ガラスの向こうへと向ける。
彼の表情が消えた。
ガラスへ映る景色の中に、違和感を見つけたからだ。路肩に停まる白い車。それ自体は、珍しくもない。が、思い返せばその車、十分二十分、もしかしたら、もっと前からいるかもしれない。
そう、ずっと、その車は同じ場所にいた。動いていない。
ジャックは、オリオンと同じように視線を逸らさないまま呟く。
「そうだな。俺も見つけた」
オリオンは何も答えない。
今までと違う。その違和感は、お互いの空気の中で共有されていた。
あれは今までの誰よりも賢く、これまで相手にした中でも特に慎重で、おそらく大層な訓練を受けていて、何と比べても厄介な相手――
オリオンはゆっくり立ち上がり、キッチンへ目を向ける。そこには、相変わらず笑顔のリリィとマーサがいた。
「ジャック」
「あぁ」
ただそれだけ言葉を交わし、外を見つめるジャックを置いて、オリオンはキッチンへと向かった。
リリィは、絶賛料理中だった。正確には怪しい手つきで野菜を切ろうとしていて、横ではマーサが厳しく目を光らせている。
「そんなんじゃ指を切るよ」
「きってないもん」
「そりゃまだだからだよ」
そんなやり取りが続いていたが、オリオンが近付いた瞬間、二人とも口を閉じた。
理由はとても簡単で、二人の元へやってきたオリオンの表情が、いつもと違っていたからだった。
「リリィ」
名前を呼ぶ声も静かで、どこか焦っているようだった。そして、それを抑えて、平常心を保っている、そんな声色。
「なに?」
「出掛けるぞ」
突然のことに、リリィは首を傾げた。「そんな用事はないと思っていたから、料理を始めたのに」と、そう言いたげな表情だ。
「いまから?」
「そうだ」
「どこにいくの?」
オリオンは答えない。代わりに、ジャックが台所へ入ってきて、その顔を見た瞬間、マーサが小さくため息を吐いた。
「あー……またかい」
呆れたような声でそう言うマーサに、ジャックは苦笑いをしながら答える。
「まただ」
「アンタら、本当に疫病神だねぇ」
「うーん。そうだな、否定できない」
その様子を見て、リリィは察したように小さな声で言う。
「……またくるの?」
弱弱しく、今にも消え入りそうな声だった。
リリィの質問に、誰も返事をしない。否定も肯定もしないこの沈黙で答えは十分で、リリィは視線を落とし、胸元の鍵をぎゅっと握った。
マーサはその様子を見て、静かにエプロンを外した。
「で? 今からどこへ行けばいいんだい」
観念したような声だった。
「時間はあまりないな」
オリオンの答え。マーサは二人を見る。そして首を横に振った。
「わかったよ」
彼女の返事は早かった。
その隣で、リリィは不安そうな表情を浮かべている。しかし、泣きもせず弱音も吐かず、ただオリオンとジャックの二人を見ていた。まるで、何かを確かめるように。
「そっか」
その一言に、オリオンの胸が少しだけ痛んだ。
信頼される資格などない。「大丈夫だ」と言う権利もない。
それでも、小さな胸に芽生えた、真っ直ぐな信頼を裏切るわけにはいかなかった。
すぐにマーサとリリィは避難を終えた。場所は、オリオンしか知らない古い家。これは、町外れにある小さな建物で、誰も気にせず、簡単には見つからない。
「どうしてこんなところに」と、マーサは文句を言いながらも従ったし、リリィも途中から何も聞かなかった。代わりに、笑顔もなかった。
たとえ聞いても、何もほしい答えはもらえないと、幼いながらに理解したのだろう。
送り届けたのはジャックで、別れ際、リリィは何度も振り返っていた。そのたびにジャックは手を振り返した。
……本来なら、自分も残るべきなのかもしれない。ジャックはそう思っていた。だが、相手の人数も経験もわからない以上、オリオンを一人にもできない。周囲にはそれらしい人物は見られなかったし、胸を痛めながら二人を残しオリオンの元へと戻った。
――そんな今。この家には、オリオンとジャックの二人しかいない。
壊れた玄関に、水をやった庭。作りかけのまま放置した料理に、出しっぱなしの本。
オリオンは窓際に立ち、外を見ていた。ジャックはソファへ腰掛けながら、ナイフの手入れをしている。
そこに無駄な会話はなく、ただ「もうすぐ来る」という予想を胸に、誰なのかわからない来客を待っていた。
嬉しくないことに彼らの心配は的中していて、家の前にいる白い車とは別に、そこ少し離れた場所に停められた黒いワゴン車の中では、数人の男女が無言で装備を確認していた。
銃器。通信機。防弾ベスト。前回の二人組とも、初回の一人とも比較にならないことは、纏う空気でわかる。
その中央に、一人の男が座っていた。
三十代半ばほどで、特徴のない顔だった。つまりは、人混みに紛れてしまえば、二度と見つけられないような顔。
「――確認します」
一人の男が口を開く。
「対象は少女一名」
「回収対象は鍵」
「状況次第では排除も――」
「不要だ」
途中で男が遮る。
「鍵を確保する」
「それ以外はどうでもいい」
誰も返事をしない。なぜなら、必要がないからだ。全員が理解している、この男が動く時点で、失敗は許されないことを。そして、自分たちが動く仕事で、失敗がないことを。
男は、車の窓越しに遠くの住宅街を見る。
その視線の先には、まだ見えないリリィの家。その家の中には、まだこの後、何が起こるのかわかっていないが、警戒は怠らない男二人。
「――始める」
たった一言の、短い命令だった。この命令を合図に、黒い車のドアが静かに開く。
同じころ、オリオンは窓の外から視線を戻した。ジャックも同時に顔を上げる。
二人の視線が交差する。言葉はいらない、それだけで十分だった。