仕事だった。だから、喋れば死ぬ。いや、この状態では、喋らなくても死ぬかもしれない。
それでも喋らない――それが自分に課された唯一のルールであり、最後の拠り所だった。
ジャックは小さく笑い、ゆっくりと立ち上がる。
「そうか。一応真面目に仕事はしてんだな。えらいもんだ」
その声にはわずかな期待も失望もなく、ただ事実を受け入れたような響きだけがあった。
「じゃあ、少し時間かかるな」
その言葉を聞いた瞬間、男はようやく理解した。
ここから先に待っているものが、いったい何なのかを。
そして同時に、マーサのフライパンで殴られたあの痛みが、どれほど優しく、どれほど救いのあるものだったのか。ということを、取り返しのつかない形で思い知らされたのだった。
――時間の感覚はすでに曖昧で、どれだけ経ったのかわからない。数分かもしれないし数時間かもしれないが、ただ確かなのは、男の目の前にいる二人が、ただの一度も声を荒げていないということだった。
怒鳴らず脅さず、必要以上に手も出さない、それなのに男は、これまで経験したどんな尋問よりも恐怖を感じていた。
「もう一度聞く」
オリオンが静かな声で言う。
「誰の命令だ」
男は口を閉ざしたまま動かない。
ジャックが近くの椅子へ腰掛け、足を組み、まるで雑談でもするような気軽さで口を開く。
「なあ、お前、家族いるか?」
男は反応しないが、ジャックは構わず続ける。
「いるだろ? そういう顔してる」
沈黙が流れる。
「嫁か? 恋人? それとも子供か?」
その瞬間、男の肩が僅かに動き、ジャックはそれを見逃さずに笑ったが、オリオンは何も言わないまま静かに見ていた。
「そっか、やっぱりいるんだな」
男は歯を食いしばり、わずかでも反応してしまったことを悔やむ。
「だったら、わかるだろ」
ジャックの声が少しだけ低くなる。
「七歳のガキを狙う仕事が、どれだけ最低か」
男もオリオンも黙り込み、アトリエの空気だけが重く沈んでいく。
やがて男が小さく息を吐き、諦めたように口を開いた。
「……回収だ」
初めて言葉が漏れ、オリオンが顔を上げる。
「何?」
「殺害じゃない、回収命令だった」
男は俯いたまま続ける。男の声の余韻だけ残り、辺りはまた静寂に包まれた。
沈黙の中で、オリオンが問いかける。
「誰を」
答えは明白だったが、それでも確認のために聞く。
男は、ゆっくり目を閉じてから言った。
「リリィだ」
その名前が出た瞬間、空気が変わり、ジャックの笑顔が消え、オリオンの目が細くなる。
男は初めて理解した、自分は失言したのではなく、地雷を踏んだのだと。どう考えても、答えはひとつしかない。せめて、言葉を選ぶべきだったと男は一瞬思ったが、選ぶべき他の選択肢を、あいにく持ち合わせていなかった。
「なぜだ」
オリオンが、今度は今まで以上に冷めた声で聞く。
が、男は首を振った。
「知らない」
「嘘だな」
「本当だ!」
男は即答し、震える声で続ける。
「俺たちは末端だ、ただ連れて来いと言われただけだ」
「誰に」
「知らない!」
「誰から命令を受けた」
長い沈黙の末、男は迷い、そして諦めたように口を開く。
「……ハロルド」
その名前が落ち、オリオンとジャックが視線を交わす。知っている名前だった、それだけで十分だった。
男は項垂れ、すべて終わったと思ったが、オリオンが次に聞いた言葉だけは予想外だった。
「何人来る」
男は顔を上げる。
「何?」
「次だ、次は何人来る」
オリオンはそう言い、男はそこで理解した、この二人は逃げないし隠れないし、そのうえでリリィを渡さない。……最初から、そのつもりなのだと。
男は乾いた笑いを漏らし、そして小さく答える。
「だから。俺は下っ端だ。……わかるだろ?」
男が吐き出すように言ったその言葉には、どこか諦めにも似た響きが混じっていた。オリオンはその声音を聞き取りながらも、それ以上深く踏み込むことはしなかった。問い詰めたところで、これ以上の情報は引き出せない――そんな確信があったからだ。
ジャックもまた、何も言わずにその場にいた。軽口を叩くこともなく、ただ静かに状況を見極めている。
これ以上は出ない。少なくとも、今夜は。その事実を、二人は言葉にせずとも理解していた。
やがて、アトリエの中に重たい沈黙がゆっくりと降りてくる。空気が張り詰め、時間さえも止まったかのように感じられた。
その静寂を破るように、オリオンが壁にもたれていた身体をゆっくりと離した。
「帰るぞ」
それは短く、しかし迷いのない言葉だった。
男は思わず顔を上げる。「帰る」という言葉の意味が、すぐには理解できなかったからだ。
ジャックもそれに続くように立ち上がり、大きく腕を伸ばして身体をほぐす。
「あんまり遅いと、マーサに怒られそうだもんな」
「帰ったかもしれないだろう」
「おいおい、マーサがリリィ一人にすると思うか? で、どうする?」
軽い調子で問いかける。
「どうする、とは?」
オリオンが視線だけで返す。
「こいつ」
ジャックは顎で男を示した。
その仕草に、男は反射的に身構える。逃げ場のない状況で、次に何が起こるのかを必死に考えていた。
オリオンは数秒だけ考え込むように沈黙した。そして、あっさりと口を開く。
「好きにしろ」
その一言はあまりにも簡潔で、男には理解が追いつかなかった。
好きにしろとはどういう意味なのか。
殺されるのか、それとも見逃されるのか。それとも、もっと別の何かがあるのか。
「聞いただろ?」
ジャックが口元に笑みを浮かべながら言う。
「今日は気分がいい」
男は何も言えずに黙り込む。その言葉の真意がまるで掴めない。
ジャックは肩をすくめ、どこか楽しげに続けた。
「旨いシチュー食ったしな」
その理由に、男はますます混乱するばかりだった。
だがオリオンは、その意味を理解しているらしく、小さくため息を吐くだけだった。
やがて二人は、何事もなかったかのようにアトリエを後にする。
外へ出ると、ひんやりとした夜風が頬を優しく撫でた。辺りは静まり返り、遠くで犬が一声鳴く音だけが響いている。
それ以外には、何もない静かな夜だった。
「ハロルド、か」
オリオンがぽつりと呟く。
ジャックは鼻を鳴らし、少しだけ顔をしかめた。
「面倒なのが出てきたな」
「あいつが動いているなら、末端だけじゃ終わらない」
「だろうな」
二人は並んで歩き出す。その足取りは決して軽くはなかったが、迷いは一切なかった。
帰る場所がある。待っている人がいる。それだけで、十分だった。
やがてリリィの家へと戻る。窓から漏れる灯りはまだ消えていなかった。
静かに扉を開けると、リビングにはマーサの姿があった。椅子に座ったまま、うたた寝をしている。
テーブルの上には綺麗に洗われた食器が並び、その傍らの椅子の上には、一枚の毛布が置かれていた。
その光景を見て、ジャックが小さく笑う。
「な? 帰らないって言っただろ?」
「そうだな」
オリオンは静かに毛布を手に取り、そっとマーサの肩へとかけた。彼女は目を覚ますことなく、穏やかな寝息を立て続けている。
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、それから無言のままリリィの部屋へと向かった。
扉をほんの少しだけ開けると、小さく規則正しい寝息が聞こえてくる。
ベッドの上で丸くなりながら、リリィは深く眠っていた。
何も知らずに。
何も気付かずに。
ただ、幸せそうに。
オリオンはしばらくその姿を見つめ続ける。ジャックも何も言わず、その静かな時間を共有していた。
やがて、オリオンが静かに口を開く。
「渡すべきじゃない」
その言葉は短かったが、そこに込められた決意は揺るぎないものだった。
ジャックはそれを聞いて、今度は昼間のような柔らかな笑顔を浮かべる。
「ああ」
そして、ゆっくりと続けた。
「誰にもな」
夜は静かに、しかし確実に更けていく。だがその裏で、大きな嵐はすぐそこまで迫っていた。