やり場のない感情を抱え、後ろを向く。そのとき、俺の目に映ったのは、切りかけのりんごと置きっぱなしの包丁だった。その包丁を手に取り、彼女のほうへ向き直る。
暗い部屋、ぼんやりした光、沈んだ太陽、星のない空。
ただ甘いニオイと、俺の頬を伝う汗のニオイ。
微かに漂う、りんごの甘酸っぱさと、鉄と水の混じった、包丁の主張。
黒い影になった彼女は、どこかへ行こうとした。でも俺は、それを許さなかった。
逆手に包丁を持ち、彼女の腕を掴んで、その包丁を――振り下ろした。
何度も。
何度も、何度も。
何度も。何度も。何度も。何度も。
その場に崩れた彼女の、最期の言葉はなかった。ただ、どさり、と音を立てて、横たわっていた。
何だか夢のような気がして、嘘かもしれない気がして、包丁を抜いてまた刺した。彼女の身体の下に、染みができている。赤いのか、黒いのか、よくわからない。
そうやって何度か刺してみたが、彼女はピクリとも動かなかった。俺が刺したときだけ、その動きにあわせて僅かに身体が揺れる。包丁を抜けば、その勢いにあわせて、やっぱり揺れる。
――でもそこに、おそらく彼女の意志はなかった。
よくわからないまま、俺はふとテーブルの上を見た。そこだけ明るい。外灯に引き寄せられる羽虫のように、俺はそれを覗き込んだ。光の主は、彼女のスマホだった。
周囲の暗さにあわせて、これでも控えめな光。その横にある、光のお裾分けに煌々と照らされたのは――俺の、彼女とお揃いのマグカップ。
マグカップを見て、ふと、我に返った。我に返ってしまった。
むせかえるような鉄のニオイ。ゆっくりと染み出す赤と黒。ぐったりとして動かない――
「あ、あ……」
――彼女。今俺が殺した、彼女だったモノ――
「やばいやばいやばい、これバレる」
俺は、テーブルの上のマグカップを手に取り、背負っていたリュックを急いで下ろして、その中にしまった。
これは、俺と彼女でお揃いだったものだ、置いてはいけない。まるで俺が、彼女とこのテーブルを囲んで、今までくつろいでいたみたいだから。
だって、彼女のマグカップが、隣に置いてある。
「あ、いや、あ? 違う、俺の服は? 歯ブラシ、箸と、あと……なんだったっけ……」
片っ端から、俺の物を片付けていく。そのたびに、部屋が荒れたってかまうものか。むしろ都合がいい、泥棒と勘違いしてくれ。
俺の嫌いな香水の臭いに混じって、彼女の血の臭いが鼻を突く。目が自然と、臭いの元へ向かう。……違う、今じゃない、今はあれを見ている場合じゃない。手を動かすんだ、手を。
視界に入る俺の指は、微かに震えていた。鼻を通る空気の音も、いつもよりはっきりと聞こえる気がする。そりゃそうだ。だって俺は、人を殺したのだから。この手で、そこに横たわっている、血にまみれた彼女を。この手で、確かに。
「早く、早く……!」
気持ちだけ焦る。思うように身体は動かないのに。
「これ、どうやって」
――動かそうか。死体を、肉の塊を。
そこまでは、ちゃんと覚えていた。そこからはただ、機械的に身体が動いた気がしてならない。
リュックの中には、彼女の部屋に、置いてあったもの。そして、凶器。
「はぁ、はぁ……」
ゆっくりとドアを閉めて、俺は泣きそうになりながら、車へ戻った。
覚えていないのか、思い出したくないのか、それとも、覚えていてはいけないのか。どれも同じで、どれも違う。
「やばいやばいやばい」
口を突いて出るのは、同じ言葉だった。今は、それ以外浮かばない。それだけ俺は、必死なのだ。
あの場にいたくなくて、あれを見たくなくて、ただ必死だった。俺と同じ立場になれば、誰だって、同じことをすると思う。
俺はそう、自分を守っただけなのだ。忌まわしい記憶から、俺を大事にしない、恋人から。
「大丈夫大丈夫大丈夫」
繰り返すことで、平静を保った。
いや、繰り返さなければ、俺は駄目になると思った。
ちゃんと覚えていなくとも、蘇るものはある。断片的だが、間違いなかった。
バニラの甘ったるい臭い、流れる赤黒い色。
肌と肉を断つ、包丁の感覚。
力の抜けて、動かなくなった、肉の塊。
俺の身体を流れる、ひんやりとした汗。
……しかし、思い返すと、自分でも自分の行動が、よくわからなかった。
多分、いや、絶対、俺は人を殺してしまった。彼女の下に流れたのは血で、動かないのは死んでいたからだ。
俺は帰るのに必死で、駐車場の車のエンジンをかける。手は震えていたが、関係ない。ブレーキを踏んで、エンジンのボタンを押せばいいのだ。
「かっ、鍵回したら、ははっ、う、動かなかった、よ、よなぁ」
浮かぶのは、映画のワンシーン。怪物に追われて、車に乗って逃げようとしても、エンジンがかからず追いつかれる。
追いつかれて、窓を破られ、そのまま……。
口から出る声は震えている。そういう意味では、俺の中にもまだ、良心はあったのかもしれない。
「……あ? あ、あ、あ……」
今、気が付いた。俺の両手は、赤黒く染まっている。服にもあちこち染みができて、独特のあの、鉄臭さを放っていた。
乾いていても、乾いていなくても、血は血だ。
「うっ、うえっ――うぐ、ぐっ……」
吐き気がこみあげてくる。今この車の中には、彼女の血の臭いと、それから俺の汗のニオイに混じって、死にたくなるようなバニラの臭いが、車の中に充満していた。
喉が勝手に開き、しゃくりあげる。急いでゴミ箱を手に取ると、俺はそのままその中に、胃の中の物を吐き出した。
「おえっ、えっ……うっ、う……」
ビクビクと身体が跳ね、その反動で中身が飛び出す。落ち着いたころには、俺は運転席にもたれ、額の冷や汗を感じながら、肩で息をしていた。
吐き終えてから、俺は何とかエンジンを動かした。そして、まずは窓を開ける。このにおいは、耐えられない。
窓に近づき、外の空気を大きく吸う。
「最悪だ……」
この臭いを嫌いな理由が、またひとつ増えた――
「もう、どうしたら」
いつまでも、ここにいるわけにはいかない。いつ、彼女の部屋に警察が来るか、まったくわからないのだ。
手についた、まだ乾き切っていない血。ペタペタと音を立てながら、ハンドルを握ってみる。だがしかし、その気持ち悪さにまた、吐き気がこみあげてくる。
「無理、無理」
ウェットティッシュでこそげ落とすように、手のひらについた血を拭う。それから、顔もだ。服は、今はどうしようもない。
箱が空っぽになるまで、俺は拭き続けた。
「消えろ、消えろ消えろ消えろ」
力が強すぎたのか、血を拭ったのにまだ赤い。それに、ひりひりして痛い。
その痛みが、俺を現実に引き戻す。
できるだけ丁寧に拭き取り、俺は「あぁ、早く家に着かないかな」と、家のことだけを考えた。
そして、努めて冷静に、ブレーキを解除して、代わりにアクセルを踏んだ。
必死になったおかげで、気が付いたときにはもう、家の中だった。
「助かった……」
どたばたと走って急いで洗面所で水を汲み、口の中の独特の気持ち悪さを、その水と一緒に吐き出す。
ふと鏡を見ると、死人のような男の顔が映っていた。死んだのは、彼女なのに。
「……風呂、風呂入ろう」
そう、とりあえず風呂だ、風呂に入ろう。浴槽を洗いもせずに、そのままお湯を張った。風呂がきれいだとか汚いだとか、そんなこと今はどうでもいい。
とにかく、色んなものを洗い流したい。お湯に浸かって、一瞬でもいいから忘れたい。ただ、それだけだ。
服を脱ごうとすると、少し身体に貼り付いていた。あの、彼女から流れた血だ。
「いける、剥がせる」
既に乾いている部分はぺりぺりと剥がす。まだ湿っている部分は、これ以上身体に触れないよう、できるだけ身体から離して脱ぐように心がけた。
冷えた血が気持ち悪い。においもまだ、微かに残っている。
「ごみ袋、は、黒いのに一旦入れて」
こんな服、二度と着られやしない。捨てるしかないのだ。
お気に入りの服を着ていなくて、心底良かったと思う。ごみになるなんて悲しい。……そう思ったとき、俺は、ほんの少しの悪を自覚した。