——そのころ、彼女の部屋以外薄暗い家の中で、少女はベッドへ腰掛けたまま、膝の上に置いた毛布をぎゅっと握り締めた。
部屋の中は静かで、壁際に置かれた小さな時計だけが、無情にも規則正しく時を刻み続けており、その音がやけに大きく聞こえる。
ベッドの隣には、相変わらずパンのケーキが置かれていた。
少女は、ケーキを見つめながら小さく笑う。「じょうずにできたよね」と呟いてみるが返事はない。今、彼女しかいないこの家では当たり前のことで、だから気にしなかった。
ただじっと『両親が返ってきたら、これを見せて一緒に食べる』ことだけを胸に、両親の帰りを健気に待ち続けていた。
窓の外から車の走る音が聞こえてくると、少女は顔を上げた。
帰ってきたのかと思ったのだが、音はそのまま遠ざかっていき、違ったとわかる。少女は少しだけ肩を落としたものの、すぐに気持ちを切り替えた。
まだ大丈夫だ、今日は誕生日なのだから、きっと帰ってきてくれる、そう思いたかったしそう信じていたかった。……たとえ、どれだけ時間が経とうとも。
眠気がじわじわと瞼を重くしていき、少女は何度目かもわからない仕草で目を擦る。
眠ってしまえば楽なのかもしれないが、眠った瞬間に両親が帰ってきたら、なんて考えると、どうしても眠る気にはなれなかった。
だから起きている、待っている。誕生日だから、どうしても今日だけは一緒に過ごしたかった。
少女はベッドの横に置かれたライターへ視線を向ける。
そして、ライターを手に取るが火は点けない、まだ早い、帰ってきてからだ。帰ってきて一緒にケーキを見る、その時に使うと決めていたから、再びライターを置く。
部屋のドアは少しだけ開いていて、少女は毛布を抱き寄せる。恐ろしいほどに静かな部屋と夜だったが、それでも少女は帰ってくると信じて待っていた。
住宅街の夜は静まり返っており、等間隔に並んだ街灯が道路へ淡い光を落としているものの、その明かりは決して強くはない。
幼い彼女が、遅い時間に睡魔と戦うことは非常に難しく、何度か意識を手放しながら、何とか目を開けることを繰り返していた。
――少女は、知らなかった。気が付いていなかった。
自分の両親が既に帰ってきていて、玄関先で男に薬を売っていたことを。
そしてそのまま、一度家を離れたことを。
さらにその後、二人の男が両親を殺すべく、そっとこの家の中へ侵入してきたことを。
男たちは、それぞれ別のルートでこの家に侵入していた。
細身の男は、開いていた一階リビングの窓から。
大柄の男は、ガレージの中のドアをこじ開けて。
夫婦が一度去った今、二人の男はどちらも「家の中で夫婦を待つ」ことを選んでいた。
たとえ命乞いをし逃げたとしても、室内なら簡単に捕まえる自信があったからだ。そもそも、狙った標的は逃がさないが。
息を潜め、男たちはゆっくりと自分の位置を確認すると、呼吸にも配慮して、足音を立てずに玄関へと向かった。
準備しておいた皮手袋をはめ、サイレンサーを銃につけ、その感触を確かめる。
やがて、一台の車が家の前で停まった。外側から僅かに入る月と街灯の明かりが『それがこの家の持ち主の車』であることを、男たちに教えてくれる。
息を殺し、そろそろ玄関だという時、互いに気付いた。
気が付いてしまった。
夫婦ではない、自分以外の侵入者に。
男たちは、互いの顔が良く見えぬまま、互いに揃って銃口を向けた。
誰かはわからない。だが「ここに来るまでに感じた気配の持ち主」であることは、どちらも理解していた。
つまりは同業者で、標的が同じであるということに。
銃口を向けたまま、どちらも微動だにしなかった。
車のドアの閉まる音が、住宅街の静寂へ溶けていく中、夫婦は何の警戒もなく玄関へ向かっていた。
男は片手に紙袋を提げ、女はスマートフォンを覗き込みながら何かを笑っており、その様子だけを見れば、夜遅くに帰宅したごく普通の夫婦にしか見えない。
実際、近所の人間が窓からその姿を見ていたなら、そう思っただろう。
仕事を終えて帰ってきた夫婦。
少し帰りが遅くなっただけの家庭。
それ以上でもそれ以下でもない。
だが、その紙袋の中身を知る者は少なく、彼らが羽振りよく使う金が、その実どこから来たのかを知る者はさらに少ない。
家の主の男がポケットから鍵を取り出そうと、玄関ドアの前で立ち止まったその時だった。
お互い銃口を向けていた男たちは、その先を玄関へと向けた。
言葉も合図もない。
必要なかった。
互いに同じものを見ていたからだ。
標的。
ただそれだけだった。
女が先に異変へ気付く。……いや、正確には気付こうとした。
玄関ドアの向こう、ぼんやりと立つ人影を見て、僅かに眉をひそめたその瞬間、男が鍵を差し込み、ガチャリと回した。
「待って」と、女が言う暇もなく、ドアが開けられる。
女の顔色が変わり、男が顔を上げた瞬間、冷たい金属音にも似た乾いた音が夜気を裂いた。
男の身体が大きく揺れる。
彼には、何が起きたのか理解する間もなかった。
額でもなく、胸でもない。真っ直ぐに狙われたのは、右眼孔。
そこへ、吸い込まれるように撃ち込まれた弾丸は、一切の迷いなく男の命を奪っていた。
紙袋が地面へ落ち、中身が飛び出す。白い粉の入った小袋が、玄関前のタイルの上へ散らばった。
一拍置き、女が悲鳴を上げようと口を開く。だが、その声が形になることはなかった。
もう一人の男も、静かに腕を上げていたからだ。
銃口が向く。
女の瞳が見開かれる。恐怖。混乱。理解。そのすべてが揃うよりも早く、二発目の銃声が夜へ響いた。
女の身体が後ろへ倒れ込むと、スマートフォンが手から離れ、硬い音を立てて地面を滑った。
再び静寂が訪れる。
住宅街は、何事もなかったかのように、ただ静かだった。
男たちは動かない。互いに視線を向けることもなく、倒れた夫婦を見つめていた。
仕事は終わった。
——本来なら、それで終わるはずだった。
床に倒れた標的は動かず、呼吸もなく、仕事は確実に完了している。銃声は大きく外に漏れず、証拠になるものも残していない。目撃者もいない。唯一の誤算といえば、互いに素性を知らない同業者が、同じ現場に居合わせていたことだが、それすらも結果には影響しない程度のものだった。
だから、あとはいつもどおりに立ち去ればいい。それだけのことだったはずなのに、なぜか二人とも、その場から一歩も動こうとしなかった。
理由は単純だった。どちらも同じ違和感に気付いてしまったからだ。
この家には、まだ何かがある。今自分たちの目には見えていないが、確かにそこに潜んでいる何かが。
倒れた男の足元には、転がった紙袋から小袋がいくつもこぼれ落ちている。白い粉と束ねられた現金。
予想どおりの中身であり、取引の証拠としては十分すぎるほどだった。だが、それだけならば、今さら足を止める理由にはならない。
先に、大柄の男が動いた。男の死体を、家の中へ引き摺り込んだのだ。放置するには、いささか目立ちすぎる。そう思ったからだった。
男は目立ちたかった。が、目立ち方が違う。無言で男の死体を動かすと、続けて女の死体も家の中へ招き入れた。
そんな様子を見て、細身の男は何か考えた後、紙袋とその中身、そしてスマートフォンを手早く拾い上げ、玄関のドアをそっと閉めた。
男たちはゆっくりと顔を見合わせ、室内へと視線を滑らせる。
玄関から続く廊下、奥に広がるリビング。どこにでもあるような生活の匂いが、まだ空気の中に残っている。家具の配置も、壁に掛けられた時計も、特別なものは何ひとつない。普通の家庭と変わらない――いや、変わらないように見えるだけだった。
最初に引っかかったのは、テーブルの上だった。
開けっぱなしのジャムの瓶が、蓋も閉められないまま置かれている。中身はほぼ空だった。その隣には使いかけのピーナッツバターがあり、スプーンには、まだべっとりとそれが付着している。床にはパンくずが散らばり、ところどころに甘い液体の垂れた跡が乾きかけていた。
男はわずかに眉を寄せ、視線をゆっくりと動かす。ジャム、パン、スプーン、床に残る跡。そのどれもが、妙にちぐはぐで、不自然だった。
薬の取引とは無関係な光景だ。ましてや、大人二人だけの生活でこうなるとは考えにくい。もう一人の男も、同じ場所を見つめていた。言葉を交わさなくても、視線が自然と同じ方向へ引き寄せられていく。テーブルから床へ、そしてその横へ。
そこにあったのは、小さな椅子だった。明らかに子供用のもの。大人が座るには小さすぎるその椅子を見た瞬間、二人の中でばらばらだった違和感が、ひとつの形を持って結びつく。
——この家には、子供がいる。
今も、あるいはほんのついさっきまで、ここにいた。