そして、足元へ滑ってきたフライパンを拾い上げ、そのまま男へ向かって全力で投げつける。
フライパンにしか目がいっていなかった男は、反応が一拍遅れ、咄嗟に身体を引いた。身体をフライパンが掠め、その拍子に銃を落とす。
「これ、古いけど良いフライパンだな!」
「前!」
マーサが怒鳴るように返す。
男が銃を拾うよりも先に、オリオンの銃声が続き、ジャックの前へ立ちはだかっていた一人が崩れ落ちる。
マーサが満足そうに頷いた。
「知ってるかい? 料理にも使えるんだよ、それ」
『料理が本来の使い道だ』
オリオンの呆れた声が、無線越しに落ちた。
ジャックは息を切らしながらも笑い、リリィのほうへ視線を向ける。
「待たせたなプリンセス」
だがその時、工場の奥から静かな声が響いた。
「下がれ」
その一言だけで、敵の動きが変わった。
乱れかけていた陣形が一瞬で引き締まり、リリィの前へ立っていた男たちが一斉に道を空ける。
暗がりの奥から、ハロルドがゆっくりと姿を現した。一度は部下に状況を負かせたものの、彼は戻ってきた。
当然ながら、彼は銃声にも悲鳴にも、血の臭いにもまるで動じていない。
「鍵を返してもらう」
静かな声だった。
その冷たさに、工場中の喧騒が一瞬だけ遠のいた。その場にいる全員の意識が、一瞬だけハロルドへ向く。
彼は、ゆっくりとリリィの前まで歩み寄ると、まるで壊れ物を扱うかのような慎重さで首元の鍵へ手を伸ばす。
その手には迷いも怒りも哀れみもない。あるのは目的だけだった。
「い、や……」
小さな声が漏れるが、ハロルドは聞いていない。いや、たとえ聞こえていても、リリィには興味がないのだ。
その指先が鍵へ触れようとした瞬間、一発の銃声が工場中へ響き渡った。
ハロルドの手がわずかに止まる。銃弾は彼の手首を掠め、火花を散らしながら背後の鉄柱へ食い込んでいた。
――あと数センチずれていれば、確実に撃ち抜いていた一発だ。
オリオンは給水塔の上から照準を動かさない。だが、ハロルドの頭部へ十字線を重ねながらも、引き金を引けなかった。
リリィが近すぎる。
少しでも身体を動かされれば、誤射の危険がある。その一瞬の迷いを、ハロルドは見逃さなかった。
静かに視線だけを給水塔へ向ける。それは、初めて鍵以外へ向けられた視線だった。
「狙撃手か」
その一言だけで、周囲の部下たちが一斉に動き出す。
「屋上を制圧しろ!」
「狙撃手を潰せ!」
数人が工場の外へ走り出す。
オリオンは舌打ちひとつせず、照準を切り替えた。
今狙うべきは、ハロルドではない。リリィまでの距離を遮ろうとする、敵。
淡々と引き金を引く。男が倒れ、さらにもう一発撃ち込むと、それは拘束を見張っていた男の肩を撃ち抜き、リリィから引き離した。
必要なのは、その隙だった。
「リリィ!」
ジャックが叫ぶ。
その声と同時に、積み上げられていた木箱を蹴り飛ばし、崩れた荷物を盾にしながら一気にリリィの元へ駆け抜ける。
敵の銃弾が木箱を貫き、木片が激しく飛び散る。
それでも彼は止まらない。
ジャックは、滑り込むようにリリィの前へ飛び込み、ポケットから小型のナイフを取り出すと、結束バンドへ刃を滑らせた。
「遅くなったな」
できるだけ、普段どおりの声だった。
リリィは目を見開く。
「ジャック……!」
「もう大丈夫だ」
結束バンドが切られ、リリィの両手が自由になる。
続けて足首の拘束も断ち切ると、ジャックはしゃがんだままリリィへ手を差し出した。
「立てるか? 俺たちのプリンセス」
「うん!」
リリィは力強く頷く。確かに。彼女の手は震えていた。それでも、その手をしっかり握り返した。
「感動の再会は終わったか?」
その様子を見ても、ハロルドの表情は変わらない。変わったのは、彼の持つ銃の照準。
「撃て」
命令は短かった。しかし、その瞬間、四方から一斉に銃口がジャックとリリィへ向けられる。
逃げ場はない。
流石のオリオンも、短時間で全員を撃ち抜くことはできない。
その刹那。
工場内へ響くような怒声が飛んだ。
「どきなっ!!」
マーサだった。
彼女は近くに積まれていた鉄製の台車を両手で押し込み、そのまま敵陣へ向かって全力で突進させる。
重量のある台車は勢いそのままに男たちを薙ぎ倒し、銃口が大きく逸れる。敵の落とした散弾銃を拾い上げていた彼女は、どっしりとそれを構えて、敵に向かって乱射した。
わずか数秒。だが、その数秒で十分だった。
「走れ!」
ジャックがリリィの手を引く。
二人は崩れた木箱の陰へ飛び込み、銃弾の雨を紙一重でかわしながら、工場出口へ向かって駆け出した。
リリィは一度だけ振り返る。
外から中へ打ち込まれる銃弾と、今目の前で広がる弾の波。
ジャックはリリィの手を強く握り締めたまま、工場の出口へ向かって駆け抜ける。飛び交う銃弾を紙一重で避けながら、出入り口付近にある、積み上げられた木箱の陰へ身を滑り込ませた。
後ろでは絶え間なく銃声が響き、オリオンの狙撃と敵の反撃が工場中へ乾いた音を響かせている。
マーサもまた、球切れした男たちに、散弾銃と鉄パイプで応戦し、リリィへ近付こうとする男を次々と薙ぎ倒していた。
「ジャック!」
マーサの声が飛ぶ。
「そのまま外へ!」
「了解!」
返事をしながらも、ジャックも一度だけ振り返る。
工場の中央では、ハロルドが相変わらず微動だにせず立っていた。
部下が倒れても。血が流れても。リリィが逃げても。その表情は少しも変わらない。ただ、静かにこちらを見ている。
いや――違う。
視線の先にあるのは、最後までリリィの首元で揺れる鍵だった。
その執着だけが、男をこの場へ立たせている。
オリオンは照準器越しにハロルドを見据える。
今なら撃てる。
距離も風向きも問題ない。
しかし、引き金へ掛けた指は動かなかった。
ハロルドの背後には、ドラム缶が無数に積み上げられている。中身がわからない。からかもしれないし、水かもしれない。薬品の可能性もある。
不用意に撃てば、中身によっては引火の可能性も、爆発の可能性もあった。
工場ごと吹き飛べば、リリィもジャックもマーサも巻き込まれる。誰も助けられない。
オリオンは静かに銃口を下げる。
その判断を読んだかのように、ハロルドが初めて小さく口角を上げた。
「なるほど」
感情の薄い声だった。
「珍しい。そういう人間か」
その言葉だけを残し、ハロルドはゆっくりと後退する。奥の通路、暗闇の中へ。
部下たちはなおも応戦を続けていたが、その動きはすでに統率を失い始めていた。鍵の主は消えたのに、ハロルドも追いかけることなく同じように消えたからだ。矛盾が彼らの意識を奪う。
「退け!」
ハロルドではない誰かが叫ぶ。
「撤退だ!」
その声を境に敵は一斉に散り始め、残っていた者たちも煙幕を展開しながら、工場の奥や裏口へ順に姿を消していく。
ジャックは煙の向こうを睨みつけたが、深追いはしなかった。
今、優先すべきは追撃ではない。ようやく取り戻した少女を、無事に連れて帰ることだった。
工場の外へ出ると、冷え始めた夜風が火照った身体を静かに撫でていく。
リリィは息を切らしながら立ち止まり、ようやく実感したようにジャックの服をぎゅっと掴んだ。
ジャックは何も言わず、その小さな手を握り返す。
遅れてマーサが外へ出てきた。足取りは重いが、それでもリリィの顔を見ると、痛みを堪えながら笑ってみせる。
「迎えに来たよ」
その一言で、リリィの目に涙が滲んだ。
給水塔の下では、オリオンが最後にもう一度だけ廃工場を振り返っていた。
暗闇の奥に、ハロルドの姿はもう見えない。
逃げたのか。それとも、まだどこかでこちらを見ているのか。そのどちらともわからなかった。
ただひとつだけ、確かなことがある。
リリィは戻ってきた。
彼にとっては、それだけで十分だった。
三人は少女を囲むように歩き出す。
長い一日が、ようやく終わろうとしていた。