キッチンには甘い香りが少しずつ広がり始める。
銃声も悲鳴もない。
聞こえるのは、泡立て器がボウルを叩く音と、三人の何気ないやり取りだけ。
その時間は、不思議なほど静かで、温かなものだった。
時々粉が舞い、液が零れ、余熱で焦げたニオイが広がったものの、概ね順調に目的の者は仕上がっていく。
――やがて、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「ただいまー!」
リリィの元気な声が家の中へ響く。
しかし、返事はない。
「あれ?」
靴を脱ぎながら首を傾げる。
いつもなら「おかえり」と返ってくるはずなのに、今日はやけに静かだった。
不思議に思いながらも、廊下へ一歩足を踏み入れる。
家の中は薄暗く、リビングから漏れてくるはずの明かりも見えない。
「マーサ?」
「ジャック?」
「オリオン?」
一人ずつ名前を呼んでみる。それでも、返事はなかった。
リリィは少しだけ不安そうな表情を浮かべながら、ゆっくりとリビングの扉へ手を掛ける。
「……入るよ?」
静かに扉を開けた、その瞬間だった。
――パッ。
部屋の明かりが一斉に灯る。
「ハッピーバースデー!」
三人の声が重なった。
テーブルの上には、大きな丸いケーキが置かれている。
白い生クリームに、少しだけ歪んだデコレーション。
形は決して完璧ではない。
けれど、一目見ただけでわかった。これは、お店で買ったものではなく、誰かが一生懸命作ってくれたケーキだと。
リリィはその場で立ち尽くす。
視線はケーキから動かない。
甘い香りが鼻をくすぐる。
その香りは、不意に遠い記憶を呼び起こした。
――七歳の誕生日。
独りで不格好なパンのケーキを作り、家の中で待ち続けた両親は死んだ。
そのことにも気づかず、夜遅く一人「ハッピーバースデー」を謡う自分に、外からかけられた二人の声。
それが、初めての誕生祝いだった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。気付けば、目には涙が滲んでいた。
あの日は、もう戻らない。
父も母も、もうここにはいない。
リリィは小さく俯き、唇を噛み締める。
その時だった。
「なぁ、リリィ」
ジャックが、少し照れ臭そうに頭を掻きながら笑う。
「そんな顔するなよ」
「クリーム塗るの、俺結構頑張ったんだからさ」
その隣では、マーサが腕を組みながら微笑んでいる。
「味は保証するよ。なんたって、材料を揃えたのも、計量したのもあたしだからね」
「途中の味見でなくなるかと思ったよ」
「おいおい! それは大袈裟だって! 味見ってちょっとだけだぞ?」
「嘘言うんじゃないよ! 一人で四回も味見してたじゃないか!」
「それは! ……意外と、美味しかったから……」
二人のやり取りに、リリィは思わず顔をほころばせた。
その可愛らしい笑い声につられるように、オリオンも静かに口元を緩める。
ほんのわずか。
それでも、確かに笑っていた。
リリィは涙を指先で拭うと、もう一度ケーキを見つめる。
そして、今度はゆっくりと笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」
その言葉には、亡き両親への想いも、今ここにいる三人への感謝も、すべてが込められていた。
マーサは穏やかに微笑むと、ケーキの中央へ並んだ八本のろうそくへ一本ずつ火を灯していく。
小さな炎が揺れ始めると、部屋の空気まで柔らかく温まったような気がした。
「ほら」
「お願いごとをするんだよ。うちじゃあ、誕生日には毎年、その年のお願い事をしたもんさ」
マーサに促され、リリィはろうそくの前へ座る。
小さく息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
……去年の今日、この願いは叶わないと思っていた。
待ち続けた人はもう二度と帰ってこず、一人ぼっちになってしまった自分には、もう誕生日を祝う日なんて来ないのだと。
けれど今は違う。
リリィは静かに目を閉じたまま、小さく呟く。
「お願いごと……」
「みんなと、ずっと一緒にいられますように」
その願いを聞いて、三人は顔を見合わせる。
誰も『もう叶っている』とは言わない。
ただ、自然と笑みが零れた。
「よし!」
ジャックが勢いよく立ち上がる。
「歌うぞ!」
そのまま胸を張り、大きな声で歌い始めた。
「♪ハッピーバースデートゥーユー!」
マーサも楽しそうに手拍子をしながら歌へ加わる。
リビングは一気に賑やかになった。
そんな二人を見ながら、オリオンだけは少し居心地が悪そうに腕を組んでいる。
ジャックが歌いながら視線を向けた。
「オリオン」
「歌え」
「嫌だ」
迷いはなかった。
マーサが笑いながら肘で軽く小突く。
「今日くらい照れるんじゃないよ」
「主役が待ってるだろ? プリンセスの誕生日だぞ?」
オリオンは小さくため息をつき、困ったようにリリィを見る。
その期待に満ちた瞳には、オリオンも勝てなかった。
「……仕方ない」
ぼそりと呟くと、小さな声で歌へ加わる。
「♪ハッピーバースデートゥーユー」
決して大きな声ではない。
けれど、その歌声を聞いたリリィは、心から嬉しそうに笑った。
「せーの!」
ジャックの掛け声に合わせ、リリィは勢いよく息を吹きかける。
ろうそくの火が一本、また一本と消え、最後の灯りがふっと揺れて静かに消えた。
部屋いっぱいに拍手が響く。
「お誕生日、おめでとう!」
三人の声が重なる。
「ありがとう!」
リリィも満面の笑みで答えた。
マーサがケーキを切り分け、皿へ取り分けていく。
ジャックは待ちきれずにフォークを伸ばし、その手をマーサに軽く叩かれる。
「まだだよ」
「一口くらい!」
「駄目」
「ケチ」
「主役がいるんだよ! 子どもの誕生日くらい我慢しな!」
そんなやり取りに、リリィは声を上げて笑う。
オリオンも静かにフォークを手に取り、その笑い声につられるように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
四人は揃ってケーキを頬張る。
「おいしい!」
リリィが目を輝かせる。
ジャックは得意げに胸を張った。
「だろ?」
「ほとんどマーサが作ったじゃないか」
「細かいことは気にするな」
「アンタはクリームを舐めてただけだろ」
「味見は何より重要な仕事だ」
笑い声が重なる。
その笑い声は、家中へ広がり、夜の静けさへ優しく溶けていった。
リリィはフォークを握ったまま、目の前の三人をゆっくりと見渡す。
亡き両親との思い出は、これからもずっと心の中に生き続ける。
そして、その思い出を抱えたまま、新しい思い出もまた、少しずつ増えていくのだろう。
そう思うと、不思議と涙は出なかった。……ただ、胸の奥が温かかった。
ジャックが笑う。
マーサが笑う。
そして、オリオンもまた、照れくさそうに小さく笑った。
その笑顔を見たリリィも、負けないくらい大きな笑顔を浮かべる。
甘いケーキの香りと、四人の笑い声は、夜が更けても途切れることはなかった。
