帰られて悔しいからじゃない。謝らなかったからじゃない。俺の好みをすっかり忘れていたことが、一番腹が立った。それが別れのよぎる理由だ。腹が立って悲しかった。
しかも、よりにもよって、大嫌いなものを忘れていたのだ。人によっては致命傷になる。
……紗季をフォローする言葉が出てこない時点で、謝るどころか別れを考える時点で、俺にとっても、致命傷だったのかもしれない。
「もう無理だろ、これ」
俺も謝り方がわからない。そもそも、俺が謝るべきだとも思っていない。
だから、寝て起きた明日には、真っさらな他人同士になっていても、なんらおかしくない。
「たいしたことない関係だったな」
悪態を吐きながら、家に着いた俺は、紗季の動向を気にしながらも、気が付いたら眠ってしまっていた。
目が覚めたのは、夕方だった。まだ日は落ちていないが、人によっては夜ご飯を食べ始める時間だろう。
「げっ、俺結構寝てたってこと?」
焦ってスマホを見る。すると、紗季からメッセージが届いていた。
送るかどうか悩んだのか、それとも文章を考えたのか、何度か送信を取り消したようで『メッセージを取り消しました。』の文字が並んでいる。
「またかよ」
紗季はいつもこれだ。しょっちゅう送信を取り消す。そんなに何度も消すくらいなら、最初からメモに取るなり、シミュレーションするなり、もっと考えてから送ればいいのに。……と思っていたが、結局今日まで言えずじまいだ。
「謝りたいとか、ごめんねとか、そういう話?」
最後のメッセージも『メッセージを取り消しました。』なのだ。何が送りたかったのか、これではわからない。俺はエスパーじゃない。
気まぐれで沸点の低い紗季の考えていることはいつも予想を外すし、最初から上手く対応できたことも数えるほどだ。
「これじゃあわかんねぇっつーの」
通知を見る前に、中身を見てしまった。だから、取り消す前に、何が届いていたのかは、もうわからない。
「行くだけ行くか?」
俺は連絡を入れずに、そのまま紗季の家へ向かうことにした。一応、入れようかとも思ったが、まだ俺の機嫌は直っていない。
ちょっとくらい驚かせたって、バチは当たらないだろう。
紗季に驚かされることは、多々あった。悪い意味で。
だから、今度は俺の番だ。彼氏が急に来たって、別に困ることはないはずだ。隠し事でもしていない限り。
そう考えながら、車を走らせる。目指すは彼女の家。いなければ帰ればいいし、会話にならなきゃ、そのときも帰ればいい。
「反省すべき、だよな」
今日のお昼は、失敗だった。
全然、楽しくなかった。
紗季は自分のことしか考えていないし、周りは俺がまだ残っているのに、ひそひそと話し始める。
「……ったく。よりにもよって、何であのニオイなんだよ……」
信号待ちの時間、頭に浮かぶのはあの元彼女の悪気のない顔と、思い出したくもない香水のニオイ。
そう、あれは、紗季と付き合う前。中学のころから、社会人になるまで付き合っていた元彼女。その彼女が、俺と会う最後につけてきた香水だ。隣に並んだ男と同じニオイの。
「他に、好きな人ができたから」と、俺は呆気なく振られた。そこまで付き合って、ぼんやりとだが結婚すると思っていた。それなのに、俺の彼女は、知らない男の隣で、幸せそうに笑っていた。
暑い夏の日、汗と混じった安っぽいバニラの臭い。むせかえるほどの甘ったるさが、鼻腔を刺激して俺はそのまま吐いた。あいつらは、そんな俺を笑って見た後、そのまま帰っていったっけ。
だから、俺はこのニオイが大嫌いだ。
思い出したくもないから、最初に予防線を張ったというのに。
「バニラのニオイ好きだなんて、俺聞いたことなかったけど」
言い訳をするならば、すべてのバニラがダメなわけではないし、そのニオイを好きな人がいることもわかっている。その人たちを、否定するつもりはない。
あくまでも、ただ、俺がダメなだけなんだ。
でも、彼女には、それを理解してもらいたかった。
嫌いなものを、苦手なものを、わかってほしかった。
車に乗っている間ずっと、思い出したくもないニオイのことを考えていた。一度考えると、同じことをグルグルと考えてしまう、俺の悪い癖だ。
「はぁ、最悪」
紗季の家に着くころには、もう辺りは暗くなっていた。
正確には、夕日が落ち切ろうとして、あの、空の境目がオレンジと紫と、暗い青でできた、一番好きな時間だ。グラデーションと呼ぶには偏るが、日常が夜に溶け込むようで、少しだけ切なくなる。
「あれ、電気点いてないな」
外から見ると、紗季の部屋は暗かった。家にいると思ったが、まだ帰って来てないのだろうか。
「驚かせよ」
車のエンジンを切り、鍵をポケットに入れる。
彼女は、新築のマンションに住んでいた。女性だしオートロックに住めばいいのに「家賃が高くなるから」と言って、誰でも部屋の前まで来られる構造だ。
あまり、そういうことは気にしないらしい。
今どき、新築でオートロックのない、そこそこ階数のあるマンション、というのも珍しい。だが、ウケはいいようで、沢山の人が住んでいるのか、人の出入りは多いなと思った。
エレベータで登ってもよかったが、俺は敢えて階段を選んだ。
カツ、カツ――と、階段を上る音が響く。俺はこの音が好きだ。硬いものを叩くような、軽いようで重たい音。踵に力を入れて、わざと鳴るように歩く。
「あ、やべっ。きたことバレるか?」
部屋の中までは、流石に聞こえないだろうが、もしかしたら、玄関には響くかもしれない。慌てて鳴らすのをやめ、ゆっくりと上がることにする。
「あー、どうしよ。考えてなかった」
このままインターフォンを鳴らすか、それともドアを開けるか。
「一応押すか」
そう決めて、一回だけ、ドアの前で耳を澄ます。
「……」
もし、紗季が家にいるなら、何かしら動く音が聞こえるはずだ。それなら、勝手に入ってやろう。
……カタ……カタッ……。
「いるじゃん」
俺はドアノブに手をかけ、身体を離すと一気に扉を開いた。
――ガチャッ。
「紗季ー!」
……ガタン、バタバタッ。バタン!
大きな音とともに、リビングのドアが閉まる。
「あれ? 紗季?」
リビングの中へ行ってしまったのか。それにしても、家の中が暗い。電気を点けておらず、だいたいの輪郭はわかるが、気を付けて歩かないと危ないだろう。
俺は慣れているから、暗いままでも歩ける。どうして暗いのかはわからないが、何か理由があるのかもしれない。
「おーい、いるのはわかってるんだって!」
玄関を抜けて、左手はトイレとお風呂、右手にはキッチン。廊下にキッチンがあるが、普段はリビングのドアを開けっぱなしにしているから、特に困ることはない。
「連絡、してきただろ?」
ドアを開けたらリビングで、奥に一室ある。正確には、リビングが一部屋にあたり、奥にあるのはウォークインクローゼットだ。俺の荷物も、少しだが置かせてもらっている。
「紗季? なぁ、なんでこんなに」
喋りながら、大きく息を吸った。
と同時に、鼻腔をつく――あの甘ったるい、バニラのニオイ――
「……は?」
昼間のケンカが、まるで走馬灯のように頭の中を流れる。死にかけたことはないが、きっとこういうものだろう。
俺と紗季の会話と挙動がゆっくり、そしてはっきりと、今目の前で再生された映画のように、駆け抜けていった。
なんで。どうして。
どうして。どうしてどうしてどうして。
頭に血がのぼり、その勢いでリビングのドアを開く。
「紗季ぃ!」
ドアの向こうに、彼女はいた。暗い中、立っていることはわかる。そして、より強くなる、香水のニオイ。
嫌いだと言ったのに。理由も教えたのに。
昼間よりも、ずっと、ずっと、ニオイの濃い……。
俺は、もう冷静ではなかった。彼女は何も言わない。何も言わず、俺に謝りもせず、言い訳もせず、ただぼーっと突っ立っている。
――その姿が、無性に許せなくなった。
「あああああああああ」