長髪の男がようやく我に返る。
「てめぇら!」
怒鳴りながらナイフを構え、マーサへ向かって突っ込んだ。反射的に、マーサは受け取ったばかりのフライパンを振る。
ゴンッ!!
鈍い音とともに男の身体が崩れ落ち、床へ転がる。
再び訪れた沈黙の中で、マーサはフライパンと男を交互に見比べ、もう一度フライパンへ視線を戻した。
「なかなかいいじゃないか」
男が呻きながら起き上がろうとするが、再びフライパンが振り下ろされる。――ゴンッ!! 二発目で男は再び沈み、ジャックが嬉しそうに頷く。
「そうだろ? 最近はこのメーカーばっかり売れてるらしいぜ」
「なるほど。こりゃ軽くて使いやすいね」
「……っ、こ、のっ……!」
ゴンッ!!
三発目で男は完全に動かなくなり、オリオンは男とフライパンを見比べてから、心底疲れたように言った。
「できれば料理に使って欲しい」
マーサは聞いていなかった。が、代わりに足元へ転がる男をつま先で軽くつつき「これ、死んじまったのかい?」と尋ねると、オリオンが答えた。
「いや、生きてる」
「そうかい」
コンッ、と、軽くだがフライパンがもう一度振り下ろされ「もういい」とオリオンが制止する声に対して「確認だよ」と返すマーサには、まったく悪びれた様子はなかった。
床に転がる男が小さく呻き、どうやら本当に生きているらしいとわかると、ジャックが満足そうに頷いた。
「よし、生け捕りだな」
「生け捕り?」
マーサが眉を上げると、ジャックは当然のように「尋問する」と答え、その言葉にマーサはゆっくりとオリオンとジャックの二人を見る。
どちらも真顔で、冗談ではないらしいと悟ったマーサは「……アンタらの無事を祈るよ」と呟いたが、二人は答えなかった。
その時、二階から遠慮がちな声が聞こえる。
「もうおわった?」
リリィだった。
オリオンが即座に顔を上げ「下りてくるな」と言うと、いつものように「なんで?」と返され「玄関が壊れてる」と短く答える。わずかな沈黙が落ち、そして「え?」と困惑した声が返ってきた。
数秒後、結局リリィは階段を下りてきて、途中までは慎重だったが、玄関の惨状を見た瞬間、完全に足が止まる。
吹き飛んだ扉、散らばった木片、床へ転がる男たち、そして新品のフライパン。
「どうしよう……げんかんこわれちゃった」とリリィが呆然と呟くと「そうだな」とジャックが頷き「そうだなじゃないよ!?」と正論が返る。
その時、床へ転がる長髪の男が薄く目を開き、まだ意識があった彼は霞む視界の先に立つ少女を見る。そして首元へ視線を落とし、ペンダントの先にぶら下がる鍵を認めた瞬間、男の顔色が変わった。
今までの混乱も恐怖も、すべて吹き飛んだかのようだった。
「あ……」
掠れた声が漏れ、誰も聞き取れないほど小さな声だったが、オリオンだけは聞き逃さなかった。男は震える指を伸ばし、リリィへ向けて、いやその首元へ向けて差し出す。
「鍵、だ……」
空気が止まり、ジャックの笑みが消え、マーサも男を見る中、リリィだけが事情を理解していない。
「え?」
男は鍵から目を離さず、まるでそれだけを見ているかのようだった。オリオンはゆっくり拳銃を下ろし、そして静かな声で言った。
「……あそこへ連れて行く」
その声に、慈悲はなかった。
――夕方、ジャックのアトリエで、男は椅子へ縛り付けられていた。しかし、手首と足首を逃げられない程度に固定されているだけで、殴られても脅されてもおらず、むしろ拍子抜けするほど静かな空気が流れていた。
部屋の隅では、ジャックがキャンバスへ向かって何かを描いており、中には珍しくオリオンもいて、彼は椅子に座って本を読んでいる。誰も質問せず、誰も怒鳴らず、誰も手を上げないその状況に、男は逆に落ち着かなかった。
「……おい」
返事はない。
「おい」
再び呼ぶと、ジャックがちらりと視線を向けた。が、それだけでまた絵へ戻ってしまう。そんな状況に男は唾を飲み込みながら、この嫌な沈黙に何かが違うと感じ、自分の知っている連中とは違うと内心で警戒を強めていた。
やがて、オリオンが本のページをめくりながら静かな声で言う。
「鍵について知っていることを話せ」
それだけの言葉に、男は鼻で笑う。
「話すと思うか?」
オリオンは肩を竦める。
「別に」
男が眉をひそめる。
「別に?」
「話さなくてもいい」
オリオンは本から目を離さないままそう言い、男は困惑した。これは尋問ではないのか、話さなくてもいいとはどういうことなのか、と、その意図を理解できずにいる。ジャックも何も言わずに筆を動かし続け、紙に筆が擦れる音だけが響く、その静けさが妙に不気味だった。
「……お前らわかってない」
男が呟くが返事はなく、今度は少し強く言う。
「わかってねぇんだよ」
それでも返事はなく、男は苛立ちながらもそれ以上に焦りを募らせ、ついに口を開く。
「あの鍵は売れねぇ」
ジャックの筆がほんの一瞬だけ止まり、オリオンもページをめくる手を止めたが、男はそれに気付かず続ける。
「それどころか、持ってるだけで死ぬ」
静かな部屋の中で、その言葉だけが高く響き、男は青ざめた顔で恐怖を滲ませながら言う。
「お前ら同業だろ。だったら、ガキを連れて逃げろ」
その恐怖は、オリオンでもジャックでもなく、もっと別の何かに向けられており、男は震える声で続けた。
「見つかった時点で終わりなんだ」
男の声は震えていた。先ほどまでの威勢はどこにもない。
ジャックは筆を置き、オリオンも本を閉じた。ここで初めて、二人は男を見る。
男は唾を飲み込んだ。その視線だけで背筋が冷える。同業なのはわかっている。だが、その背負うものが、自分何かとは桁が違うと、たった一瞬で憔悴した。
だが、今さら黙ることもできなかった。自分が、情報を与えたから。
「その鍵は何だ」
オリオンが聞く。
男は数秒迷ったものの、観念したように息を吐く。
「隠し場所だ。……組織の荷物のな」
ジャックが眉を上げる。
「荷物?」
「薬だ」
男は即答した。
「わかるだろ? 大量かつ純度の高い」
男は俯く。
「売り物だ。それを、あの子どもの両親が持ち逃げした」
その言葉に、ジャックとオリオンは顔を見合わせた。予想はしていたが、想像以上に面倒な話だった。
「親は知ってたのか」
ジャックが聞く。
「当然だ」
男は吐き捨てる。
「知らなかったわけがねぇ。あれで粗悪品作ってよ、誰彼構わず売ってたんだからな」
嫌悪が滲む声だった。
「つまり、だ」
ジャックが言う。
「子供は関係ない」
「そうだ」
男は頷く。
「鍵だけだ」
「鍵が欲しい」
「ガキは邪魔なだけだ」
細かく言葉を紡ぎ、無意識に踏み抜く地雷。オリオンの目が冷たくなる。男は気が付いたのか、慌てて視線を逸らした。
……そこから、どれくらいの時間が経っただろうか。オリオンはまた本のページをめくり始め、ジャックは新しい絵を描いている。
何もしてこない二人にしびれを切らしたのか、それとも、話せばわかると思い込もうとしたのか。無謀にも、長髪の男は命乞いを始めた。
「……なぁ。俺、ここから帰れるんだよな?」
二人は何も言わない。
「失敗したことがバレたら、俺もヤバいからな……。安心しろ! アンタたちのことは、誰にも言わない」
ふと、何かを思いついたようにオリオンが席を立つ。
「ジャック」
「何だよ」
「お前の芸術とやらは、今日は作らないのか?」
その言葉に、ジャックは満面の笑みを浮かべると「目の前で? いいのか?」と言って、大きな白い紙を壁に貼り始めた。
「……何を、してるんだ?」
長髪の男が、目を見開いて言う。口元は笑っているが、その目は笑っておらず、動向の奥に恐怖を抱えてた。
大きな額縁がその紙の前に立てかけられ、周りに花を置いている。大きな刷毛に色とりどりの絵具を吸わせては、白い壁に向かって振り抜き、模様としての飛沫を作る。
「土台はこんなもんだ! あとは、その男次第」
男の座る椅子を引きずり、その額縁の前へと座らせる。
「拷問は? するのか?」
「仕上がりが良い場合はそりゃするさ! でもなぁ、今日はちょっと、違う気がするって言うか」
「先日の男は?」
「すっげぇ良い声で泣いてくれた! 焦らした時の目なんか、超最高だったぜ!」
聞こえる物騒な会話が、僅かに芽生えた男の希望を打ち砕く。
「じゃあ、こいつは?」
オリオンの視線が、長髪の男に注がれる。
「い、いや、俺は」
「こいつかぁ。笑顔が似合いそうだな! なぁ、ちょっと笑ってくれよ!」
「ひっ」
目は充血し、いつの間にか両目に涙を湛えている。
「オリオンならどうする? 相変わらず右眼孔狙うのか?」
「あぁ」
オリオンは男の前に立つと、自分の銃を男の右目の前に構えた。
「こうだ」
「やべぇ、そのままだとそいつ泣いちゃう。もっとこう、優しい言葉書けてやれよ! 安心できるようなさ!」
長髪の男は、奥歯をカタカタと鳴らせながら、オリオンとジャックを交互に見つめている。「助けて」と言いたいのに、言葉は一言も出てこなかった。
ジャックの提案に、オリオンはしばらく考えると、目を細めて言った。
「良い子はもう寝る時間だ」
不器用な笑みを僅かに浮かべ、追加で口を開く。男の耳元で、優しく、囁くように。
「おやすみ、ベイビー」
銃声はしない。しかし、男は意識を手放していた。
「本当に寝かしつけるなんて、やるじゃねぇか」
「……私が思ったのと違う」
二人のやり取りは、もう男には聞こえなかった。