――彼女、マーサが最初に違和感を覚えたのは、いつごろだっただろうか。
今年の春だった気もするし、もっと前だった気もする。
少なくとも、あの家を気に掛けるようになったのは、一度や二度ではなかった。
通りの角に建つ古びた小さな一軒家。外壁は色褪せ、庭は荒れ、窓にはいつも薄汚れたカーテンが掛かっている。
近所でも評判の良い家ではなかった。いや、正確には家そのものではない。評判が良くなかったのは、住んでいる人間のほうだった。
夜中に知らない車が停まり、昼間は怖いくらいに静かだというのに、深夜になると人の出入りが激しい日もある。
怒鳴り声が聞こえる日もあった。
割れた瓶が転がっている日もあった。
何かを殴る音が響く日もあった。
はっきり言って、まともではない。マーサ以外、誰が見てもそう思うだろう。
そして、その家には、似つかわしくない一人の少女がいた。
リリィ。
金色の髪を揺らしながら、たまに母親と、買い物へ出てくる小さな女の子。
会えば挨拶をする。笑顔も見せる。端から見ても、彼女は良い子だ。
だからこそ気になった。
あの家には似合わないほど、幼いのによくできた子だった。
何度も声を掛けようと思った。
何度も家へ行こうと思った。
けれど、これ以上踏み込む勇気はなかった。
他人の家庭へ首を突っ込むのは、言うほど簡単ではない。善意だけでは済まないことも、善意だからこそ最悪の状況を引く可能性ある。だから、見守るだけだった。
ずっと。
だが、数日前から様子が変わった。
リリィの両親を見なくなったのだ。
代わりに現れたのは、見知らぬ男が二人。
片方は細身の仏頂面で、まるで笑うことを知らないような男だった。でも、少女は気にしていなように見えた。
もう片方は、大柄でよく喋る。遠くからでもわかるくらい、それはもうよく喋る、派手な男だった。
どちらも近所では見たことがない。
どちらもまともには見えない。
そして何より。
リリィが妙に懐いていた。
……正直に言えば、それが一番不気味だった。
誘拐。監禁。洗脳。
頭の中で、嫌な言葉ばかりが浮かぶ。
だがリリィは笑っている。
今まで見たことがないくらい、楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
それがマーサにはわからなかった。
だから決める。
明日、あの家へ行こう、と。
迷惑だと言われても構わない。追い返されても構わない。
それでも確認しなければならないのだ。あの子は、本当に大丈夫なのか。その答えを。
マーサは、自分の目で確かめることにした。
翌日の昼過ぎ、覚悟を決めたマーサは、大きな紙袋を片手にリリィの家の前に立っていた。昨日決めた通り、行くと決めたのなら行くという昔からの頑固で意地っ張りな性格で、迷って状況が悪くなるくらいならと来てしまったのだ。それに、少々のお節介と好奇心。
改めて家を見上げるとやはり妙で、以前より庭や玄関周りは多少片付いているが、それが逆に不自然で、あの家の人間が掃除をするとは思えず余計に気になった。マーサは一度深呼吸すると、あとは迷いなくインターホンを押した。
数秒待っても反応はなく、もう一度押そうとした時、玄関の向こうから重い足音が近付いてくる気配がした。子供ではない重たい足音に、マーサは無意識に背筋を伸ばした。
やがてドアが開き、現れたのは想像通り、背が高く細身、無愛想で目付きの悪い、近所の主婦なら警戒する顔の男だった。マーサも少し警戒したが引かず、男も彼女を見て何も言わず、数秒の奇妙な沈黙が流れる。
耐えかねて、先に口を開いたのはマーサだった。
「こんにちは」
「……」
「あたしゃ、近所のマーサって者だけど」
「……そうか」
反応が薄過ぎて、マーサは思わず眉をひそめる。下手な営業でももう少し愛想があると思ったその時、奥から聞き覚えのある声が飛んできた。
「マーサおばちゃん!?」
次の瞬間、リリィが勢いよく飛び出し、オリオンの横をすり抜けてそのままマーサに抱きつく。マーサは思わず笑った。この子は昔から人懐っこく素直で、だからこそ心配になる。
「久しぶりだねぇ」
「きてくれたの!?」
「あぁ。リリィの顔が見たくてね」
「ほんとに!?」
「見ればわかるだろう?」
リリィは嬉しそうに笑い、その笑顔を見てマーサは安堵した。少なくとも怯えておらず、無理やり一緒に過ごしている様子でもないが、なぜこの男たちといるのかという疑問は残る。その答えはまだ見えない。
すると今度は、家の奥から軽い足音が聞こえ「お、来客?」と、もう一人の男が現れた。こちらは対照的に、笑顔でよく喋りそうで警戒心が薄く、そしてとても胡散臭いとマーサは一目で判断する。男はその考えを見透かしたように、笑顔を浮かべ口を開く。
「あ、どうもどうも」
「どうも」
お互い、無難に言葉を交わす。先に疑問を提示したのは、ジャックのほうだった。
「リリィの親戚?」
「違うよ」
即答したのはリリィだった。
「じゃあ何だ、学校の先生?」
「違う」
「もしかして、友達?」
「違う」
少し考えた後、リリィは満面の笑みで答える。
「マーサおばちゃん!」
「うん、そうか! 説明になってないな!」
ジャックが笑い、マーサも思わず吹き出すが、笑いながらも観察は続ける。正体不明の男二人にリリィは懐いているが、何かがおかしい。まだ確信はないが、マーサの勘は告げていた。この家にはまだ何か、知らないほうが幸せな何かがあると。
マーサは結局、そのまま家へ上がることになった。正確には、リリィに引っ張り込まれたのだ。断る暇もなかった。小さな手が腕を掴み、そのまま玄関を通過する。
「おいで!」
「はいはい」
マーサは苦笑しながら靴を脱いだ。その後ろで、オリオンが露骨に嫌そうな顔をしている。歓迎していないのはわかったが、だからと言って追い返そうともしない。不思議な男だった。
リビングへ通されると、マーサは小さく目を細めた。綺麗だった。以前よりずっと。床にはゴミが落ちていないし、空き瓶もない。染みついた臭いはすべて消えていないが、以前のような鼻を突くような臭いもしない。少なくとも、マーサの知るあの家ではなかった。
だが、妙だった。
綺麗なのに生活感がない。誰かが慌てて片付けたような違和感が残っている。マーサは黙って部屋を見回した。オリオンが警戒している。ジャックは笑っている。リリィだけが嬉しそうだった。その組み合わせも妙だった。まるで即席の家族みたいだ。いや、即席だからこそ不自然なのかもしれない。
「最近元気そうだねぇ」
マーサが言うと、リリィは満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
「ちゃんと食べてる?」
「たべてる!」
「誰が作るんだい?」
その瞬間、リリィがオリオンを見る。オリオンは目を逸らし、ジャックが吹き出す。マーサは嫌な予感がした。
「オリオン」
「……」
「オリオン」
「……」
「オリオン」
「わかった、私だ」
諦めたような声だった。ジャックは肩を震わせている。
「何だいその反応」
「マーサっていったっけ? 命が惜しいなら、聞かないほうがいい」
ジャックが真顔で言う。余計に気になるとマーサは思った。このオリオンと呼ばれた男は、彼女の中で一番料理と縁遠そうな男に見えたからだ。
ふと壁を見ると、写真立てがない。家族写真もないし、リリィの写真もない。普通なら一枚くらいあってもいいはずなのに。マーサは何気ない顔を装ったまま尋ねる。
「パパとママは?」
その瞬間、部屋の空気が変わる。本当に一瞬だった。リリィは気付いていない。だがマーサは見逃さなかった。オリオンもジャックも示し合わせたように黙った。
その二人を差し置いて、答えたのはリリィだった。
「いないよ」
明るい声だった。だからこそマーサは背筋が冷えた。