第27話:役所の者です

We Killed Our Sweetheart

 マーサは何も言わなかった。
 ただ静かに、ドアスコープから目を離す。その動きは極めてゆっくりで、まるで外の気配に気づかれないためのようだった。呼吸も浅く、音を立てないように意識している。

 予感をとっくに通り越して、確信に変わっていた。
 本当に危険な相手というのは、妙に礼儀正しい。妙に愛想がいい。そして、妙ににこやかなのだ。その笑みの奥にあるものを、マーサは知っていた。

「マーサおばちゃん?」

 後ろから、リリィが不安そうに声を掛ける。その声は小さく、しかし静まり返った室内では嫌でも響いた。
 マーサは振り返る。ほんの一瞬だけ歯噛みし、それから何事もないような顔を作った。

「リリィ」
「なに?」

 リリィは首を傾げる。無垢な瞳がまっすぐにマーサを見ていた。

「二階へ行きな」

 短く、しかしはっきりとした声だった。

「なんで?」

 リリィは一歩近づく。まだ状況を理解していない様子だった。

「いいから」

 その声は穏やかだった。だが、その奥にあるひんやりとしたしこりを、隠しきれていない。それが最善だと、有無を言わせない強さがあった。
 リリィは少し迷う。迷って、視線が玄関とマーサの間を行き来する。それでも、やがて小さく頷いた。

「うん」

 階段へ向かう。リリィは、不安そうに何度もマーサを見た。マーサはその背中をじっと見送り、完全に視界から消えるまで動かなかった。
 やがて静寂が戻り、マーサは再び玄関を見た。視線だけでなく、全身の神経をそこへ集中させる。

 インターホンが鳴る。
 もう一度。ピンポーン。
 今度は少し長かった。押し続ける指の意図が透けて見えるようだった。

「あー、すみません。役所の者です」

 男が繰り返す。その声は先ほどと同じように柔らかいが、どこか作られた響きがある。

 マーサは答えない。
 代わりに、近くにあったスマートフォンへ手を伸ばした。指先がわずかに震えるのを、自分でも感じていた。

 オリオンか、ジャックか。

 どちらへ掛けるか迷う。警察という選択肢はなかった。どちらも頼れるが、時間がない。選択を誤れば、それが致命的になる可能性は拭えない。

 その瞬間だった。
 ガチャ。
 玄関のノブが動く。ゆっくりと、確かめるように。

「おやまぁ」

 マーサが小さく呟く。その声には、驚きより呆れが混じっていた。予想通りだという諦めにも似た響き。役所の人間なんて嘘っぱちで、それ以外の目的がある。

「開けろ」

 さっきまでの愛想の良さは消えていた。冷たく、命令するような声。

「わかるだろ? 仕事なんだ」

 今度は別人のような声だった。感情が削ぎ落とされ、ただ目的だけが残っている。

「おばちゃーん!」

 その時、二階からリリィの声が聞こえた。
 無邪気な声だった。何も知らない、ただの呼びかけ。マーサのことが気になって、つい大声で呼んでしまっただけ。

 男たちも聞いたらしい。玄関の向こうで気配が変わる。空気が一瞬で張り詰めるのがわかる。

 見つかった。
 そう理解した。
 そして次の瞬間。

 ドンッ――!!

 鈍い衝撃が玄関へ叩き付けられた。まるで、外から巨大な何かが叩きつけられたかのように玄関へと響き渡り、その瞬間、家全体がわずかに軋むように震えた。壁に掛けられていた古びた時計がカタカタと揺れ、その振動が、静まり返っていた室内の空気を不穏にかき乱す。

 二階からは、驚きと恐怖が入り混じった、リリィの悲鳴に近い声が響き、「おばちゃん!?」と不安げに呼びかける声が降りてくる。
 それに対してマーサは、これまで聞いたこともないほど鋭く、そして有無を言わせぬ強さを帯びた声で「来るんじゃない! 部屋にいな!」と怒鳴りつけた。その一言には、ただの叱責ではなく、明確な危機を察知した者の、最大限の切迫した意思が込められていた。

 リリィの足音が慌てて遠ざかっていくのを耳で確かめた、そのほんの一瞬の静寂を切り裂くように、再びドンッ!! と衝撃が叩きつけられる。今度は先ほどよりも明らかに強く、玄関の蝶番が悲鳴を上げるように軋み、木材が耐えきれずに歪む音が混じる。

「ったく……」

 マーサは小さく舌打ちをしながらも、その視線は玄関から一切逸らさない。

「最近のお役所は、また随分と乱暴だねぇ」

 皮肉めいたその言葉が終わるか終わらないかのうちに、三度目の衝撃――ドゴンッ!! という、破壊そのものを告げるような嫌な音が響き渡り、ついに木材が裂ける音がはっきりと耳に届いた。そして次の瞬間、玄関の扉は内側へと吹き飛ばされ、破片が床へと激しく散らばり、舞い上がった埃が視界を白く濁らせる。

 その埃の向こう側に、ゆっくりと姿を現したのは二人の男だった。短髪の男と長髪の男。
 短髪の男は迷いなく拳銃を構え、長髪の男は静かにナイフを抜き放っていた。そのどちらの顔にも笑みはなく、ただ淡々と仕事を遂行する者の、冷たい表情だけが浮かんでいる。

「動くな」

 短髪の男が低く言い放ち、銃口をまっすぐマーサへ向ける。しかし、マーサはその威圧にも一切怯むことなく、むしろ呆れたようにため息を吐いた。

「仕事なんだろ? 礼儀がなってないねぇ」
「黙れ」

 短く吐き捨てるような言葉とともに、短髪の男が向ける銃口がわずかに揺れるが、それでもマーサの態度は変わらない。

「何が目的だい」

 静かに問いかけるその声には、恐怖よりも、状況を見極めようとする冷静さが滲んでいた。

「ガキだ」

 短髪の男が簡潔に答える。

「連れて来い」

 その言葉を聞いた瞬間、マーサの表情からすべての感情が消え去った。それまで浮かべていた軽口も、わずかな笑みも、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せる。

「お断りだよ」

 その返答は驚くほど静かで、しかし揺るぎない意思を宿していた。
 男たちは一瞬顔を見合わせる。拳銃を突きつけられている女が、なぜそんな顔をしていられるのか、一ミリも理解できないという戸惑いが、その仕草に滲んでいた。

「状況がわかってねぇな」

 長髪の男が薄く笑いながらナイフを肩へ担ぎ、ゆっくりと一歩前へ踏み出す。

「お前……死にたいのか?」

 その問いにマーサは答えない。ただ静かに階段の前へと移動し、完全にリリィを庇う位置に立つ。その動きは迷いがなく、覚悟を決めた者のそれだった。
 男たちはようやく理解する。この女はただの無力な存在ではなく、思っていた以上に厄介な相手であるということを。

「だいたいね、こんな昼間っからドアぶっ壊すヤツに、状況云々なんて言われたくないよ!」

 長髪の男が、一歩マーサへ近付こうとする。だがそれを、短髪の男が制止する。

「随分とまぁ、余裕じゃねぇか」

 短髪の男にとって、この言葉は皮肉だった。
 男たちは、ゆっくりと足並みをそろえて、マーサを追い詰めようとする。

「とりあえず、死にたくねぇなら俺たちを中に入れるんだな」

 男たちは、ジリジリとマーサとの距離を詰め、彼女が玄関側、自分たちが室内側へと位置取りできるよう動く。
 マーサは、二人の男の考えがわかっていた。自分をこちら側へ追い出して、一人がリリィの元へ向かい連れ去る。そして、逃げる時に自分を殺す。
 その時間を、タイミングを、マーサは読み取ろうとしていた。

 そして、その緊張が張り詰めた瞬間――外から車のドアが閉まる音が聞こえた。

 バタン。

 その音に、男たちの動きがぴたりと止まる。マーサもまた、その音を確かに聞き取っていた。それはここのところ、日常の中で何度も耳にしてきた、聞き慣れた音だった。
 続いて、買い物袋が擦れる音、誰かの話し声、そして近づいてくる足音。

 ――帰ってきた。

 その確信とともに、マーサの口元がほんのわずかに緩む。一方で、男たちはまだ気付いていない。それが自分たちにとって、これ以上ないほど最悪のタイミングであったということに。
 玄関の外では、ジャックが両手いっぱいに買い物袋を抱えていた。袋は今にも破れそうに膨らみ、腕はわずかに震えている。

「重い」
「買い過ぎだ」

 オリオンが呆れたように言う。

「あんたも買っただろ」
「必要な物だけだ」
「夢がないな!」

 そんなやり取りをしながら門をくぐり、いつもと変わらぬ帰宅のはずだった空気が、次の瞬間には一変する。

 二人は同時に足を止めた。
 壊れた玄関、飛び散った木片、そして家の中から漂う濃密な殺気が、静かに、しかし確実に異常を告げていた。
 沈黙はほんの一秒、本当にそれだけだったが、その一瞬で状況はすべて理解された。

 オリオンが買い物袋を地面へ置き、ジャックも同じように袋を下ろす。二人とも慌てず、焦らず、叫びもせず、ただ静かに呼吸を整えた。
 中に敵がいる、それだけで十分だった。
 オリオンが玄関を覗き込むと、視界へ飛び込んできたのは玄関に背を向けて立つマーサと、その反対側に拳銃とナイフを持った二人の男、そしてこちらへ向けられた銃口だった。

 次の瞬間、尖った発射音が響き、短髪の男が何かを理解するより早く、額に穴を開けて崩れ落ちた。拳銃が床を滑り、再び訪れた沈黙の中で長髪の男は固まり、何が起きたのか理解できずにいた。弾は右眼光を捕らえ、短髪の男は既に命を手放している。
 オリオンは玄関に立ったまま、右手に拳銃を構え、そこからじっと残った男を見た。

「……は?」

 長髪の男の口から間抜けな声が漏れる。
 オリオンの横を、ジャックはまるで買い物帰りのままの足取りで通り過ぎ、袋の中からひとつ取り出した。それは新品のフライパンで、ピカピカと光り、いかにも高そうな代物だった。
 ジャックはそれをマーサへ差し出す。

「これ、一番いいやつなんだぜ」

 マーサが目を瞬く。

「今それどころじゃないだろう!?」
「なんと! 巷で大人気らしい」

 ジャックは真顔だった。
 オリオンが呆れたように言う。

「土産だ」


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