* * *
一年前、あれほど騒がしかった街は、今は何事もなかったかのように、いつもの朝を迎えていた。
通学路には制服姿の子どもたちが行き交い、横断歩道では地域のボランティアが黄色い旗を掲げ、商店街では開店準備をする店主たちが挨拶を交わしている。
季節は巡り、街は少しずつ前へ進んでいた。だがその隅では、今日も人が死んでいる。
その人の流れの中を、一人の少女が軽い足取りで歩いていく。
リリィは肩にリュックを揺らしながら、道端に咲いた小さな花を見つけて足を止めると、しゃがみ込んでそっと眺めた。
「おはよう、リリィ」
近所のおじいさんが声を掛ける。リリィはにっこり笑って頭を下げた。
「おはようございます!」
元気な返事を返す。その笑顔を見送りながら、おじいさんは目を細めた。
「すっかり明るくなったねぇ」
その言葉に、リリィは少しだけ照れ臭そうに笑うと、再び学校へ向かって歩き出した。
教室へ入ると、数人の友達がすぐに駆け寄ってくる。
「リリィ、おはよう!」
「おはよう!」
「きのうの宿題やった?」
「うん!」
他愛もない会話が続く。
転校したてのころの雰囲気は微塵も見せずに、彼女は持ち前の明るさと人懐っこさで、今年も新しいクラスに馴染んでいた。
その様子を廊下から見ていた担任は、小さく微笑む。
「みんな席についてー」
朝のホームルームが始まり、出席確認が終わる頃には教室はすっかりいつもの空気へ戻っていた。
そして、休み時間。
友達と校庭を歩いていたリリィへ、一人の女の子がふと思い出したように尋ねる。その女の子は、ノアだった。
「そういえばさ」
「リリィのお家って、今どうなったの?」
悪気のない質問だった。
少し前のリリィなら、困ったように黙っていたかもしれない。母も父も消え、家は壊れ、自身も誘拐されたのだから。
けれど、今は違う。
彼女は胸を張るように立ち止まると、誇らしそうな笑顔を浮かべた。
「わたしね」
一拍置いて、嬉しそうに続ける。
「新しい家ぞくができたの!」
ノアが目を丸くする。
「えっ?」
リリィは指を折りながら、一人ずつ名前を挙げていく。
「マーサおばちゃんと」
「ジャックと」
「オリオン!」
その声には迷いがなかった。
オリオンやジャック、マーサに気を遣っているわけでも、誰かに言わされているわけでもない。
自分の自分で考え、発した言葉だった。
友達は一瞬だけ驚いたものの、リリィの晴れやかな笑顔を見ると、つられて笑顔になる。
「そっか! よかったね!」
「うん!」
「……こんど、会いに行ってもいい?」
「もちろん!」
リリィは力強く頷いた。
その笑顔は、一年前に見せていた、戸惑いもある笑顔とはもう違う。
大切な人を失った悲しみは消えていない。が、それでも、その悲しみごと抱きしめてくれる居場所を、きちんと見つけた人の笑顔だった。
放課後になると、リリィはリュックを背負ったまま街を歩き、いつものダイナーの扉を開ける。
カラン、とベルが軽やかな音を立てた。
「ただいま!」
「おかえり」
その一言だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
カウンターの向こうでマーサが笑顔を向けている。マーサは、リリィを養うために、このダイナーで仕事を始めた。
オリオンやジャックも協力しているが、これはマーサの意向だった。
店内では昼の混雑も落ち着き、数人の常連客がコーヒーを片手に新聞を広げたり、世間話へ花を咲かせたりしている。
ジャックは、カウンター席へ肘をつきながら山盛りのポテトを頬張り、オリオンは少し離れた席で静かにコーヒーを飲んでいた。
「リリィ!」
ジャックが大きく手を振る。
「今日のランチはどうだった?」
「えっとね、ピザ!」
「いいなぁ」
「ジャック、アンタさっきピザ食べたばっかりだろ」
マーサが呆れたように言う。
「育ち盛りなんだよ」
「アンタはもうとっくに育ちきってるよ」
店内へ小さな笑いが広がった。
リリィも思わず吹き出しながら、いつもの席へ腰を下ろす。
カウンターの上では、小さなテレビが夕方のニュースを映していた。
『続いてのニュースです――』
アナウンサーの落ち着いた声が、店内へ流れる。
『昨年より、国際的な合同捜査が続けられていた麻薬密売組織事件についてです。本日、警察は組織幹部のハロルド・グレイ容疑者を逮捕したと、発表しました』
画面には護送される男の姿が映る。
帽子を深く被っていても、その横顔には見覚えがあった。
『警察によりますと、押収された違法薬物は過去最大規模とみられ、複数の誘拐事件や殺人事件との関連についても、現在捜査が進められています』
ニュースは淡々と続き、やがて別の話題へ切り替わっていく。
マーサは手を止めることなく皿を拭きながら、小さく息を吐いた。
「終わったねぇ」
その呟きには安堵もあれば、どこか寂しさも滲んでいた。
オリオンはテレビから視線を外すと、静かにコーヒーカップを口元へ運ぶ。
「ああ」
返事は、そのたった一言だけだった。
けれど、その短い言葉には、一年前から背負い続けて罪を、ようやく下ろせたような静かな重みがあった。
ジャックはポテトを一本摘まみながら、リリィへ笑いかける。
「ほら」
「今日はもう怖いニュース終わりだ!」
「俺たちと晩飯食おうぜ」
リリィは、テレビを見つめていた視線をゆっくり戻すと、小さく頷き、柔らかな笑顔を浮かべた。
「うん!」
事件は終わった。
だから今日も、みんなでご飯を食べる。
それが今の四人にとって、一番幸せな『いつもの日常』だった。
三人が早めの夕食を終えると、マーサ帰り支度をしながら、何気ない調子でリリィへ声を掛けた。
「リリィ、悪いけど、この後すぐミランダのところに行ってくれるかい? 赤ちゃんが産まれてねぇ。ママが、ミランダの遊び相手を探してるみたいなんだ」
「赤ちゃん⁉」
「そうだよ。双子だってさ。ママの手伝い、してあげてくれないかい? 二時間くらい」
「うん!」
リリィは荷物を手に取ると、元気よく手を振る。
「行ってきます!」
「気を付けるんだよ」
「はーい!」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
その気配が完全に聞こえなくなったことを確認すると、マーサはくるりと振り返った。
「さぁ、帰ったら即始めるよ」
その一言で、ジャックとオリオンが顔を見合わせる。
「本当にやるのか?」
オリオンが静かに尋ねる。
「当たり前だろ」
マーサは腕まくりをしながら笑った。
「あの子にとって、今日は大事な日なんだからね」
三人が家路につくと、マーサはてきぱきとキッチンである準備を始めた。
難しい顔をしているオリオンとは反対に、ジャックはエプロンを広げると、嬉しそうに頭から被る。
「俺、こういうの初めて!」
「やる前に手を洗いな」
まるで、子どもに言うようなセリフを、マーサはジャックに向かって吐いた。
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
「伸ばさない」
「……はい」
マーサは、呆れたように笑いながら材料を並べ始める。
薄力粉。
砂糖。
卵。
生クリーム。
どれも特別な物ではない。
けれど、その一つひとつが『今日』という日のために、用意されたものだった。
「オリオン」
「卵を割っておくれ」
「ああ」
オリオンは、拳銃を持つ時と変わらない真剣な表情で、卵を手に取る。
力加減は正確だった。
殻をほとんど散らすことなく、綺麗にボウルへ落としていく。
その様子を見たジャックが感心したように口笛を吹いた。
「へぇ。器用になったじゃん」
「……どれだけ料理をしてきたと思っている」
「だったらケーキも余裕だな」
「いや、それとこれとは別物だ」
その返事にマーサが思わず吹き出す。
「よくわかってるじゃないか」
砂糖の量を測りながら、どちらに言うわけでもなく続ける。
「料理とお菓子は、似てるようで全然違うからね」
ジャックは隣で泡立て器を握り締め、気合い十分に構える。
「じゃあ俺は混ぜる!」
「まだだよ」
「え?」
「先に全部量っておかないと、後で困るだろ?」
「あ」
ジャックは照れ笑いしながら頭を掻き、オリオンも小さく息を吐いた。
オリオンのそれは、呆れたため息ではない。ほんの少しだけ肩の力が抜けた、穏やかな吐息だった。