人生で初めてだった。他人様の食卓を前にして、こんなにも羨ましいと感じてしまうなんて、自分でも信じられなかった。温かな料理の香り、穏やかな会話、笑い声――それらすべてが、これまでに自分が知った世界とは、あまりにも違っていた。
やがて食事は終わりを迎える。
皿と皿の触れ合う軽やかな音が、静かに響く。椅子が床を擦る音が続き、誰かの立ち上がる気配が男にも伝わってくる。
男はその間も、相変わらず気絶したふりを続けていた。
ここまで来てしまった以上、途中でやめるわけにはいかない。最後までこの芝居を貫き通すしかない――そんな決意を胸に秘めていた。
「リリィ」
オリオンの落ち着いた声が聞こえる。
「なあに?」
無邪気な返事が返ってくる。
「歯を磨いて風呂に入れ。そしたらすぐに寝る時間だ」
「えー! やだ!」
「駄目だ」
「えー」
「駄目だ」
「ぶう!」
そのやり取りを聞きながら、男は目を閉じたまま思った。
……俺はいったい、何を聞かされているのだろう。
確か、自分は潜入任務の最中だったはずだ。それなのに、まるで普通の家庭の一場面を覗き見しているような気分になる。
「マーサおばちゃん」
「はいはい」
「おふろいってくる!」
「一人で入れるのかい?」
「はいれるよ!」
小さな足音がぱたぱたと遠ざかっていく。
やがて家の中は、ゆっくりと静寂に包まれていった。
その瞬間だった。
空気が変わる。本当に、一瞬の出来事だった。
つい先ほどまで食卓を囲み、穏やかな時間を共有していた人間たちと、同じ存在とは思えないほどの変化だった。
男は目を閉じたまま、その異変をはっきりと理解する。
終わった。
自分は、ここで終わるのだと。
「起きろ」
オリオンの声が響く。低く、そして冷たい声だ。リリィに向けていたものとは、まったく違う。
男は動かない。まだいける。まだ誤魔化せるはずだ、ここまで動かなかったのだから。
そう自分に言い聞かせる。
「いい加減起きろよな」
今度はジャックの声だった。笑っている。だが、その笑い方は、食卓で見せていたものとはまるで違う。
男の背筋に、ぞくりとした冷たいものが走った。
「起きてるだろ」
沈黙が流れる。
「仕方ねぇな。三秒やる」
ジャックが淡々と言う。
「起きなかったら、残念だがオリオンに任せる」
その言葉を聞いた瞬間、男は即座に目を開けた。限られた選択肢の中で、それが最善の選択だと、本能的に判断したからだ。
男が起き上がったのを見て、オリオンが小さく舌打ちする。
「つまらないな」
「まぁ、起きたからな」
「……そうだな」
ジャックは笑った。楽しそうに、それも、心の底から愉快そうに。
その笑顔を見て、男は初めて理解する。この二人は危険だと。
マーサとはまた別の意味で。
もっと根本的に、もっと救いようがなく、どうしようもなく危険な存在だった。
「さて」
ジャックがゆっくりとしゃがみ込み、男と視線を合わせる。
「ちょっと、俺たちとお話しよっか」
その笑顔を真正面から見た瞬間、男は心の底から後悔した。
あの時――マーサに殴られたあの瞬間、あの一撃に意識を揺さぶられながらも、何も考えずにただ本能のまま逃げ出していればよかったのだと。否、逃げ出すべきだったと。
今さら、もうどうしようもない後悔が、胸の奥からじわじわと滲み出してきて、男はそれを押し殺すこともできずにただ飲み込むしかなかった。
だが、どれだけ悔やんだところで現実は一切変わらず、時間が巻き戻ることもなければ、選択をやり直すこともできない――という当たり前の事実だけが、男に対し冷たくそして、残酷に突きつけられていた。
男は両腕をきつく縛られたまま、逃げ場のない車の後部座席へと押し込まれ、身動きひとつ取れない状態で、ただ座らされているしかなかった。
運転席ではオリオンが無言でハンドルを握り、助手席にはジャックが座って窓の外をぼんやりと眺めている。が、そのどちらからも感情の気配は感じられず、まるでこの状況そのものが、彼らにとっては日常の一部であるかのようだった。
車内には、会話はおろかラジオの音すら流れておらず、ただタイヤがアスファルトを擦る単調な音だけが延々と響き続け、その音がかえって男の不安と恐怖を増幅させていく。
男は何度も、ほんのわずかな隙でもあれば、逃げ出せるのではないかと考え、視線を動かし、身体をわずかに揺らしながら機会を探ろうとした。だが、そのたびに無意味であることを、嫌というほど思い知らされるだけだった。
オリオンは、バックミラー越しにこちらを見ているようで見ていないような、しかし確実にすべてを把握している視線を向けている。ジャックといえば、外を見ているだけのようでいて、いつでも動ける余裕を漂わせている。
そのどちらもが『逃げようとした瞬間に何が起こるか』を無言で告げているようで、男は結局一歩も踏み出せないまま、ただ座り続けるしかなかった。
逃げた瞬間に殺される――その確信だけが、理由もなく、それなのに疑いようもない状態で胸の奥に根を張り、思考を縛りつけていた。
やがて車がゆっくりと減速し、完全に停止したとき、男の中で何かが終わったような感覚が広がる。
ドアが開けられ、抵抗する間もなく外へと引きずり出されると、男は反射的に顔を上げた。
そこにあったのは、古びて色褪せた建物。倉庫のようにも見えれば工房のようにも見える、用途の判然としない不気味な外観をしていたが、男はそれを見た瞬間に理解してしまった。
ここが何なのかを。
名前は知らない、場所も知らない、だが確かに耳にしたことがある――都市伝説のように語られる、決して近づいてはならない場所の話を。
芸術家、死体収集家、狂人――いくつもの呼び名がありながら、そのすべてが同じ一人の男を指しているという噂。
そして、その男が今まさに目の前にいる。
ジャック。
「お、おい」
震える声が、自分のものとは思えないほどか細く漏れた。
「お前、まさか……」
その言葉の続きを言い切る前に、ジャックは楽しげに口元を歪めて答える。
「そのまさか――って言ったら、あんたどうする?」
その一言で、男の身体から血の気が一気に引いていくのがわかった。
建物の中へと連れて行かれ、重い扉が開かれた瞬間、外とは明らかに違う冷たい空気が流れ出し、男の肌を刺すように触れる。
思わず顔を上げた男の視界に飛び込んできた光景に、呼吸が止まり、言葉を失った。
そこには、静かに、整然と、無数のそれが並べられていた。
まるで展示物のように、意味もなく、しかし確かな意図をもって配置されたそれらは、見る者の理解を拒むかのようにただそこに存在している。
男は声を出すことすらできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
噂の人物は、本当に存在していた。死体を花と絵具で彩り、額縁をかけて作品にする。今目の前に、その作品がある。
つまりは、ここへ連れてこられたということは――
ジャックはその様子を見て、心底楽しそうに笑う。
「歓迎するぜ。ようこそ! 俺のアトリエへ」
その声だけが妙に明るく、場違いなほど軽やかで、それがかえってこの場所の異常さを際立たせていた。
「あの時は、綺麗に片付けていたのか?」
「作品がずいぶん増えたから、整理してた途中だったんだよ」
「……リリィに見せる羽目にならなくてよかった」
「俺もそう思うぜ。あの子にゃまだ刺激が強すぎる」
「まだ、じゃない。これからも、だ」
オリオンは壁に寄りかかり、腕を組みながら短く言う。
「さぁ、質問の時間だ」
そう言われても、男は何も答えないし、答えられない。喉が締め付けられるように固まり、言葉が出てこない。
男の状態を見ても、オリオンは淡々と続ける。
「誰の命令だ」
沈黙が落ちる。
男は口を閉ざしたまま、ただ視線を落とす。