「やだ、もうやだ!」
染みつくような、血とバニラの臭いは、俺の中から消えないのに。
「やばいじゃん、無理じゃん」
スマホはきっと、警察に回収される。
「くっそ!」
とてもじゃないが、あんな中スマホを取りに行くことはできない。警察に尋問でもされたら、もうどうしようもないじゃないか。
「どうすりゃいいんだよ」
誰に問いかけるわけでもないが、答えが出ないまま俺は家に帰った。
コンビニで買ったおにぎりを食べて、俺は限界を迎えた。辛うじて歯を磨くことはできたが、着替える間もなく床で寝ていたのだ。
目が覚めた時、辺りはもうすっかり明るくなっていた。
悪夢のような昨日は、もう終わったのだ。
「……いてぇ」
大きく身体を伸ばし、床で眠ってバキバキになった背中を解す。置きっぱなしになっていた、飲みかけのお茶を喉に流し込んで、改めてベッドへ潜り込んだ。
「休みでよかった」
仕事に行かなくても良いことを、今日ほど喜んだ日はないかもしれない。欠席の連絡すら、億劫なのだ。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
スマホのバイブが鳴っている。しかし、そんなことはどうでもよかった。予定もないし、急ぎの連絡を入れてくるような相手も、もういない。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
「今日はもう、寝て過ごすかなぁ」
昨日のことは、本能的に思い出さないようにしているらしい。少しでも出てこようとすると、頭の中のモヤモヤが、それを拒むように覆っていくのだ。
「あー、ねむ」
大きなあくびをひとつ。続けて、またあくびをふたつ。
涙が浮かんで、頬を流れていった。寝起きの目に、涙が滲む。布団の端でぐっと拭った。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
また鳴っている。アプリの通知かもしれないし、要らない広告メールかもしれない。
いつものことだ、気にしない。
「設定……は、また今度にしよ」
今はただ、とにかく休みたかった。細かいことは全部後だ。
身体が沈んで、またうとうとと、まどろみの中へ消えかける。
最高に、心地よい瞬間。意識はあるけど、ほぼ寝ている。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
「なんだよ、もう!」
普段だったら気にならない、アプリの大量の通知音が、今日は無性に気になった。
なぜかはわからない。もしかしたら、感覚が敏感になっているのか、神経が研ぎ澄まされているのかもしれない。
「この時間なのに、やたら多くないか? 何でだよ」
せっかくの、このまどろみの時間の邪魔をしないでほしい。
ぼんやりしている間と、眠っている間は、色んなことを忘れられるのに。
「電源切るか、めんどくせぇ」
俺は寝転がったまま、腕だけ伸ばしてサイドテーブルのスマホを取る。
「今はゲームする気分じゃ……」
はぁ、と溜息を吐いて、通知の一覧を適当に確認した。
「……嘘、だろ?」
思わずスマホを落とす。俺の横をすり抜けて、スマホは床に落ち、ごっ……と重くて硬い音を鳴らした。
「は、いや、なんで? は?」
すぐに身体を起こして、壁に背中をつけた。支えがほしい。支えがないと、崩れてしまいそうだ。
手が震えている。昨日から震えっぱなしだ、もう落ち着いてもいいころなのに。
何もしていないのに、勝手に目から涙が溢れてきた。胸が苦しくて、動悸が酷い。鼻の奥がつーんとして、唇が渇く。
「夢か? 夢なのか?」
手の震えは治まらない。仕方なく、意を決して、もう一度スマホの通知を、この目で確認しようとしたとき――
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
「ひっ!」
壁に頭をぶつけた。痛い。が、今はそんなこと、どうでも良かった。こんな痛み、胸を締め付ける不安と恐怖に比べたら。
やっぱり、まだ、手は震えていた。この震えを治めるためには、スマホに届いたものの中身を、ちゃんと見ないといけないのだと思う。それが、どんな内容だったとしても。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
また、鳴っている。
「よ、よし。俺は、見る。お、俺、俺は、見るぞ!」
床で拾われるのを待っているスマホを、俺は指で恐る恐る掴んだ。「どうか、今この瞬間だけは、鳴らないでくれ」と、神様に祈りながら。
今鳴ったら、絶対にまた、手から離してしまう。
「よし、よし……。いい、いいぞ……」
かつてないほどに、俺は丁寧に丁寧に、スマホをベッドの上へと引き上げた。スマホは鳴らなかった。
「最後のやつは?」
それはまだ、通知を見ていない。ただのゲームの通知であることを願い、電源を押した。
「……う、うぅ」
ダメだった。ゲームの通知ではなかった。
「なんで、なんで、だよ」
俺はチャットアプリを開いた。連絡はもっぱらこれだ。メールは面倒だから、何かの登録のときしか使わない。
開くのは怖い、が、知らないうちに出てきた好奇心が、俺の頭の中を覆っていた。
何通も、取り消されたメッセージ。
いつものように並ぶ『メッセージを取り消しました。』の一文。
ケンカの後の、少しよそよそしい感じ。
様子を窺うような、少しだけ丁寧な言葉の選び方。
それでも、いつも通りを装った文字。
だけど、謝ることはない――
「そんなわけないだろ……?」
表示されている名前は――『高峯紗季』――
紗季から俺に、メッセージが届いたのだ。相手に間違いはない。だって、昨日まで俺は、このトークルームで紗季と連絡を取っていたのだから。間違うはずがないのだ。
現に、履歴だって残っている。間違いない、これは紗季だ。
でも、彼女は死んでいる。死んでいるから、メッセージを送ることはできない。
「悪戯か? 誰が? あぁもう、何で俺、スマホ回収し忘れたんだよ!」
どん、と壁を殴る。大事なものを、すっかり忘れていた自分が許せない。
だからといって、あのパトカーと警官たちのことを思うと、再び戻る気にはなれなかった。
それに、もうスマホは回収された後だろう。あれは証拠品だ、遺品でもあるが、あの現場はどう見たって事件現場だ、回収しないわけがない。
俺は、もう一度、スマホの画面に目をやった。
「『今日、何してる? 昨日話した、買い物のことまだ覚えてるかな? 会えたら嬉しいな』なんて、あいつ以外誰が送るって言うんだよ……」
文末に、彼女のお気に入りの絵文字。見れば見るほど、このメッセージに恐怖を感じた。
だって、これは、死者からのメッセージだ。
「誰が会いに行くかよ!」
俺はただ、恐ろしかった。彼女の執念が。
もしかしたら、何か使って、予約投稿していたのかもしれない。実はメッセージが未送信のまま残っていて、警察が検証中に、うっかり送信ボタンを押した可能性もある。
もし、警察だったら。今の俺には、思い当たる節と、後ろめたいことしかない。
彼女の家でまだ捜査をしているなら、ひょっこり顔を出した俺は、格好の餌食だ。根掘り葉掘り聞かれて、ボロを出しかねない。今の自分の精神が、通常じゃないことはよくわかっている。
「俺は、何も知らない! 何もやってない! 見てない、聞いてない!」
自分に言い聞かせるようにそう叫ぶと、俺はベッドへともぐりこんだ。今は、心を落ち着けよう。
とにかく、彼女の家に近づかなければいい。行くとしても、もう少し時間が経ってからだ。時間が経って、警察や野次馬がいなくなってから。それが正解だ。
できるだけ、彼女のことは考えないようにした。だがしかし、思考の隙間を縫って浮かぶのは、彼女のことだった。もしかしたら、こんなに彼女のことを考えるのは、人生で初めてかもしれない。
「もう少し、あいつのこと考えてやればよかったのか?」
わからない。考えるべきだったのかも、俺が今、なぜそう思ったのかも。