家へ着くころには、リリィの足取りはすっかり軽くなっていて、さっきまで考えていたことや不安だったことも、少しだけ遠くなっていた。
ノアがくれた紙には、たった一言しか書かれていないのに、それでも、何度見ても嬉しくて仕方がなかった。
その嬉しい気分のまま、玄関の扉を開ける。
「ただいまー!」
元気な声が家の中へ響き、その声に反応するように、リビングからジャックが顔を出した。
「おかえりプリンセス!」
「みて!」
靴を脱ぐより先にリリィは紙を掲げ、まるで宝物でも見せるように胸を張る。
後から中に入ったマーサは、その様子に苦笑する。
「どうしたんだ?」
「ノアにもらったの!」
「ノア……そうか、やったじゃないか!」
ジャックはリリィを抱え上げると、その場でくるくると回った。
リリィはそのサプライズに、満足そうに大きく笑うと、ジャックの腕の中から飛び降りた。
そして、今度はまたマーサに見せる。
「みて!」
「それ、さっきも見せたじゃないか」
「でもみて!」
「はいはい、見てるよ」
リリィは本当に嬉しそうで、その表情は隠しようもなく輝いていた。
だからマーサも何も言わず、何度でも付き合うことにした。
「良かったねぇ」
たった一言だけだったが、リリィは満面の笑みで頷く。
「うん!」
迷いのない返事であり、その声には確かな喜びが込められていた。
「オリオンも!」
ソファで本を読んでいたオリオンの元へ、リリィが自慢げに紙を持ってやってくる。
「あぁ」
かける言葉を探しきれず、ぶっきらぼうにそう答えた。彼は本を読んでいたはずなのに、ページはしばらく前から進んでいない。
ジャックも同じで、リリィを迎え、それまでは絵を描いているふりをしたが、鉛筆は止まったままだった。
「よく見せてくれよ」
ジャックが手を伸ばすと、リリィは素直に紙を渡した。
彼はそれを読み、一秒、二秒、三秒と、時間をかけてから顔を上げる。
「額に入れるか?」
真顔で言ったその言葉に、オリオンが顔を上げる。
「やめろ」
「何で?」
「やめろ」
即答だった。
リリィはきょとんとしていて、マーサは思わず咳き込んだ。
「アンタ本気だったろ」
「当たり前だろ? こんな素敵な手紙、飾らないでどうするんだよ!」
ジャックは真顔のままで続ける。
「初めて友達からもらった、感謝状だぞ?」
「感謝状じゃない」
オリオンが即座に否定する。
「ありがとうと書かれたメモだ」
「同じだろ」
「違う」
「ようは一緒じゃねぇか!」
二人が言い合う中で、リリィは紙を取り返して胸元へ抱えた。
「うーん、だめ」
「だめか、そりゃ残念だ」
ジャックは、本気で残念そうな顔をする。
それを見てリリィは声を上げて笑い、マーサもつられて笑った。
オリオンだけが小さくため息を吐いたが、その口元は少しだけ緩んでいた。呆れと、ほんのわずかな安堵が混じったような、そんな表情だった。
――翌日。
昼過ぎの、どこか気の抜けたような時間帯だった。家の中には穏やかな静けさが流れていたが、その静寂を破るように、玄関の外からただならぬ物音が聞こえてきた。
ガサガサ。
ゴトッ。
ガタン。
何かを落としたような、鈍い音まで混じっている。
マーサが編み物の手を止めて顔を上げた。
「何だい?」
オリオンも新聞から視線を上げ、眉をひそめる。立ち上がり、マーサとリリィの前に立った。
そしてそのすぐ後、間を置かずに玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいま」
現れたのは、ジャックだった。
だが、問題はそこではない。
両手に買い物袋。腕にも買い物袋。そして、肩にも買い物袋。
どう見ても異常な量だった。もはや人間が、一度に持ち帰る量ではない。
マーサはあまりの量に言葉を失い、ぽかんと口を開ける。オリオンも同様に沈黙したまま、ただその光景を見つめている。
そんな中、リリィだけがぱっと目を輝かせた。
「なにそれ!?」
「買ってきた」
「見ればわかる」
オリオンが即座に返すと、リリィはさらに身を乗り出した。その姿を横目に、オリオンは仕方ないなと言いたげな表情で聞く。
「何を買ってきた」
「色々」
その一言に、オリオンは嫌な予感しかしなかった。ジャックは気にする様子もなく、袋を床へ並べ始める。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
まだある。まったく終わる気配がない。
袋は次々と床に積み上がっていき、やがて小さな山のようになった。
「おい」
オリオンが低く声をかける。
「ん?」
「何だこれは」
「プレゼント」
その言葉に、リリィが歓声を上げる。
ジャックが袋を開けると、中から次々と物が出てきた。
ぬいぐるみ。髪飾り。絵本。色鉛筆。ノート。文房具。お菓子。服。靴。リュック。
まだ出てくる。底が見えない。
「待て」
オリオンが思わず制止する。
「何だよ!」
「どう見ても買い過ぎだ」
「そうか? 足りないくらいだろ?」
ジャックは、本気で不思議そうな顔をしていた。
その様子に、オリオンは絶望を貼り付けたような顔で、一瞬言葉を失う。一方でリリィは、完全にお祭り状態だった。
「あっ、これ可愛い!」
「だろ」
「これも!」
「だろ」
「うわぁぁ!」
次々と品物を手に取り、目を輝かせては歓声を上げる。その様子を見て、ジャックは満足そうに何度も頷いた。
オリオンは思わず頭を抱えたくなる。そして、抱えた。
「子供はこういうの好きだろ」
ジャックが当然のように言う。
「全部買う必要はない」
「好きなら買うだろ」
「買わない」
そのやり取りを聞いていたマーサが、ついに腹を抱えて笑い始める。
「アンタ完全に親バカだね」
「違う」
ジャックは真顔で否定した。
「こんなんじゃまだ足りない」
その言葉に、マーサの笑い声はさらに大きくなる。
「その発言がもう親なんだよ」
リリィは新しいぬいぐるみを抱き締めながら、楽しそうに笑っている。ジャックはそんな様子を見て、満足そうに目を細めた。マーサも笑っている。
オリオンだけが、一人疲れた顔をしていた。
だが、その光景を止める気はなかった。少なくとも、今だけは。
――問題が起きたのはその日の夜で、夕食を終え風呂も済ませ、家の中に穏やかな空気が流れていたころだ。
リリィが新しいぬいぐるみを抱えて、幸せそうに床を転がっていた時、オリオンが机の上へ一冊のノートを静かに置いた。
「宿題は?」
その一言で空気が変わり、リリィの動きがぴたりと止まり、ジャックが楽しそうに笑う。
「終わったよな?」
「おわってない!」
リリィは慌てて起き上がる。
「わすれてた!」
「だろうな」
オリオンは冷静で、最初から終わっていないとわかっていたらしく、机の上には宿題と鉛筆と消しゴムが整然と並んでいる。
完璧である。逃げ道がない。
「んー……あしたでいい?」
「駄目だ」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
「あとごふんだけ」
「駄目だ」
リリィが助けを求めるようにジャックを見ると、ジャックは笑顔で親指を立てた。
「頑張れ」
「うらぎりもの!」
マーサが思わず引き笑いをして、オリオンは椅子へ腰掛けた。
「座れ」
リリィは観念したように席へ着き、ぶすっとした顔でノートを開いた。
こうして宿題が始まる。……が、その三分後。
「わかんない」
諦めるまでが早かった。その声に、溜息を吐いてオリオンが問題を見る。
「ここはこうだ」
「むずかしい」
「難しくない」
「よくわかんない」
リリィはそっぽを向く。
「読め」
「よんだ!」
「ちゃんと読め」
「よんだ!!」
リリィが頬を膨らませ、ジャックは完全に見物モードで、とても面白そうに眺めている。
マーサも時折、くすくすと声を出して笑っていた。
一時間後。
ようやく宿題が終わり、リリィは机へ突っ伏した。
「おわったぁ……」
達成感より疲労感が勝っている様子だった。
オリオンはノートを確認する。
「よし」
その一言で解放され、リリィはすぐソファへ飛び込み、ジャックの隣に転がり込むように座った。
「オリオンきらい」
ぽつりと言った。
オリオンは、素知らぬ顔で新聞を開く。
「そうか」
興味がなさそうだった。
ジャックが少し嬉しそうな顔をして、マーサも笑う。
「わたしはジャックのほうがすき」
勝ち誇ったように、ジャックが胸を張る。
「当然だな」
オリオンは反応しない。
数秒後。リリィがジャックの袖を引っ張る。
「ねぇ」
「お? 何だいプリンセス」
「これわかんない」
リリィの差す『これ』は、算数の教科書に載っていた問題だった。少し変わっていて、クイズのような立ち位置の、閃きも試されるような問題。
余裕たっぷりの顔で、ジャックはその問題を見る。