第6話:子どものいた痕跡

We Killed Our Sweetheart

 細身の男は、気怠そうに小さく息を吐いた。その吐息には、苛立ちにも似た感情が混じっている。視線を落とせば、床に散らばったパンくずが目に入る。それは乱暴に扱われた結果ではなく、むしろその幼い誰かが、一生懸命に何かを作ろうとした痕跡のように見えた。
 その事実に気付いた瞬間、男の口から思わず言葉が漏れる。

「……クソッタレ」

 吐き捨てるような低い声だった。すぐ隣から、短く乾いた返事が返ってくる。

「おいおい、こっちのセリフだ」

 それが、この場で初めて交わされた言葉だったが、それだけで十分だった。

 二人の間に、再び沈黙が落ちる。

 それは決して、気まずいものではなかったが、居心地の良いものでもなかった。
 床には死体が転がり、乱雑に紙袋とその中身が置かれている。
 数分前までなら仕事の終わった現場でしかなかったはずなのに、今はどこか別の場所へ迷い込んでしまったような、奇妙な感覚があった。

 男たちはリビングを見回す。

 ソファ。テレビ。安物のテーブル。壁に掛けられたカレンダー。ただ時間を示す時計。
 生活の痕跡はそこかしこに残っているが、そのどれもが空虚だった。
 そこへ、先ほど見つけたパンくずやジャムの瓶が加わることで、この家の景色はまったく別の意味を持ち始めている。
 その事実がわかった瞬間から、この家は、ただの売人の家ではなくなってしまっていた。

 幼子の痕跡を追いかけて、だからといって、何かするわけでもなく立ち尽くす、その時だった。

 微かな音が聞こえた。
 最初は風の音だと思った。あるいは、家が軋む音。
 耳を澄まさなければ、聞き逃してしまうほど小さな音だった。

 子供の声。

 二人の視線が同時に上がる。音は天井の上、二階から聞こえていた。
 まるで示し合わせたかのように、男たちは揃って階段を上り、音の主を突き止めようと足を進めた。
 古い階段は規則正しく軋み、彼らを歓迎するように音の主の元へと運ぶ。

 半開きになった扉、その向こう側。
 聞こえてくるのは歌だった。
 たどたどしく、少しだけ音程を外しながら、それでも、一生懸命に歌われている小さな歌。

「ハッピーバースデー・トゥー・ミー」

 男たちは、それ以上動かなかった。いや、動けなかった。
 その歌が何を意味するのかを、理解してしまったからだった。

「ハッピーバースデー・トゥー・ミー」

 小さな声は続いている。
 嬉しそうでもなく、悲しそうでもなく、ただ誰にも聞かせる相手がいないまま、それでも今歌わなければいけないと、心から信じている子供の声だった。

 二人は顔を見合わせる。そこに言葉はない。だが、それで十分だった。
 そしてほとんど同時に、半開きの扉へ向かって歩き出し、扉の前で足を止めた。

 子供の歌声は今も続いている。
 決して上手ではないし、やはり、音程だってところどころ外れている。それでも、その声には妙な力があった。
 誰かに聞かせるための歌ではなく、自分自身のために歌っている声だったからかもしれないし、あるいは、彼らがその歌の意味を知ってしまったからかもしれない。

 細身の男は無意識に呼吸を浅くする。隣にいる、もう一人の大柄の男も同じだった。
 どちらも銃を持っている。つい数分前に人を殺したばかりだ。それなのに今は、たった一枚の扉を開けることに躊躇していた。

 歌は続く。

 意を決して、細身の男はゆっくりと扉へ手を伸ばした。軋む音がしないよう慎重に。中の子どもを、驚かせないように。
 それは、自分でも理由のわからない配慮だった。今までそんなこと、一度も考えたことはなかった。

 扉は静かに開いていく。
 最初に見えたのは古びたカーペットだった。次に小さな棚が目に入り、色褪せたぬいぐるみが置かれていた。そして、視界の端に映るベッド。
 ……そこまでは、どこにでもある子供部屋だった。

 だが、視線がさらに奥へ進んだ瞬間、時間の流れがここだけ遅くなったような、奇妙な錯覚を覚える。

 ベッドの脇には、皿が置かれていた。
 いや、正確には皿の上に乗せられたパンだった。何枚ものパンを重ね、形を整え、その上から、ピーナッツバターとイチゴジャムを塗りたくっただけの不格好な塊。
 本物のケーキとは似ても似つかない。
 男たちは揃って理解する。リビングに散らばっていたパンくずやジャムの正体は、これだった、と。

 一生懸命に作ったのだろう。
 小さな手で、何度も崩しながら。何度も形を直しながら。そうして作り上げた、世界でひとつだけの誕生日ケーキ。
 その隣には、ライターが置かれている。これが、ろうそくの代わりなのだと理解するまでに、時間は掛からなかった。

 そうして、ようやく視界に捉えたのは、ベッドへ腰掛けた少女だった。
 いた。毛布を抱き締めるように膝へ乗せ、眠気で何度も擦ったのだろう少し赤くなった目をしながら、それでも必死に起きていようとしている小さな少女が。

「ハッピーバースデー・トゥー・ミー」

 少女はまだ歌っている。
 両親が、もうすぐ帰ってくると信じて。祝ってくれると信じて。褒めてくれると信じて。
 たった一人で。

 男たちは動けなかった。
 目の前にある光景が、薬よりも死体よりも、今まで浴びた血よりも、ずっと仄暗く見えてしまったからだった。

 ……歌いながら、少女はふと顔を上げた。
 ただ、何となく。本当に何となく、視線を動かしただけだ。

 そしてそのまま、扉のほうを見る。僅かに開けていた扉はすべて開いており、そこには人が立っていた。
 少女は、一瞬だけ目を丸くする。

 決して、驚いていないわけではなかったが、悲鳴を上げるほどではなかった。
 恐怖よりも先に浮かんだのは、困惑だった。知らない人が二人。男の人。どうして。こんなところに。そんな、素朴な疑問が頭を過ぎる。
 だが、七歳の少女にとって、その正解へ辿り着くことは難しかった。

 少女の視線は、二人の顔を行ったり来たりする。
 細身で背の高い男。もう一人の、大柄の男。
 どちらも知らない。見覚えもない。
 少女は、しばらく頭の中で考えてみたが、答えは出なかった。

 だから、歌を止めた。
 部屋の中が静かになる。先ほどまで流れていた歌が消えたことで、まるで空気そのものの流れが、止まってしまったようだった。

 少女は、毛布を抱いたまま首を傾げる。
 それからぎこちなく、ベッドの横に置かれたパンのケーキへ視線を落とし、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

「へん、だった?」

 歌のことなのか、それともケーキのことなのか。あるいは、その両方だったのか。
 二人には分からない。

 ただ、その不器用な問い掛けだけが、静かな部屋の中へ落ちてく。
 この少女の問い掛けは、決して重いものではなかった。

 ただ少し、男たちが何も言わずに立っている姿を見て、不安になっただけだ。上手く歌えなかったのかもしれない。ケーキが変だったのかもしれない。そう思ったから聞いた。
 この人たちから見てダメなら、両親にもダメだと思われてしまう、拒否されてしまう、そんな気がして。
 けれど、その何気ない一言は、部屋の中へ落ちると大きく響いた。

 男たちは答えない。いや、答えられなかった。

 なぜならば、目の前の少女は何も知らない。
 玄関の向こうで何が起きたのかも。数分前に両親が死んだことも。自分が今まで一人で待ち続けていたことが、もう二度と報われないことも。何も知らない。

「わたし、ななさいになったの」

 知らないからこそ、少女は首を傾げたまま、二人の返事を待っている。

 その姿はあまりにも健気だった。

 ベッドへ腰掛けた華奢な身体。それに比べて、少し大きすぎる服。眠気で赤くなった目。
 これまでに、何度も触ったのだろう、少しだけ歪んだパンのケーキ。きっとライターは、刺さっていないろうそくの代わりだ。
 それがわかってしまう。いう亜になるほどに、痛いほどに、悲しいほどに。

 細身の男は視線を落として、順に目で追っていった。床、ケーキ、ライター、そして少女。

 何か、すぐにでも言わなければならない気がした。だが、どんな言葉も違うように思えた。「大丈夫だ」と言う資格はない。「安心しろ」とも言えない。「すまなかった」はもっと違う。

 今この瞬間、少女が欲しい言葉は、そんなもハリボテではないとわかっていた。
 それは、隣に立つ大柄の男も同じだった。彼も、普段なら軽口のひとつやふたつ、簡単に出てくるはずなのに、今はやけに口が重い。

 そして沈黙が続いた末に、先に口を開いたのがどちらだったのかは、後になってもわからなかった。
 ほぼ、同時だった。

「「……ハッピーバースデー」」

 ふたつの声が重なる。
 それは不器用で、ぎこちなくて、不格好で、祝福の言葉としてはあまりにも下手だった。だが、偽りも哀れみもない、心からの祝福だった。

 思いがけない言葉を聞いて、少女は瞬きをした。
 それから、自分でも信じられないものを見たような顔で目を丸くし、ゆっくりと笑った。

 その笑顔は、二人が想像していたよりもずっと幼く、ずっと無垢で無防備で、そしてどうしようもなく真っ直ぐだった。

「ありがとう」

 少女はそう言って笑っていた。

 ただそれだけだった。
 けれど、その一言は銃声よりも深く、二人の胸へ突き刺さった。


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