第32話:大丈夫さ

We Killed Our Sweetheart

「うん」

 その返事を聞いたマーサは、静かに隣へ腰を下ろした。

「大丈夫さ」

 優しく頭を撫でる。

「あの二人は、簡単には負けないよ」

 もちろん、リリィも知っている。
 今、胸の奥がざわつくのは、子どもなりに何かを感じ取っているからだった。

 そんなことを考えていると、家の外で砂利を踏む小さな音がした。
 誰かの歩く音。しかも、一人ではない。一定の間隔を空けながら、複数の足音が家を囲むように近付いてくる。
 マーサは何も言わず立ち上がると、そっとカーテンの隙間から外を覗いた。

 見知らぬ男が一人。だが、音を正とすれば、この男だけではない。
 それに、この歩き方と音だけでわかる。素人ではない、と。

「リリィ」

 マーサは振り返らずに呼んだ。

「奥の部屋へ行きな」

 穏やかさのない声に、リリィは表情を曇らせる。

「おばちゃんは……?」
「いいから」

 リリィはそれ以上何も聞かず、小走りで奥の部屋へ走った。
 その背中を見送ったマーサは、ゆっくりと台所へ向かう。まず、包丁を一本。そして、半分開いていた掃除用具入れから、柄の長いモップを引き抜く。

「まったく」

 小さく息を吐く。

「このあたしを休ませる気はないのかい?」

 その呟きとほぼ同時に、玄関の戸が静かに叩かれた。

 コン、コン。

 そこには乱暴さも、焦りもなく、それがかえって不気味だった。マーサはモップを握り直し、静かに玄関へ向かと、ドアの前で立ち止まり、深く息を吐く。
 怒鳴る声もなければ、扉を蹴破る音もない。あるのは、不気味なほど静かな気配だけだった。

「誰だい」

 返事はない。代わりにコン――と、もう一度扉が叩かれる。
 マーサはゆっくりと鍵を外し、勢いよく開けたその瞬間、黒い影が一気に踏み込んできた。

 男だった。

 男は拳銃を構えたまま、迷いなく室内へ足を踏み入れる。だが、その一歩目は最後まで踏み込めなかった。

 ゴッ。
 モップの柄が男の脛へ叩き込まれる。

「……ぅ」

 呻き声をあげて体勢を崩したところへ、今度は柄尻が顎を打ち抜いた。

「……おっ」

 男は玄関の外へ転げ落ちる。

「挨拶してから入りな」

 その声に反応するように、二人目が窓を蹴破って侵入してくる。
 マーサは振り向きざまに包丁を投げた。狙ったのは顔ではない。肩だった。

 包丁は服を掠め、壁へ突き刺さる。男は一瞬だけ動きを止める。その隙を逃さず、マーサは近くの椅子を蹴り飛ばした。
 椅子は男の膝へぶつかり、再び体勢が崩れる。

「まったく」

 マーサは呆れたように息を吐く。

「舐めんじゃないよ!」

 この喧騒の中、廊下の奥の部屋では、リリィが必死に息を潜めていた。

 マーサは一歩も下がらない この廊下を通せば、男たちはリリィへ手が届く。それだけは、絶対に許せなかった。

 男たちは互いに目配せを交わす。
 焦りのないその表情に、マーサの胸に小さな違和感が走った。

 ――何かがおかしい。
 そう気付いた時には、もう遅かった。

「しまった……!」

 マーサはモップを振り抜き、目の前の男を強引に突き飛ばすと、そのまま廊下の奥へ駆け出した。
 しかし、背後から伸びた腕が彼女の肩を掴む。マーサは身体を捻り、その腕へ肘を叩き込んで振り払う。さらに振り返りざま、モップの柄を横薙ぎに振るった。
 見事、男のこめかみに直撃する。鈍い音を立てて男が床へ崩れ落ちた。

「リリィ!」

 叫んだ瞬間、その光景が目へ飛び込んできた。
 閉められたはずのドアの向こうに見える、開け放たれた窓。その奥に、黒ずくめの、おそらく男。その腕の中には、必死にもがくリリィが抱えられている。

「はなして!」

 リリィが叫び、小さな拳で男の胸を叩く。
 しかし、男は眉ひとつ動かさない。

「おばちゃん!」

 その声に応えるように、マーサは最後の力を振り絞って駆け出した。

 あと一歩。あと一歩届けば――

 鈍い衝撃が、マーサの後頭部を襲った。
 視界が大きく揺れ、膝から力が抜け落ち、身体が床へ崩れ倒れる。

 遠ざかる意識の中で、マーサは歯を食いしばる。
 ――まだだ。まだ眠るわけにはいかない。

「片付いたか」

 男の一人が近付いてきて、靴音がすぐ背後で止まった。
 ……完全に意識を失った人間を演じることなど、長い人生で一度もしたことはない。
 だが今は、それしかなかった。あの、夕飯の時に死んだふりをしていた男を思い出して、必死に息をひそめる。

「死んでるか?」
「いや、生きてると思う」

 別の男が答える。

「まぁ、ターゲットじゃないからな。ガキは確保した」
「急げ。こいつはいいだろう。町はずれの廃工場へ戻る」

 その言葉に、マーサの意識が研ぎ澄まされる。耳だけが、静かに男たちを追った。

「ハロルド様へ連絡は?」
「現地に着いてからだ」
「鍵はまだガキが持ってる」
「構わん。後で回収する」

 廃工場。ハロルド。鍵。

 必要な情報だけを、ただひたすら頭の中で繰り返す。忘れないように。絶対に、忘れないように。
 マーサは動かなかった。今起き上がっても、敵を倒しきる自身もなければ、下手したら情報も、自分の命も失ってしまう。
 やがて、車のドアが閉まる音が遠くで響き、エンジン音が少しずつ遠ざかっていく。

 辺りが完全に静かになったことを確認すると、マーサはゆっくりと目を開けた。後頭部から伝う血を袖で拭いながら唇を噛む。

「……待ってな」

 後頭部から流れる血が頬を伝い、視界の端を赤く染める。
 聞いた言葉を反芻し、出血を抑えるためにタオルを拝借する。傷口を押さえると痛みが響いたが、そんなことに構ってはいられない。

 男たちが去ってから十分ほど経った頃、玄関の外で慌ただしい足音が止まった。

「マーサ!」

 大きな呼び声とともに、家の中へ入ってきたのはジャックだった。そのすぐ後ろから、オリオンも部屋へ飛び込んでくる。
 ……二人の視線が室内を走る。何が起こったかは明白だった。

「無事か」
「あっはっはっ。無事じゃないねぇ」

 まだ軽い言葉に、二人はホッと胸を撫で下ろした。
 マーサの無事は確認出来た。だが、しかし――

「リリィは」

 オリオンの問いに、マーサの表情が曇る。

「連れて行かれたよ」

 部屋の空気が一変する。
 ジャックから笑みが消え、オリオンはゆっくりと目を閉じた。それまはるで、どちらも自分の判断が遅れたことを、悔いるような動作だった。
 しかし、マーサはすぐに続ける。

「でも、場所はわかった」

 二人が同時に顔を上げると、マーサは壁にもたれながら、男たちの会話を思い返した。

「廃工場だよ」
「ハロルドって名前も聞いた」
「鍵はリリィが持ったままだから」

 それだけで十分だった。
 オリオンもジャックも、マーサに背を向けて歩き出す。

「待ちな」

 二人の足が止まる。
 振り返ると、マーサが壁から身体を離していた。

「あたしも行くよ」

 オリオンは即座に首を振った。

「ダメだ」
「今回ばかりはオリオンに賛成だ。どう見たって傷が深い」

 ジャックも珍しく真面目な顔で言う。マーサはそんな二人を睨み付けた。

「行かないわけないだろ!!」

 部屋へ怒声が響く。二人とも、賭ける言葉を失っていた。
 マーサは肩で息をしながら、それでも一歩前へ出る。

「リリィはあたしの孫みたいなもんなんだよ」
「迎えに行かない理由がどこにあるって言うんだい」

 ジャックは苦笑し、オリオンを見る。
 オリオンは小さく目を閉じると、観念したように言葉を吐いた。

「……好きにしろ」
「最初からそのつもりさ」

 三人は、互いにそれ以上何も言わなかった。
 もう十分だった。守りたいものは同じで、だからこそ向かう場所も同じ。ならば、三人揃って迎えに行くだけだ。

 ――静かな夕暮れの中、一台の車が勢いよく走り出す。その行き先は、廃工場。
 リリィを、取り戻すために。


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