彼女は本当に知らなかった。
父も母も、この鍵について詳しく話したことは一度もない。ただ「大切にしなさい」と笑って首へ掛けてくれただけだった。
男はしばらく黙っていたが、やがて興味を失ったように背を向ける。
「構わん」
淡々とした口調で言い放つ。
「そのほうが、本人にとっては都合がいいだろうに」
その一言だけが、静かな工場の中へ重く落ちた。
それを聞いた他の男たちは、返事も反論もしなかった。その沈黙が、この場における上下関係を何より雄弁に物語っていた。
リリィは恐る恐る男の背中を見つめる。彼女にとって、男の後ろ姿は「どこにでもいそうな人」で、目立つ特徴はない。
それなのに、誰も何も言わない。
男は、積み上げられた木箱の前で立ち止まると、ひとつの箱へ静かに手を置いた。
蓋には、暗証番号を入力する基盤が見える。
しかし、それが何を意味するのか、リリィにはわからない。
「確認は済んでいるな」
男が振り返ることなく尋ねる。
「はい」
「その中身は一部です。残りすべて、倉庫で保管しています」
「誰も邪魔できません」
その言葉を聞いて、やがて男はゆっくりとリリィのほうへ身体を向ける。
一拍置いて、リリィは思わず息を呑んだ。……ようやく目が合った、そう思ったのに。
男の視線はリリィの顔を通り越し、その首元へ掛かる鍵だけを、ただ見つめていた。
「私のものだ」
それ以上の興味は示さない。時間が経っても、彼はリリィの名前も年齢も聞かず、彼女が何を思って泣いているのか、それすら気に留めなかった。
部屋の隅にいた別の男が、静かに口を開く。
「ハロルド様」
その呼び掛けにも、男は視線を動かさない。
「ただ、その。……未だに、開錠場所がわからないそうです」
「なら調べろ」
即答だった。
「この子どもは……」
「もう必要ない」
言葉を遮るように答える。
「鍵はある。それで終わりだ」
リリィの胸が強く締め付けられる。「自分は必要ない」と、そう言われた。
ただ、怖かった。けれど、それ以上に理解できなかった。
どうしてこの人は、自分ではなく鍵だけを見ているのだろう。この鍵を手に入れようとしているのだろう。
……しかし、その疑問に答える者はいない。
ハロルドは踵を返し、工場の奥へ向かって歩き出す。その歩みは一定で、焦りも油断も感じられない。
まるで、この場所で何が起ころうと、自分には一切関係がないと知っている人間の動きだった。
そして、その背中が闇へ溶け込もうとした、まさにその時だった。
——パァン!
乾いた銃声が工場中へ入り込む。
屋上に立っていた見張りが、声を上げる間もなく崩れ落ちた。
静寂は、一発の銃声によって終わりを告げた。
屋上の見張りが崩れ落ちた直後、工場内にいた男たちが一斉に動き出す。怒号と足音と銃の安全装置を外す音が重なり合って、先ほどまで張り詰めていた静けさは、一瞬にして戦場の熱を帯びたものへと変わっていった。
「狙撃だ!」
「屋上を確認しろ!」
「中じゃない、外だ!」
混乱は広がったが、彼らは素人ではなかった。
誰かが倒れた瞬間に、全員が恐慌混乱状態へ陥ることもなく、数人はリリィの周囲を固め数人は窓際へ走り、残りは銃口を外へ向けながら遮蔽物の陰へ身を滑り込ませる。
その動きだけで、オリオンは彼らが「今までの下っ端とは違う」ことを改めて理解した。
給水塔の上から照準器越しに工場内部を見下ろしながら、オリオンは次の標的を選ぶ。
リリィへ一番近い男――その照準の先見える銃と、引き金へ掛かった指。
それだけで十分だった。
もう一発の銃声。
男が崩れる。それと同時に、工場の裏手にある非常口が内側から蹴り開けられ、そこへジャックが滑り込むように姿を現した。
片手にはナイフ。
もう片方の手には、どこから持ってきたのか分からない、赤い塗料の缶をぶら下げている。
「お邪魔しまーす!」
場違いなほど、陽気な声だった。
振り向いた敵の一人が即座に銃を向けるが、ジャックは塗料缶を床へ投げつけると同時に横へ跳び、破裂した缶から飛び散った赤い液体が、面白いほど床と壁へ派手に広がる。
「何だこいつ!」
「撃て! 撃て!」
敵の銃弾が床を抉り、鉄骨へ火花を散らした。が、ジャックはその赤い塗料の上を滑るように移動しながら、転倒しかけた敵の足を引っ掛け、倒れた男の背中を踏み台にしてさらに奥へ飛び込んでいく。
「もうちょっと手厚く歓迎してくれよ!」
ジャックが笑いながら言うと、無線越しにオリオンの低い声が返ってきた。
『右』
その一言だけでジャックは身体を沈め、直後に背後から振り下ろされた警棒が空を切り、警棒を持った男の眉間へオリオンの弾丸が正確に突き刺さる。
「助かった」
『喋るな』
「つれないな」
軽口を叩きながらも、ジャックの動きに油断はなかった。
敵が撃つ前に距離を詰め、距離を詰められない相手には周囲の物を投げる。倒れた敵や散乱した塗料、崩れた木箱まで利用して視界を奪い、そこからまた足場を乱し、相手の判断を少しずつ狂わせていく。
それは戦闘というよりも、混乱そのものを芸術作品に変えているような、無駄のない動きだった。
敵の一人が血と塗料で赤く染まった床へ足を取られ、その隙を狙って別の男がジャックへ銃を向けるが、銃口が定まるより早く、工場の反対側で消火器が噴き出す音が響いた。
白い煙が広がる。
その煙の中から、マーサが現れた。
片手には古びた消火器。もう片方には、持ちやすい太さの鉄パイプ。
頭にはまだ包帯が巻いてあり、血が滲んでいる。顔色も悪い。
だが、目だけは爛々としていた。
「リリィを返しな」
低い声だった。
敵の一人が反射的に銃を向ける。だが、マーサは怯まなかった。
消火器を男の顔面へ向けて全力で噴射し、白煙で視界を奪ったところへ鉄パイプを腹に叩き込む。
男が呻いて前のめりになった瞬間、マーサはその後頭部へさらに一撃を入れた。
「クソガキどもめ! ババアを舐めんじゃないよ!」
ジャックが遠くで笑う。
「いいぞ、マーサ! やるぅ!」
「アンタも働きな!」
「もう十分働いてるって!」
ジャックが答えた瞬間、背後から迫った敵へナイフを投げ、相手の手首を壁へ縫い止めるように突き刺す。
男の悲鳴が上がる。その悲鳴に合わせるように、オリオンがさらに一人を撃ち抜いた。
工場内の空気は完全に変わっていた。
奇襲を受けても混乱しなかったのに、いつの間にかペースを乱され、何人も倒されている。
そして今は、三人の連携によって、敵陣そのものが崩れ始めていた。
オリオンが遠距離から敵の動きを削り、ジャックが内部で視界と足場を乱し、マーサが敵の意識をさらに掻き回す。
そのすべてが噛み合った結果、精鋭だったはずの男たちは次第に判断を誤り始めていた。
「対象を移せ!」
「鍵を守れ!」
「子どもごと奥へ!」
その声を聞いた瞬間、ジャックの表情から笑みが消えた。
リリィを囲んでいた男の一人が、椅子ごと彼女を移動させようとしている。リリィは必死に身を捩り、暴れることでやめさせようとするが、拘束された身体では大した抵抗にもならない。
ジャックは即座に駆け出した。だが、その進路へ二人の敵が割り込む。
彼めがけて、銃口が向き、オリオンの照準も間に合わない。
――その一瞬、工場の床を転がるようにして、何かが滑ってきた。
古びたフライパンだった。
ここは、元々調理器具の工場だ。片付けられなかったフライパンのひとつやふたつ、転がっていてもおかしくない。
「ジャック!」
マーサの声が飛ぶ。
「サンキュー!」
ジャックは笑った。