マーサはキッチンに立ち、リリィはその横で野菜を洗っている。
本人は手伝っているつもりなのだろうが、実際には半分以上水遊びだった。それでもマーサは追い払うことなく、濡れた袖を捲り上げながら、時折注意する程度だった。
ジャックはソファで雑誌をめくっている。オリオンは窓際に立ったまま外を眺めていた。
だが意識は別のところにある。
それは、視線の先ではなく。リリィの胸元だった。何度もその意味を考えてしまう、小さな真鍮の鍵。
鍵の持つ意味の『可能性』を知ってしまった結果、一瞬でも目が離せないものになっていた。
「リリィ」
気付けば、声を掛けていた。
リリィが振り返る。
「なあに?」
その無邪気な顔を見て、一瞬だけ質問を躊躇うも、聞かなければならない気がした。
「その鍵」
リリィが胸元を見下ろく。そして困ったように笑った。
「あげないよ?」
「取らない」
「ほんとに?」
「本当だ」
リリィは安心したように頷いた。
それから鍵を掌へ乗せる。小さくて、どこにでもありそうな真鍮製の鍵だ。
少なくとも見た目だけなら。どこか道端に落ちていたとしても、気にも留めないだろう。それくらい、ありふれているものに見えた。
「いつも持ってるな」
「うん」
リリィは当然のように答える。
「だって、たからものだもん」
その言葉に、マーサが少しだけ振り返る。ジャックも雑誌から顔を上げた。しかし、その様子にリリィは気付いておらず、ただ嬉しそうに鍵を撫でている。
「パパとママがくれたの」
オリオンは黙る。
「お誕生日?」
マーサが優しく聞く。だが、その問いに対し、リリィは首を横に振った。
「ちがう」
「じゃあ何の日だい?」
少し考える。そして。
「わかんない」
そう言って笑った。なんとも、子供らしい答えだった。
「でもね」
リリィは続ける。
「そのひは、パパもママもすごくへんだったの」
部屋が静かになる。そう話す本人だけが気付いていない。
「ずっとけんかしてて」
鍵を握る。
「でも、きゅうになかなおりして」
その時のことを、思い出しているのだろう。少しだけ目を細めている。
「それで、これくれたの」
沈黙が走る。
そこまで聞いて、マーサは何も言わない。ジャックも、オリオンも。ただ、リリィの話を聞いていた。
「なくすなっていわれた。ぜったい、だって」
リリィは笑う。
「だからなくしてないよ」
得意そうだった。それはどう見ても「褒められる」と思っている顔だった。
その姿を見て、オリオンの胸の奥が痛む。
『なくすな』
『絶対に』
その言葉に込められていた意味を、あの時の夫婦は持っていたのだろうか。それとも、何も考えず、ただリリィに託したのだろうか。
鍵を握りしめて笑う少女は、その答えを知らない。
本当に何も。
だからこそ、守らなければならないと、そう思ってしまった。
そしてまた、そう思ってしまった自分に、オリオンは少しだけ苛立った。
情は判断を鈍らせる、昔からそう教わってきた、実際その通りだった。
情に流された人間は死ぬ、何度も見てきた、だから切り捨てる。必要以上に関わらない、それが正しい、そのはずだった。
だが、自分の質問に対し、鍵を握りながら笑っていたリリィの姿が、どうしても頭から離れない。
――その日の夜更け、リリィが寝静まったころ、オリオンとジャックは再び家を出ていた。
マーサは当然のように残っている。「行ってきな」とだけ言って、もはやそれが当たり前とでも言うように、リリィの家で過ごしていた。
街は静かだったが、昼間とは違う顔を見せている。ネオン、酔っ払い、路地裏。裏社会の匂いが濃くなる時間だった。
「で?」
ジャックがコーヒーを一口飲んで言う。
「次はどこを調べる」
「夫婦だ」
オリオンは即答した。
「ハロルドじゃなくて?」
「まず夫婦だ」
ジャックは少しだけ驚いたが、反対はしなかった。確かにそのほうが早いと、そう思ったからだ。
リリィの両親は、ただの麻薬運びの末端だと考えていた。だが、今はもう違う。
裏世界では、知る人ぞ知るハロルドとの繋がりに、理由も告げず娘に託した鍵、それからその娘の元へやってきた男。
鍵がある、理由がある、情報がある……ならば、調べる価値もある。
数時間後、二人は古びたバーの奥にいた。酒を飲みに来たわけではない、会いに来たのだ、死体より情報に詳しい男へ。
「初めての顔だな」
そう言って男が笑う。
ジャックは笑い返すが、オリオンは笑わない。
「ジャックお前、いつの間にコンビで動くようになったんだ?」
「コンビじゃねぇ。……いや、コンビか。なぁ相棒」
「黙って本題に入れ」
「何だよ! つれねぇな!」
その様子を見ていた男は「なかなかいいコンビじゃないか」と、そう思っていた。だが、決して口には出すまいとも思っていた。言ってしまえば、ジャックの連れてきた男――オリオンに殺されると、そんな空気を感じたからだ。
「この夫婦について聞きたい」
オリオンが写真を置く。写っているのはリリィの両親だった。
男はそれを見て、眉をひそめた。
「何だ」
オリオンが言う。
「あぁ、いや」と、否定するようなことを言いながらも、男は写真から目を離さない。
「知ってる顔だったからな」
この男が知っているというのは、つまりは良くない噂があるということで、足を突っ込んでから何度目かの嫌な予感がした。それは、ジャックも同じだった。
「評判は?」
短く聞くと、男は鼻で笑った。
「もちろん最低だ」
面白いほどに即答だった。何の迷いもみられない。
「売ってた」
「薬を」
「子供のいる家にも」
「その辺のヤツに頼まれた、何も知らない子供にも」
立て続けに男が言うと、オリオンもジャックも押し黙った。
「借金抱えた連中にも」
「高校生にも」
「ホームレスにも」
「警察官にも」
「金さえ払えば、誰にでもだ」
ジャックが目を伏せたが、オリオンは何も言わなかった。予想はしていたが、思った以上だとオリオンは額に手をやる。
知りたかった、だから聞いた。気分の良い話ではないことは、とっくにわかっていた。それなのに、無性に腹が立つ。
「夫婦仲は?」
次の問いをジャックが投げる。
「悪かったな」
自分で大きく頷きながら、男は答えた。
「金で揉めてた。そりゃもうしょっちゅうだ。殴り合いのケンカもしてたって話だぜ」
その言葉に、ふとリリィの言葉を思い出す。
『そのひは、パパもママもすごくへんだったの』
『ずっとけんかしてて』
オリオンは黙って続きを待った。男はグラスを回す。
「でもな」
ここにきて、初めて少しだけ声色が変わった。
「最後の数日だけは違った」
それは、今までで一番穏やかで静かな声だった。
「逃げる気だったらしい」
ジャックが顔を上げる、オリオンも続いた。
「誰から」
「組織からだよ」
男は答える。
「何かを盗んだんだ」
その瞬間、二人の脳裏に同じものが浮かぶ。小さな真鍮の鍵、胸元で揺れていた、リリィの宝物。
「何を?」
オリオンが聞く。情報の正しさを精査するためだった。
男は口を真一文字に閉じて、それから首を横に振った。
「そこまでは知らねぇよ」
そして、ゆっくりと言う。
「だが噂じゃ」
グラスの中の氷が、からんと小さく鳴った。
「あんなクソみたいな夫婦でも、娘はそれなりに大切だったらしい」
オリオンもジャックも、何も言わなかった。
ただ、リリィの笑顔だけが頭に浮かんでいた。
――バーを出ると、夜風がさらに冷たくなっていた。時間は遅くなったのに、街の喧騒はまだ残っている。
だが、二人の間には沈黙があった。重たい沈黙だった。
歩道を照らす街灯の光が、長い影をアスファルトへ落としている。
「クズだったな」
溜め息と一緒に零れた言葉だった。
オリオンは否定しない。
「ああ」
短く答える。それだけだった。
子供にも売った。借金まみれの人間にも売った。高校生にも売った。ホームレスにも警官にも、誰彼構わず。
救いようがない。
……もしリリィがいなければ。
あの日、あの部屋で死んだ夫婦のことなど、とっくに忘れていた。それほどの価値しかない人間だった。
「後悔してるか?」
ジャックが聞く。
オリオンは即答する。
「してない」
本心だった。あの時殺したことも、今の返答にも迷いはない。
夫婦が、意味をわかっていて、あの鍵を娘に託したのなら尚更だ。
納得したのか、ジャックも頷く。
「俺もだ」
夜風だけが二人の間を通り過ぎる。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。誰かがまた捕まるのだろう。
あるいは、誰かが逃げるのかもしれない。そんなことはどうでもよかった。
「でもさ」
不意にジャックが言う。オリオンは視線だけ向ける。一瞬だけ彼を見て、そのまままた視線を外した。
ジャックは、前を見たままだ。
「最後だけは親だったらしいな」
静かな声だった。
笑っていないし、茶化してもいない。きっと、本当にそう思ったのだろう。
オリオンは何も答えない。同時に、否定もしなかった。