第3話:知らない時間

夕闇にて君を待つ

 ……わかっている、これは八つ当たりだ。俺が仕事で忙しいのに、紗季は自分の時間を満喫している。はっきり言って、羨ましかった。
 今の俺に、そんな時間はない。残業に休日出勤、業務外のメールチェックや資料確認、打ち合わせとプレゼンの準備。それから後輩のフォローに、心配する彼女への連絡、ついでに希望通りのデート。
 食事をする時間さえ惜しいのに、自分のために過ごす時間なんて、最後に取ったのはいつだっただろう。そんな状態だからして、なんだかんだ言いながら自分の思うように生活している紗季が、ただただ羨ましかった。
「そりゃ、こんな店の名前も商品も出ている写真、誰が見たって、どこに行ったかすぐわかるだろうに」

 表示された写真をスライドして、まだ見ていない過去の投稿を遡る。
 テイクアウトのカフェラテ、個性的な見た目のタルト、凝った盛り付けのピザ。こっちは、駅前の花屋のブーケに、お揃いで買った輸入雑貨のお店のスマホケース。
 俺と一緒に行った店もあれば、全然知らない店もある。
 けれど、載っている写真で検索をかければ、すぐに店の名前と住所が出てくるはずだ。
「知ってる、知ってる、知らない……こっち、と、こっちも知らない……。あぁ、これも知らないな」
 目で追いながら、思わず口に出す。俺が写っていなくても、流石に一緒に行ったかどうかはわかる。

 贅沢な女とは、結婚したくない。俺が大変だからだ。共働きで、全部自分で払うなら、まぁいいだろう。ただ、家事や育児を、ちゃんとやった上での話だ。
 俺は仕事が忙しいから、その辺は全部相手に任せる。紗季なら合格だ。家事はちゃんとやっているようだし、正社員で仕事もしている。
「そろそろ、ちゃんと結婚の話、してやるか?」
 お互いそろそろいい年だ、あいつもそのつもりで、マッチングアプリなんかやったんだろうから、断りはしないはずだ。今俺を逃したら、絶対に後悔する。
 おとなしくて、俺の言うこともよく聞くし、後はもう少し、俺に感謝すればそれでいい。
「結婚しても、仕事は続けてもらって、まあ、育児は何とかなるだろ。家事は、俺のほうが忙しいし、紗季のほうが帰りも早いからな。やらせればいいか」
 未来のことを考える。
 結婚して隣に紗季がいる、そう考えるのは、存外悪くなかった。

「……お待たせ」
 気が付いたら、紗季が戻ってきていた。
「あれ、何見てるの?」
「あ、いや。なんでもない、うん、別に。気にするなって。てか、急にスマホ覗くなよ、ビックリするだろ?」
 慌ててアプリを落とす。「紗季のSNSに投稿した写真を、過去に遡って見ていた」なんて、口が裂けても言えない。
 そんなことを言ったら、スマホを取り上げられて、全ての痕跡を消されるか、アカウント削除をしてしまうだろう。俺はこっそり見ていたいのだ。

「何か感じ悪い」
 イラっとしたが、何とか堪えた。
「ごめんって。……てか、そのニオイ」
 トイレに立つ前と、紗季のまとう匂いが変わっていることに気付く。
「あ、これ? いいでしょ、香水変えたの」
 嬉しそうに話す紗季。だが、俺は次の瞬間息を止めた。

 何だ、これは――
 そして思わず、口と鼻を手のひらで覆った。ほんの少しずつ、手と鼻の隙間の空気を口で吸う。

 これは、このニオイは駄目だ。それだけのことをしても、反射的に吐き出しそうになった。だってこれは、俺の大嫌いな、大嫌いなニオイじゃないか。

「いい、か?」
「うん。店員さんにもお勧めされたし。これ、今人気みたいだよ、私も結構好きな匂いだから、買っちゃった」
 目を輝かせてそう言う紗季が、何だか無性に憎らしくて腹が立つ。だって、過去にお互いの好きな匂いと、嫌いな臭いの話をしたことは、俺だって覚えている。
 確かそう、プレゼントの話をしたときだ。嫌いなものを送ってしまわぬように、と。
 それなのに、それを無視して、よりにもよって俺の一番嫌いなニオイを、俺とのデートにつけたのだから。
 許せるわけがない。
「紗季さ、忘れてない?」
「何を?」
 きょとんとした表情で、紗季は俺の顔を見た。俺の次の言葉を、待っているようにも見える。俺がその顔をしたいくらいだ。

「いや、だからさ。その香水なんだけど」
「え、それがどうかしたの? いい匂いでしょ? これなの」
 そう言って、鞄から小さなアトマイザーを出した。香水についてきたのか、ブランド名のような文字が小さく彫られている。
 驚いた。本当に、わからないらしい。
「……マジでわからないの?」
「あのさ、その上から目線みたいな言い方、やめてくれる?」
 今度は眉間にしわが寄った。今日二度目だが、まるで百面相みたいだ。だがやはり、その顔をしたいのは俺のほうだと言いたい。

「ごめん、俺、そのニオイ苦手なんだわ」
 耐えられずトイレへ走る前に、はっきりということにした。黙っていたらきっと、今日はずっとこのニオイと一緒にいることになる。勘弁してくれ。
 これはちゃんと、はっきりと本人に言うべきだ。遠慮なんか、していられない。
「嘘、なんで? こんなにいい匂いなのに?」
「紗季はそう思っても、好みがあるじゃん? 俺は違うの」
 語気が強くなる。
 流石にこれは、俺的に譲れない。

「えー、でも、慣れたら好きになるかもよ? ほら」
 紗季はそう言うと、アトマイザーのキャップを外し、俺に向かって発射口を向けた。
「うわっ! おい、やめろよ!」
 反射的に、アトマイザーを叩き落とす。
「やだっ!」

 皿に当たり、かちゃんと音を立てたその瞬間、紗季は何もなくなった手を引っ込めた。幸い、テーブルの上のパスタは無事だ。アトマイザーも、皿に当たった後は狭いテーブルの上をコロコロと転がって、すぐに止まった。
 だが、俺たちの間には、気まずい沈黙と空気が流れている。

「あ、いや、その」
「はあぁ? 最っ低! 私もう帰る!」
 アトマイザーを拾うと、サッとティッシュで全体を拭い、わざとらしく音を立てながら、紗季はそれを鞄にしまった。
 そしてそのまま金も払わずに、ツカツカと靴を鳴らしながら、俺のほうを振り返ることもなく、足早に去っていった。

「……なんなんだよマジで。帰りたいのは俺のほうだっての」
 どん、と背もたれに身体をぶつける。怒りのやり場がない。どうしたらいいのかわからない。どうにかしようにも、相手はもう行ってしまった。
「……あれ、もしかして」
「え、ケンカ?」
「彼女? 帰ったの?」
「やば……」

 周りの声が、嫌でも耳に届く。ヒソヒソどころか、ザワザワだ。
「何か言いたいのは、だからこっちなんだって……」
 俺は、残った料理を黙々と平らげて、二人分の料金を支払って、そそくさと店を出た。

 店を出ても、ゆっくり周辺を歩いていても、紗季から連絡は来ない。
 まさか、俺を置いて帰るとは思わなかった。雑に扱われた気分だ。まるで、その辺に落ちていた、誰が捨てたかもわからない、ゴミみたいに。
「くそっ」
 あぁもう苛々する。涙も出そうだ。惨めで、悲しくて、悔しくて、憎らしい。どうして俺が、こんな気持ちにならなければいけないのか。
「むかつくな!」
 わからない、わからない。

 今日は、夜までデートのはずだった。少なくとも、俺はそのつもりだった。それなのに、今はまだ昼だ。本来なら、まだ一緒にいるはずの時間。
 この後、適当にドライブする予定だった。それから、彼女の家にでも。
 ……その予定はすべて崩れて、俺は一人、車で家路につく。

 紗季のことを思い出すと、悔しいくらいに腹が立った。だから代わりに、違う女性のことを考える。それくらい当然だ。
 先日、ICカードを拾ってあげた女子大学生。照れくさそうに笑う、その笑顔が可愛かった。実家に帰ったとき、顔を合わせた近所の奥さん。お裾分けの煮物が旨かったっけ。
 それから、いつだったか、電車の乗り換えで困っていたOL。一個ずつ教えたら、お礼にとお菓子をくれた。なかなか、モデルみたいな体型な子だった。

「やっぱ、優しくないとなぁ」
 それだけじゃない。会社の後輩や同僚、いつもコンビニで会う店員、取引先の受付嬢、大学で同じサークルだった仲間。
 今の彼女以外にも、目を惹く人は沢山いる。
「あーあ、もう別れよっかなぁ」


← 前の話|目次|次の話 →

タイトルとURLをコピーしました