第19話:小さな真鍮の鍵

We Killed Our Sweetheart

 マーサはキッチンに立ち、リリィはその横で野菜を洗っている。
 本人は手伝っているつもりなのだろうが、実際には半分以上水遊びだった。それでもマーサは追い払うことなく、濡れた袖を捲り上げながら、時折注意する程度だった。

 ジャックはソファで雑誌をめくっている。オリオンは窓際に立ったまま外を眺めていた。

 だが意識は別のところにある。
 それは、視線の先ではなく。リリィの胸元だった。何度もその意味を考えてしまう、小さな真鍮の鍵。
 鍵の持つ意味の『可能性』を知ってしまった結果、一瞬でも目が離せないものになっていた。

「リリィ」

 気付けば、声を掛けていた。
 リリィが振り返る。

「なあに?」

 その無邪気な顔を見て、一瞬だけ質問を躊躇うも、聞かなければならない気がした。

「その鍵」

 リリィが胸元を見下ろく。そして困ったように笑った。

「あげないよ?」
「取らない」
「ほんとに?」
「本当だ」

 リリィは安心したように頷いた。
 それから鍵を掌へ乗せる。小さくて、どこにでもありそうな真鍮製の鍵だ。
 少なくとも見た目だけなら。どこか道端に落ちていたとしても、気にも留めないだろう。それくらい、ありふれているものに見えた。

「いつも持ってるな」
「うん」

 リリィは当然のように答える。

「だって、たからものだもん」

 その言葉に、マーサが少しだけ振り返る。ジャックも雑誌から顔を上げた。しかし、その様子にリリィは気付いておらず、ただ嬉しそうに鍵を撫でている。

「パパとママがくれたの」

 オリオンは黙る。

「お誕生日?」

 マーサが優しく聞く。だが、その問いに対し、リリィは首を横に振った。

「ちがう」
「じゃあ何の日だい?」

 少し考える。そして。

「わかんない」

 そう言って笑った。なんとも、子供らしい答えだった。

「でもね」

 リリィは続ける。

「そのひは、パパもママもすごくへんだったの」

 部屋が静かになる。そう話す本人だけが気付いていない。

「ずっとけんかしてて」

 鍵を握る。

「でも、きゅうになかなおりして」

 その時のことを、思い出しているのだろう。少しだけ目を細めている。

「それで、これくれたの」

 沈黙が走る。
 そこまで聞いて、マーサは何も言わない。ジャックも、オリオンも。ただ、リリィの話を聞いていた。

「なくすなっていわれた。ぜったい、だって」

 リリィは笑う。

「だからなくしてないよ」

 得意そうだった。それはどう見ても「褒められる」と思っている顔だった。
 その姿を見て、オリオンの胸の奥が痛む。

『なくすな』
『絶対に』

 その言葉に込められていた意味を、あの時の夫婦は持っていたのだろうか。それとも、何も考えず、ただリリィに託したのだろうか。
 鍵を握りしめて笑う少女は、その答えを知らない。
 本当に何も。
 だからこそ、守らなければならないと、そう思ってしまった。
 そしてまた、そう思ってしまった自分に、オリオンは少しだけ苛立った。

 情は判断を鈍らせる、昔からそう教わってきた、実際その通りだった。
 情に流された人間は死ぬ、何度も見てきた、だから切り捨てる。必要以上に関わらない、それが正しい、そのはずだった。
 だが、自分の質問に対し、鍵を握りながら笑っていたリリィの姿が、どうしても頭から離れない。

 ――その日の夜更け、リリィが寝静まったころ、オリオンとジャックは再び家を出ていた。
 マーサは当然のように残っている。「行ってきな」とだけ言って、もはやそれが当たり前とでも言うように、リリィの家で過ごしていた。

 街は静かだったが、昼間とは違う顔を見せている。ネオン、酔っ払い、路地裏。裏社会の匂いが濃くなる時間だった。

「で?」

 ジャックがコーヒーを一口飲んで言う。

「次はどこを調べる」
「夫婦だ」

 オリオンは即答した。

「ハロルドじゃなくて?」
「まず夫婦だ」

 ジャックは少しだけ驚いたが、反対はしなかった。確かにそのほうが早いと、そう思ったからだ。
 リリィの両親は、ただの麻薬運びの末端だと考えていた。だが、今はもう違う。
 裏世界では、知る人ぞ知るハロルドとの繋がりに、理由も告げず娘に託した鍵、それからその娘の元へやってきた男。
 鍵がある、理由がある、情報がある……ならば、調べる価値もある。

 数時間後、二人は古びたバーの奥にいた。酒を飲みに来たわけではない、会いに来たのだ、死体より情報に詳しい男へ。

「初めての顔だな」

 そう言って男が笑う。
 ジャックは笑い返すが、オリオンは笑わない。

「ジャックお前、いつの間にコンビで動くようになったんだ?」
「コンビじゃねぇ。……いや、コンビか。なぁ相棒」
「黙って本題に入れ」
「何だよ! つれねぇな!」

 その様子を見ていた男は「なかなかいいコンビじゃないか」と、そう思っていた。だが、決して口には出すまいとも思っていた。言ってしまえば、ジャックの連れてきた男――オリオンに殺されると、そんな空気を感じたからだ。

「この夫婦について聞きたい」

 オリオンが写真を置く。写っているのはリリィの両親だった。
 男はそれを見て、眉をひそめた。

「何だ」

 オリオンが言う。
 「あぁ、いや」と、否定するようなことを言いながらも、男は写真から目を離さない。

「知ってる顔だったからな」

 この男が知っているというのは、つまりは良くない噂があるということで、足を突っ込んでから何度目かの嫌な予感がした。それは、ジャックも同じだった。

「評判は?」

 短く聞くと、男は鼻で笑った。

「もちろん最低だ」

 面白いほどに即答だった。何の迷いもみられない。

「売ってた」
「薬を」
「子供のいる家にも」
「その辺のヤツに頼まれた、何も知らない子供にも」

 立て続けに男が言うと、オリオンもジャックも押し黙った。

「借金抱えた連中にも」
「高校生にも」
「ホームレスにも」
「警察官にも」
「金さえ払えば、誰にでもだ」

 ジャックが目を伏せたが、オリオンは何も言わなかった。予想はしていたが、思った以上だとオリオンは額に手をやる。
 知りたかった、だから聞いた。気分の良い話ではないことは、とっくにわかっていた。それなのに、無性に腹が立つ。

「夫婦仲は?」

 次の問いをジャックが投げる。

「悪かったな」

 自分で大きく頷きながら、男は答えた。

「金で揉めてた。そりゃもうしょっちゅうだ。殴り合いのケンカもしてたって話だぜ」

 その言葉に、ふとリリィの言葉を思い出す。

『そのひは、パパもママもすごくへんだったの』
『ずっとけんかしてて』

 オリオンは黙って続きを待った。男はグラスを回す。

 「でもな」

 ここにきて、初めて少しだけ声色が変わった。

「最後の数日だけは違った」

 それは、今までで一番穏やかで静かな声だった。

「逃げる気だったらしい」

 ジャックが顔を上げる、オリオンも続いた。

「誰から」
「組織からだよ」

 男は答える。

「何かを盗んだんだ」

 その瞬間、二人の脳裏に同じものが浮かぶ。小さな真鍮の鍵、胸元で揺れていた、リリィの宝物。

「何を?」

 オリオンが聞く。情報の正しさを精査するためだった。
 男は口を真一文字に閉じて、それから首を横に振った。

「そこまでは知らねぇよ」

 そして、ゆっくりと言う。

「だが噂じゃ」

 グラスの中の氷が、からんと小さく鳴った。

「あんなクソみたいな夫婦でも、娘はそれなりに大切だったらしい」

 オリオンもジャックも、何も言わなかった。
 ただ、リリィの笑顔だけが頭に浮かんでいた。

 ――バーを出ると、夜風がさらに冷たくなっていた。時間は遅くなったのに、街の喧騒はまだ残っている。
 だが、二人の間には沈黙があった。重たい沈黙だった。
 歩道を照らす街灯の光が、長い影をアスファルトへ落としている。

「クズだったな」

 溜め息と一緒に零れた言葉だった。
 オリオンは否定しない。

「ああ」

 短く答える。それだけだった。

 子供にも売った。借金まみれの人間にも売った。高校生にも売った。ホームレスにも警官にも、誰彼構わず。
 救いようがない。
 ……もしリリィがいなければ。
 あの日、あの部屋で死んだ夫婦のことなど、とっくに忘れていた。それほどの価値しかない人間だった。

「後悔してるか?」

 ジャックが聞く。
 オリオンは即答する。

「してない」

 本心だった。あの時殺したことも、今の返答にも迷いはない。
 夫婦が、意味をわかっていて、あの鍵を娘に託したのなら尚更だ。
 納得したのか、ジャックも頷く。

「俺もだ」

 夜風だけが二人の間を通り過ぎる。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。誰かがまた捕まるのだろう。
 あるいは、誰かが逃げるのかもしれない。そんなことはどうでもよかった。

「でもさ」

 不意にジャックが言う。オリオンは視線だけ向ける。一瞬だけ彼を見て、そのまままた視線を外した。
 ジャックは、前を見たままだ。

「最後だけは親だったらしいな」

 静かな声だった。
 笑っていないし、茶化してもいない。きっと、本当にそう思ったのだろう。

 オリオンは何も答えない。同時に、否定もしなかった。


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