そこには寂しさも悲しさもなかった。ただ事実を言っただけの声だった。まるで、最初から両親など、存在していなかったみたいに。
少女の両親の末路は、意図も容易く想像できた。それをしたのが、この目の前の二人なのか判断はできなかったし、そもそも両親が勝手に、どこかへ行ってしまった可能性もあった。が、少なくとも、少女が今無事な姿でここにいることに対しては、感謝していた。
次の瞬間には、マーサの興味はもう他に移っていて、別のことを考えていた。
「……ちょっと、キッチンを見せてもらうよ」
そう言って席を立つマーサ。おそらく今、銃を向けられるよりも危険な状況にある――オリオンの本能はそう告げていた。
一通り見て、マーサはゆっくりとキッチンから出てくる。逃げ場はない。その顔を見れば、それがはっきりとわかった。
「リリィ」
「なあに?」
「最近、何食べたんだい?」
リリィは嬉しそうに指を折り始める。
「えっとね、くろいトースト!」
オリオンが目を逸らす。
「あとね、いろのまじったたまご!」
ジャックが笑いを堪え始める。
「ベーコンは、いっぱいかむんだよ!」
マーサの視線がオリオンへ向くが、オリオンは何も言わない。
「あとスープ!」
「スープ?」
マーサが眉を上げると、リリィは大きく頷いた。
「こなとおゆをまぜるんだよ!」
その瞬間、沈黙が落ちる。オリオンは壁を見つめ、ジャックは天井を見上げる。満足そうなのはリリィだけだった。
「他は?」
「おかし!」
元気な返事に、マーサは深く息を吐く。
「オリオン? だっけ?」
静かな声だった。
「もうちょっと頑張れないのかい?」
ジャックが吹き出し、オリオンは目を閉じた。
「いや、努力はしてるんだぜ?」
目を閉じたまま、何も言えないオリオンの代わりにジャックが言う。
「どんな努力だい」
「料理なんてしたことがないオリオンが、リリィのために料理した」
「ジャック」
「何だ」
「黙ってくれ」
このまま喋られるのは、自分の心臓に悪い。オリオンはそう思った。しかし、ジャックは黙らなかった。
「そりゃ不格好だったけど、目玉焼きもちゃんと焼いたんだぞ」
「ジャック」
「トーストも焼いた。まぁ、靴底みたいな出来だったけど」
「ジャック」
「ベーコンは好意的に見れば――」
「ジャック」
オリオンの声が低くなる。それでもジャックは止まらない。
「リリィは喜んでた」
「うん!」
リリィが元気よく手を挙げる。
――最悪だった。名前に引き続き、オリオンは人生で初めて、人のために料理をしたことを後悔した。
マーサはそんな三人を見ていた。そして、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
少なくとも、この男たちはリリィに対して虐待はしていない。誘拐犯にも見えない。「まともか」と言われれば、まったくもってまともではなさそうだったが、それでもリリィを大事にしていることだけは伝わってきた。
だからこそ、余計にわからなくなる。この男たちは何者なのか。なぜここにいるのか。なぜリリィをと一緒にいるのか。そして、なぜ二人とも親の話になると口を閉ざすのか。
マーサは静かに二人を見た。オリオンが目を逸らし、ジャックが笑顔を作る。その反応を見て、マーサは確信する。
この二人は何かを隠している――しかも相当大きな何かを。
だからといって問い詰めるつもりはなく、少なくとも今は様子を見るつもりだった。相手が何者であれリリィが笑っているのは事実で、それでも引っ掛かりは消えないまま、マーサは立ち上がり何気ない様子で部屋を歩き、棚や本、窓の外へと視線を移し、やがて壁際に置かれた箱へ目を向けた。
「これは?」
ジャックが一瞬だけ固まる。本当に一瞬だったが、マーサは見逃さない。
「仕事道具」
「どんな?」
「芸術関係」
即答だったからこそ嘘だとわかり「へぇ」とだけ返してそれ以上は追及せず、代わりに別の質問をする。
「アンタら仕事は?」
「自営業」
ジャックが答える。
「ざっくりしてるねぇ」
「色々やるからな」
「例えば?」
一歩踏み込む。
「色々」
「例えば?」
「色々」
「何だいそりゃ」
マーサは笑い、ジャックも笑うが目だけは笑っておらず、オリオンは最初から笑っていない。リリィだけがお菓子を食べていて、妙なほど平和で、だからこそ不自然だった。
「そういや、アンタら、まったくの正反対に見えるけど。いったい、どこで知り合ったんだい?」
沈黙が流れ、今度は長く続く。ジャックがオリオンを見て、オリオンがジャックを見る。二人とも答えを持っていない顔をしているが、実際には持っていて言えないのだとマーサは悟り、普通じゃない、本当に普通じゃないと確信する。そしてようやくすべてが繋がった。親が消え、現れた男が二人、正体も仕事も知り合った経緯も言わないが、リリィだけは守っている――まるで罪滅ぼしみたいに。
マーサは深く息を吐き、あまりにも自然な口調で言う。
「アンタら、人殺しだね?」
静まり返る中、リリィだけがクッキーを食べていて、ぽり、という音だけが響く。ジャックが瞬きをし、オリオンは額を押さえ、数秒後にジャックが感心したように言った。
「あんたすげぇな! 理解が早くて助かるぜ!」
オリオンが即座に返す。
「大問題だろう……」
マーサは思わず吹き出した。否定しないどころか「理解が早くて助かる」ということは間違いなく正解で、信じられない話だったが、なぜだろう、驚きより先に妙な納得があった。
だからマーサは慌ても悲鳴も上げず、警察を呼ぼうともしなかった。ただ静かに三人を見つめると、オリオンは頭を抱え、ジャックは困ったように笑い、リリィだけが事情を理解していない様子だった。
「リリィ」
マーサは優しく呼ぶ。
「なあに?」
「この二人、悪い人かい?」
リリィは首を傾げ、質問の意図がわからないまま笑った。
「ちがうよ」
即答だった。
「でも、人を殺したことがあるかもしれないよ?」
その言葉に初めてリリィの表情が曇り、マーサはそのわずかな怒りを見逃さなかった。
「だめ」
小さな声に、オリオンもジャックも揃ってリリィを見つめた。
「リリィ」
ジャックが呼ぶが、リリィは首を振る。
「だめ」
もう一度、今度は少し強く言った。
「オリオンもジャックもわるくない」
部屋が静まり返る中、リリィは二人を見て当然のように続けた。
「ごはんつくってくれた」の言葉でオリオンが固まり「いっしょにいてくれた」の一言で、ジャックから笑顔が消える。
「おはなししてくれた。おこらなかった」
それでも、リリィは止まらない。
「おたんじょうび、いわってくれたの。『ハッピーバースデー』って、いってくれたの。……はじめてなの」
その言葉に、マーサもオリオンもジャックも、言葉を失った。リリィ自身は気付いていないが、その言葉だけでこの子がどんな生活をしてきたのか、今までどれだけ寂しくてこの二人にどれだけ救われたのかが、すべて伝わってしまった。
リリィは俯いて小さな拳を握り「だから」と、少し震える声で言う。
「おねがい。わるくいわないで」
その瞬間、マーサは理解した。この子は守られていただけでなく、すでにこの二人を守ろうとしているのだと。たとえ相手が大人でも、自分よりずっと強くても、それがリリィなりの恩返しだった。
マーサは長い息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。
「わかったよ」
リリィが顔を上げ、マーサは苦笑した。
「少なくともアンタらが、この子を大事にしてるのはよくわかった」
オリオンが何か言いかけるが言葉にならず、ジャックも珍しく黙っている。マーサは肩を竦めて「まったく」と 呆れたように、けれどどこか優しく言った。
「人殺しのくせに、子育てのほうが向いてるんじゃないのかい?」
マーサの言葉にオリオンは何も返せず、ジャックは力のない笑いを浮かべていた。