――翌朝。
まだ、空気に夜の名残がわずかに残る時間帯。
同時に陽の暖かさも感じながら、オリオンがゆっくりと目を覚ました時、家の中には何かを焼く軽やかな音と、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂っていた。
一瞬だけ警戒する。
それは、考えるよりも先に、身体が勝手に反応した結果だった。
知らない匂い。知らない音。知らない気配。
普段ならあり得ないはずの違和感が、寝起きの意識を一気に引き上げる。
自分と、ジャックと、リリィ。その三人では、到底あり得ないすべて。
だが数秒後、その理由を思い出した。
……マーサだ。
昨夜、帰っていなかった。彼女はリリィを置いていくことはせず、家の中に留まることを選んでいた。
その事実が頭の中で繋がり、張り詰めていた神経が自然と緩む。オリオンは小さく、だが長く息を吐き、ゆっくりと身体を起こしてから寝室を出た。
その足で、リビングへ向かう。すると、案の定だった。
マーサがキッチンに立っている。
エプロン姿だった。妙に似合っていると、そう思ってしまった自分が腹立たしい。
彼女は、長年使い込まれたような手付きでフライパンを操り、卵を焼いている。
男を殴ったフライパンは、昨日処分したはずなのに。あれはいったいどこから持ってきたのか。などと、どうでもいいことを考えてしまい、オリオンはまた腹立たしく思った。
答えは簡単で、料理を作る前にマーサが自宅から持ってきた、それだけだった。
意識を戻すと、油の弾ける音とともに、焼き上がる香りがさらに強くなった気がする。
その光景は不思議と自然だった。自然過ぎて、逆に違和感があるくらいだ。
ここはリリィの家だったはずだ。それなのに、いつの間にかマーサの家のような空気になっている。馴染んでいる。
「起きたのかい」
振り返りもせずにマーサが言う。
まるで、最初からすべてわかっているような、落ち着いた声だった。
「ああ」
短く返す。
「顔洗ってきな」
当然のように言われる。
オリオンは数秒考えた。反論しようか。「ここは私の家ではないし、マーサの家でもない」と。
つまりは、命令される筋合いもない。それを聞く筋合いもない。
そう思ったのに。
「……わかった」
気付けば従っていた。
自分でも理由はわからない。ただ、逆らう気が起きなかった。それに、違和感も少ない気がした。
洗面所へ向かうその途中、ソファを見るとジャックが寝ていた。
とても豪快に。
毛布を半分落とした状態で、身体を大の字に広げていて、口まで同じように開いている。聞こえる寝息もやたらと大きい。
オリオンは無言で通り過ぎた。
起こす義理はない。落ちないよう、助ける義理もない。
むしろ、そのままにしておくほうが自然だと判断した。
数分後、洗顔を終えて戻る。冷たい水で顔を洗ったことで、意識は完全に覚醒していた。
そのころにはリリィも起きていて、顔を見ると寝癖だらけだった。髪があちこちに跳ねている。だが、逆にその寝癖が、ぐっすりと眠れている証拠に見えた。
「おはよう!」
元気だった。朝から信じられないほど元気だった。大きな声に、きらきらの笑顔。
その声、その存在だけで、部屋の空気が明るくなるような勢いだ。
「おはよう」
オリオンは淡々と返す。
「おはよ!」
リリィはさらに元気よく返す。二度目の挨拶に、どうしたものかと思案すると、マーサが口を開いた。
「おはようございます、だろ?」
その一言で、リリィがぴたりと止まった。
「あ」
気付いた顔をする。
「ほら。言ってみな」
マーサが促す。
「おはようございます!」
慌てて言い直す。
「よろしい」
マーサは満足そうに頷いた。
その様子は、まるで教師のようだった。
オリオンは思う。
ただの近所の住人にしては、自然に溶け込みすぎている。自分とジャックが揃っても、動じないどころか、文句を言ってくる。
本当に、何なんだこの人間は。火とのことを人殺し呼ばわりして――それは間違っていないが――躊躇なくフライパンで殴り、怖がる様子もなく飯を作る。そして、当たり前のように、いる。
そんなことを考えていた時、ソファから呻き声が聞こえた。
「ふあぁ、腹、減った」
ジャックだった。どうやら生きていたらしい。
「さっさと起きな」
マーサが言う。
「あと五分」
ジャックは寝ぼけた声で返す。
「駄目だよ」
「十分」
「駄目」
「十五分」
「何で延びてるんだよ!」
その様子を見て、リリィがくすくすと笑っていた。
「わかった。フライパンを食らいたいんだね? いいね、今なら熱々だよ?」
「そんなもの食らいたくねぇよ!」
「なら起きな」
淡々としたやり取りの末、ジャックは諦めたように起き上がると、眠たそうな顔に、ソファのエンボス模様をつけていた。
リリィがそれを見て笑い、マーサもつられて笑った。
オリオンだけが黙っていた。
だが。悪くないと思ってしまった。この、騒がしくも穏やかな朝の光景を。
本当に少しだけだ。だが、そんな自分に気付いてしまい、オリオンは小さく眉をひそめていた。
――朝食を終えたころには、窓から差し込む陽射しもすっかり強くなっていた。
リリィはマーサに髪を梳かれており、最初は嫌そうにしていたくせに、今ではすっかり大人しくなっている。その様子を眺めながらジャックはコーヒーを飲み、オリオンは窓の外を見ていた。
昨夜侵入した男から、聞いた名前が頭から離れない。
ハロルド――たったひとつの名前だが、それだけで十分だった。その名が持つ意味も、そこに繋がる過去も、すべてが重くのしかかってくる。静かな朝の空気の中で、その重さだけが角を立てて浮かび上がっていた。
「出るぞ」
オリオンが言うと、ジャックが顔を上げる。
「今から?」
「ああ」
その返事を聞いて、ジャックは肩を竦める。
「うちの大黒柱は、超働き者だな」
「……お前も来るんだ」
「だと思った」
軽い口調だったが、その目は笑っていない。昨夜からずっとそうだった。
ハロルド――その名前は、二人にとってそれだけの重さを持っている。軽く扱えるものではないと互いに分かっているからこそ、余計な言葉は交わさない。
「どこいくの?」
リリィが尋ね、マーサは髪を結びながら耳を傾けていた。
「仕事だ」
オリオンが答える。
「すぐ帰る?」
「……多分な」
煮え切らない態度に、リリィは首を傾げる。
「たぶん?」
「多分だ」
リリィは少しだけ不満そうな顔をするが、決して引き留めはせず、代わりに小さく手を振っている。
「いってらっしゃい」
その言葉に、オリオンは一瞬だけ動きを止めるそれはジャックも同じだった。「いってらっしゃい」という言葉。それは、帰ってくる人間に向ける言葉であり、待つ人間がいるから成立する言葉だ。だからこそ少しだけ胸の奥がざわつく。自分たちには縁遠いはずだった温もりが、今は確かにここにあった。
「ああ」
オリオンは短く答える。
「行ってくる」
「良い子に待ってるんだぞ、プリンセス!」
その言葉に、リリィはパジャマの裾を掴み、足をまげてお辞儀をした。
「立派なプリンセスだ!」
ジャックは笑い、そして二人は家を出る。
扉が閉まるその時まで、朝の空気は穏やかだったが、歩き始めた瞬間に空気が変わる。リリィもマーサもいない。残るのはオリオンとジャックだけだった。背後に残した温もりが遠ざかるほどに、現実が輪郭を取り戻していく。
「で?」
ジャックが言う。
「どこから当たるつもりだ?」
「まず情報屋だ」
ジャックは頷く。
「やっぱりか」
「ハロルドが動いている理由を知る」
オリオンは迷いなく真っ直ぐ前を見る。その視線の先には、避けて通れない何かがあると気付いていた。
「リリィのために?」
揶揄うようにジャックは聞く。数秒の沈黙のあと、結局、オリオンは答えなかった。だがジャックは笑う。答えを聞く必要はなかった。昨夜、リリィの元へ帰宅した時点で、もうわかっていたからだ。
街の外れにあるその店は、昼間だというのに薄暗く、看板は色褪せていて、窓ガラスは埃を被っている。営業しているのかどうかすらわからないが、それでもオリオンは迷わず扉を開いた。
古びたベルが鳴り、乾いた音が店内に響く。外見を裏切らず、中に客の姿はない。店内に並んだ棚には、古本やレコードの他に、得体の知れない置物が雑多に積まれている。そのラインナップに統一感はなく、価値があるのかもわからないが、この店を訪れる人間は商品を買いに来るわけではなかった。