第37話:ハッピーバースデー(完)

We Killed Our Sweetheart

 キッチンには甘い香りが少しずつ広がり始める。
 銃声も悲鳴もない。
 聞こえるのは、泡立て器がボウルを叩く音と、三人の何気ないやり取りだけ。
 その時間は、不思議なほど静かで、温かなものだった。
 時々粉が舞い、液が零れ、余熱で焦げたニオイが広がったものの、概ね順調に目的の者は仕上がっていく。

 ――やがて、玄関の扉が開く音が聞こえた。

「ただいまー!」

 リリィの元気な声が家の中へ響く。
 しかし、返事はない。

「あれ?」

 靴を脱ぎながら首を傾げる。
 いつもなら「おかえり」と返ってくるはずなのに、今日はやけに静かだった。

 不思議に思いながらも、廊下へ一歩足を踏み入れる。
 家の中は薄暗く、リビングから漏れてくるはずの明かりも見えない。

「マーサ?」
「ジャック?」
「オリオン?」

 一人ずつ名前を呼んでみる。それでも、返事はなかった。
 リリィは少しだけ不安そうな表情を浮かべながら、ゆっくりとリビングの扉へ手を掛ける。

「……入るよ?」

 静かに扉を開けた、その瞬間だった。

 ――パッ。

 部屋の明かりが一斉に灯る。

「ハッピーバースデー!」

 三人の声が重なった。
 テーブルの上には、大きな丸いケーキが置かれている。

 白い生クリームに、少しだけ歪んだデコレーション。
 形は決して完璧ではない。
 けれど、一目見ただけでわかった。これは、お店で買ったものではなく、誰かが一生懸命作ってくれたケーキだと。

 リリィはその場で立ち尽くす。
 視線はケーキから動かない。
 甘い香りが鼻をくすぐる。
 その香りは、不意に遠い記憶を呼び起こした。

 ――七歳の誕生日。

 独りで不格好なパンのケーキを作り、家の中で待ち続けた両親は死んだ。
 そのことにも気づかず、夜遅く一人「ハッピーバースデー」を謡う自分に、外からかけられた二人の声。
 それが、初めての誕生祝いだった。
 
 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。気付けば、目には涙が滲んでいた。

 あの日は、もう戻らない。
 父も母も、もうここにはいない。
 リリィは小さく俯き、唇を噛み締める。

 その時だった。

「なぁ、リリィ」

 ジャックが、少し照れ臭そうに頭を掻きながら笑う。

「そんな顔するなよ」
「クリーム塗るの、俺結構頑張ったんだからさ」

 その隣では、マーサが腕を組みながら微笑んでいる。

「味は保証するよ。なんたって、材料を揃えたのも、計量したのもあたしだからね」
「途中の味見でなくなるかと思ったよ」
「おいおい! それは大袈裟だって! 味見ってちょっとだけだぞ?」
「嘘言うんじゃないよ! 一人で四回も味見してたじゃないか!」
「それは! ……意外と、美味しかったから……」

 二人のやり取りに、リリィは思わず顔をほころばせた。
 その可愛らしい笑い声につられるように、オリオンも静かに口元を緩める。

 ほんのわずか。
 それでも、確かに笑っていた。
 リリィは涙を指先で拭うと、もう一度ケーキを見つめる。
 そして、今度はゆっくりと笑顔を浮かべた。

「……ありがとう」

 その言葉には、亡き両親への想いも、今ここにいる三人への感謝も、すべてが込められていた。

 マーサは穏やかに微笑むと、ケーキの中央へ並んだ八本のろうそくへ一本ずつ火を灯していく。
 小さな炎が揺れ始めると、部屋の空気まで柔らかく温まったような気がした。

「ほら」
「お願いごとをするんだよ。うちじゃあ、誕生日には毎年、その年のお願い事をしたもんさ」

 マーサに促され、リリィはろうそくの前へ座る。
 小さく息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
 ……去年の今日、この願いは叶わないと思っていた。
 待ち続けた人はもう二度と帰ってこず、一人ぼっちになってしまった自分には、もう誕生日を祝う日なんて来ないのだと。

 けれど今は違う。
 リリィは静かに目を閉じたまま、小さく呟く。

「お願いごと……」
「みんなと、ずっと一緒にいられますように」

 その願いを聞いて、三人は顔を見合わせる。
 誰も『もう叶っている』とは言わない。
 ただ、自然と笑みが零れた。

「よし!」

 ジャックが勢いよく立ち上がる。

「歌うぞ!」

 そのまま胸を張り、大きな声で歌い始めた。

「♪ハッピーバースデートゥーユー!」

 マーサも楽しそうに手拍子をしながら歌へ加わる。
 リビングは一気に賑やかになった。
 そんな二人を見ながら、オリオンだけは少し居心地が悪そうに腕を組んでいる。
 ジャックが歌いながら視線を向けた。

「オリオン」
「歌え」
「嫌だ」

 迷いはなかった。

 マーサが笑いながら肘で軽く小突く。

「今日くらい照れるんじゃないよ」
「主役が待ってるだろ? プリンセスの誕生日だぞ?」

 オリオンは小さくため息をつき、困ったようにリリィを見る。
 その期待に満ちた瞳には、オリオンも勝てなかった。

「……仕方ない」

 ぼそりと呟くと、小さな声で歌へ加わる。

「♪ハッピーバースデートゥーユー」

 決して大きな声ではない。
 けれど、その歌声を聞いたリリィは、心から嬉しそうに笑った。

「せーの!」

 ジャックの掛け声に合わせ、リリィは勢いよく息を吹きかける。
 ろうそくの火が一本、また一本と消え、最後の灯りがふっと揺れて静かに消えた。
 部屋いっぱいに拍手が響く。

「お誕生日、おめでとう!」

 三人の声が重なる。

「ありがとう!」

 リリィも満面の笑みで答えた。
 マーサがケーキを切り分け、皿へ取り分けていく。
 ジャックは待ちきれずにフォークを伸ばし、その手をマーサに軽く叩かれる。

「まだだよ」
「一口くらい!」
「駄目」
「ケチ」
「主役がいるんだよ! 子どもの誕生日くらい我慢しな!」

 そんなやり取りに、リリィは声を上げて笑う。
 オリオンも静かにフォークを手に取り、その笑い声につられるように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 四人は揃ってケーキを頬張る。

「おいしい!」

 リリィが目を輝かせる。
 ジャックは得意げに胸を張った。

「だろ?」
「ほとんどマーサが作ったじゃないか」
「細かいことは気にするな」
「アンタはクリームを舐めてただけだろ」
「味見は何より重要な仕事だ」

 笑い声が重なる。
 その笑い声は、家中へ広がり、夜の静けさへ優しく溶けていった。

 リリィはフォークを握ったまま、目の前の三人をゆっくりと見渡す。
 亡き両親との思い出は、これからもずっと心の中に生き続ける。
 そして、その思い出を抱えたまま、新しい思い出もまた、少しずつ増えていくのだろう。

 そう思うと、不思議と涙は出なかった。……ただ、胸の奥が温かかった。

 ジャックが笑う。
 マーサが笑う。
 そして、オリオンもまた、照れくさそうに小さく笑った。

 その笑顔を見たリリィも、負けないくらい大きな笑顔を浮かべる。
 甘いケーキの香りと、四人の笑い声は、夜が更けても途切れることはなかった。


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