第4話:同じ家を目指して

We Killed Our Sweetheart

 * * *

 ――住所に書かれていた住宅街は、細身の男が想像していたよりも、ずっと静かな場所だった。

 繁華街から車で三十分ほど離れただけだというのに、夜の空気は別の街のように穏やかで、遠くから聞こえてくるのは犬の鳴き声と、同じように通りを流れる車のエンジン音くらいしかなかった。そのため、男の感じる静けさはいっそう際立っていた。
 街灯の明かりは弱かったが、それでも、等間隔に並んだ一軒家の影を長く道路へ落としており、その光景はどこにでもある平凡な住宅街そのものに見えた。

 男はその中の一軒を見上げる。等間隔に並んだ一軒家から、少し離れた場所にある、仲間外れの、家。

 それは白い外壁に小さな庭があり、郵便受けと車庫まで備えた、ごくありふれた家だった。特別なものは、何もないように思えた。

 少なくとも、表面上はそうだった。
 男は向かい側の歩道へ立ったまま、しばらく家を観察していたが、焦る必要はないと感じていた。
 時間なら十分にあるし、状況を確認してから動いたとしても、まったく遅くはないと考えていたからだ。

 やがて、一台の車が近付いてくる。
 それ自体は、住宅街では珍しくない光景だったが、その車は家の前で停まったため、男は自然と注意を向けた。

 運転席から男が降り、続いて助手席から女が降りる。

 そして、後部座席からは小さな何かが運び出された。
 それは買い物袋には見えず――少なくとも、男にはそう見えなかった。

 家の中へ戻っていく素振りを見せない夫婦を見つめながら、男はポケットから煙草を取り出す。
 しかし火は点けず、ただ指先で回していた。それは彼が、考え事をしている時の癖だった。

 そんな時、一人の男が夫婦に近付いた。ポケットから何か取り出して女に渡すと、小さな何かを受け取ってその場を去った。
 辺りを気にしながら去っていく男を見て「薬の売買をしている」と確信した。

 情報屋は正しかった。

 これは偶然ではなく、勘違いでもない。間違いなく、この家から薬が流れている。この家の夫婦が、薬をばらまいている。
 そう確信した男は、再び家を見上げた。
 二階の一部屋。カーテンの隙間から灯りが漏れており、その姿はどこから見ても普通の家だった。

 普通に見える。
 だが普通の人間は、薬を売らない。

 男は煙草をポケットへ戻した。
 確認は終わった。後は仕事をするだけだった。

 ***

 ――大柄の男は、住宅街の角にあるダイナーの窓際席へ腰を下ろしながら、メニューも開かないままコーヒーをひとつ注文した。
 夜も遅い時間だったが、店内にはまだ数人の客が残っている。

 仕事帰りらしい男。
 デート中の若いカップル。
 一人で新聞を読んでいる老人。
 どこにでもある、普通の夜の風景だった。

 男はそうした光景を眺めながら、時折窓の外へ視線を向ける。
 目的の家は、遠かったものの辛うじてそこから見えていた。

 このダイナーに入る前、わざわざ一度目の前を通り過ぎて見送った、白い外壁に小さな庭のある、何の変哲もない住宅。
 渡された情報が正しければ、あそこが薬の流通拠点だった。

「お待たせしました!」

 ウェイトレスがコーヒーを置く。男は笑顔で礼を言った。
 その笑顔だけを見れば、誰も彼を危険な人間だとは思わないだろう。
 ——たとえば、人殺し、とか。

 実際、ウェイトレスもそうだった。

「お兄さん、見ない顔ね。この辺りに住んでるの?」
「いや、ちょっと仕事でね」
「営業?」
「すごいね! あぁ、似たようなものかな。この辺の家を調べていてね。価格が高騰してるそうだから、こっそり偵察だよ」

 男はもっともらしい言葉を並べて、わざとらしく双眼鏡を取り出した。
 ウェイトレスは「大事な商売道具ね」と声をかけて、笑いながら去っていった。

 男が真顔でコーヒーを一口飲み、双眼鏡を構えたその時だった。

 目的の家の前へ一台の車が停まり、運転席から男が、助手席から女が降りた。
 後部座席から何かを下ろし、家の中には入らず、なぜか玄関付近でウロウロしている。
 そこへ一人の男がやってくると、女と簡単なやり取りをして、挙動不審のままどこかへ去っていった。

 短い時間での出来事。だが、十分だった。
 男は、窓越しにその様子を眺めながら、小さく息を吐く。

「趣味が悪いな」

 誰に向けた言葉でもない、ただの感想だった。
 男は、薬が嫌いだった。

 人を壊す。
 考える力を奪う。
 そして何より、自分の芸術を台無しにする。

 だから嫌いだった。

 男は再び家を見る。夫婦はまだ家の前にいたが、二階の一部屋、カーテンの隙間から灯りが漏れている。
 それ以外は、静かな家だった。
 考えていたとおり、どこにでもありそうな家だった。
 だが、その中にいる人間までありふれているとは限らない。

 男は、冷め始めたコーヒーへ口を付ける。

 情報は正しかった。
 ならば後は簡単だ。
 あれを素材にして、作品を仕上げるだけだった。

 ダイナーを出た大柄の男は、コートの襟を立て、ダイナーで買った紙ナプキンを指先で弄びながら、店の前でぼんやりと夜空を見上げている。
 いつもなら、イヤフォンに音楽でも流したくなる時間だったが、なぜか今夜はそんな気分にはなれなかった。

 昼間なら子供たちの声が響いていたであろうこの通りも、この時間になると静まり返っており、聞こえてくるのは遠くの車の走行音と、どこかの家で吠える犬の鳴き声くらいしかない。
 街灯の明かりは弱く、人影も少ないため、普段なら見過ごしてしまうような小さな違和感でさえ、この静寂の中では妙に際立って感じられた。

「嫌いだよ」

 そう言って、男は紙ナプキンをクシャリと潰す。それはまるで、ひとつの命が壊れる様に見えた。
 紙ナプキンをゴミ箱へ捨てると、そのままポケットへ手を入れる。指先に当たるのは、よく慣れた拳銃の輪郭だった。
 愛おしそうにひと撫でし、男は手を出してゆっくりと歩き始めた。

「芸術は、誰にでも平等であるべきだ」

 小さく一言呟いて。

 男は歩きながらふと足を止めたが、その理由を、自分でもうまく説明できなかった。ただ、背中に何かを感じたのだ。
 それが視線なのか、気配なのか、あるいは匂いのようなものなのかはわからない。言葉にできない、説明のつかない何かだった。
 男はゆっくりと振り返る。

 だが、そこには誰の姿もなく、住宅街の道が真っ直ぐ闇の中へ伸びているだけだった。

「……気のせいか」

 そう呟きながら前を向き、男は再び歩き出した。

 ――そのころ、一本隣の路地では、別の男が同じように足を止めていた。

 街灯の影に身を置きながら、住宅街の奥へ視線を向ける彼もまた、理由は同じだった。
 何かがいる気がしたのだ。説明できない何かが、すぐ近くに潜んでいるような感覚だけがあった。

 細身の男は、ゆっくり振り返る。

 しかし、やはり誰もおらず、そこにあるのは静まり返った夜の住宅街だけだった。

 男は数秒だけ考え込んだものの、やがて小さく肩をすくめる。

 考えるだけ無駄だ。
 やるべきことは決まっている。

 そう考えて、だが口には出さないまま、細身の男は歩き出した。
 気になることがあったというのに、焦る様子は一切なく、足取りは一定で、呼吸も乱れていない。

 仕事の前だからだ。
 長年繰り返してきた、習慣のようなものだった。

 コートの内側へ手を入れ、ゆっくりと優しく、拳銃へ触れる。
 冷たくて硬い感触が、そっと指先へ伝わってくる。

 男は再び前を向く。目的地はもう近い。

 ただの仕事だ。ちょいと右目に、この弾をぶち込むだけで良い。それがいつものやり方で、男の美学だった。
 そう考えているにもかかわらず、なぜか先ほど見た家の灯りが、頭から離れなかった。

 男は理由を考えたが、すぐにやめた。
 理由など必要ない。仕事に感情は要らない。

 だから男は、あの夫婦の元に向かって歩き続ける。

 ――それぞれの夜は静かに進み、やがて同じ場所へ辿り着こうとしていた。


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