第24話:家に帰れば

We Killed Our Sweetheart

 家へ着くころには、リリィの足取りはすっかり軽くなっていて、さっきまで考えていたことや不安だったことも、少しだけ遠くなっていた。
 ノアがくれた紙には、たった一言しか書かれていないのに、それでも、何度見ても嬉しくて仕方がなかった。

 その嬉しい気分のまま、玄関の扉を開ける。

「ただいまー!」

 元気な声が家の中へ響き、その声に反応するように、リビングからジャックが顔を出した。

「おかえりプリンセス!」
「みて!」

 靴を脱ぐより先にリリィは紙を掲げ、まるで宝物でも見せるように胸を張る。
 後から中に入ったマーサは、その様子に苦笑する。

「どうしたんだ?」
「ノアにもらったの!」
「ノア……そうか、やったじゃないか!」

 ジャックはリリィを抱え上げると、その場でくるくると回った。
 リリィはそのサプライズに、満足そうに大きく笑うと、ジャックの腕の中から飛び降りた。
 そして、今度はまたマーサに見せる。

「みて!」
「それ、さっきも見せたじゃないか」
「でもみて!」
「はいはい、見てるよ」

 リリィは本当に嬉しそうで、その表情は隠しようもなく輝いていた。
 だからマーサも何も言わず、何度でも付き合うことにした。

「良かったねぇ」

 たった一言だけだったが、リリィは満面の笑みで頷く。

「うん!」

 迷いのない返事であり、その声には確かな喜びが込められていた。

「オリオンも!」

 ソファで本を読んでいたオリオンの元へ、リリィが自慢げに紙を持ってやってくる。

「あぁ」

 かける言葉を探しきれず、ぶっきらぼうにそう答えた。彼は本を読んでいたはずなのに、ページはしばらく前から進んでいない。
 ジャックも同じで、リリィを迎え、それまでは絵を描いているふりをしたが、鉛筆は止まったままだった。

「よく見せてくれよ」

 ジャックが手を伸ばすと、リリィは素直に紙を渡した。
 彼はそれを読み、一秒、二秒、三秒と、時間をかけてから顔を上げる。

「額に入れるか?」

 真顔で言ったその言葉に、オリオンが顔を上げる。

「やめろ」
「何で?」
「やめろ」

 即答だった。
 リリィはきょとんとしていて、マーサは思わず咳き込んだ。

「アンタ本気だったろ」
「当たり前だろ? こんな素敵な手紙、飾らないでどうするんだよ!」

 ジャックは真顔のままで続ける。

「初めて友達からもらった、感謝状だぞ?」
「感謝状じゃない」

 オリオンが即座に否定する。

「ありがとうと書かれたメモだ」
「同じだろ」
「違う」
「ようは一緒じゃねぇか!」

 二人が言い合う中で、リリィは紙を取り返して胸元へ抱えた。

「うーん、だめ」
「だめか、そりゃ残念だ」

 ジャックは、本気で残念そうな顔をする。
 それを見てリリィは声を上げて笑い、マーサもつられて笑った。
 オリオンだけが小さくため息を吐いたが、その口元は少しだけ緩んでいた。呆れと、ほんのわずかな安堵が混じったような、そんな表情だった。

 ――翌日。

 昼過ぎの、どこか気の抜けたような時間帯だった。家の中には穏やかな静けさが流れていたが、その静寂を破るように、玄関の外からただならぬ物音が聞こえてきた。

 ガサガサ。
 ゴトッ。
 ガタン。

 何かを落としたような、鈍い音まで混じっている。
 マーサが編み物の手を止めて顔を上げた。

「何だい?」

 オリオンも新聞から視線を上げ、眉をひそめる。立ち上がり、マーサとリリィの前に立った。
 そしてそのすぐ後、間を置かずに玄関の扉が勢いよく開いた。

「ただいま」

 現れたのは、ジャックだった。

 だが、問題はそこではない。
 両手に買い物袋。腕にも買い物袋。そして、肩にも買い物袋。
 どう見ても異常な量だった。もはや人間が、一度に持ち帰る量ではない。

 マーサはあまりの量に言葉を失い、ぽかんと口を開ける。オリオンも同様に沈黙したまま、ただその光景を見つめている。
 そんな中、リリィだけがぱっと目を輝かせた。

「なにそれ!?」
「買ってきた」
「見ればわかる」

 オリオンが即座に返すと、リリィはさらに身を乗り出した。その姿を横目に、オリオンは仕方ないなと言いたげな表情で聞く。

「何を買ってきた」
「色々」

 その一言に、オリオンは嫌な予感しかしなかった。ジャックは気にする様子もなく、袋を床へ並べ始める。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

 まだある。まったく終わる気配がない。
 袋は次々と床に積み上がっていき、やがて小さな山のようになった。

「おい」

 オリオンが低く声をかける。

「ん?」
「何だこれは」
「プレゼント」

 その言葉に、リリィが歓声を上げる。
 ジャックが袋を開けると、中から次々と物が出てきた。

 ぬいぐるみ。髪飾り。絵本。色鉛筆。ノート。文房具。お菓子。服。靴。リュック。

 まだ出てくる。底が見えない。

「待て」

 オリオンが思わず制止する。

「何だよ!」
「どう見ても買い過ぎだ」
「そうか? 足りないくらいだろ?」

 ジャックは、本気で不思議そうな顔をしていた。
 その様子に、オリオンは絶望を貼り付けたような顔で、一瞬言葉を失う。一方でリリィは、完全にお祭り状態だった。

「あっ、これ可愛い!」
「だろ」
「これも!」
「だろ」
「うわぁぁ!」

 次々と品物を手に取り、目を輝かせては歓声を上げる。その様子を見て、ジャックは満足そうに何度も頷いた。
 オリオンは思わず頭を抱えたくなる。そして、抱えた。

「子供はこういうの好きだろ」

 ジャックが当然のように言う。

「全部買う必要はない」
「好きなら買うだろ」
「買わない」

 そのやり取りを聞いていたマーサが、ついに腹を抱えて笑い始める。

「アンタ完全に親バカだね」
「違う」

 ジャックは真顔で否定した。

「こんなんじゃまだ足りない」

 その言葉に、マーサの笑い声はさらに大きくなる。

「その発言がもう親なんだよ」

 リリィは新しいぬいぐるみを抱き締めながら、楽しそうに笑っている。ジャックはそんな様子を見て、満足そうに目を細めた。マーサも笑っている。
 オリオンだけが、一人疲れた顔をしていた。
 だが、その光景を止める気はなかった。少なくとも、今だけは。

 ――問題が起きたのはその日の夜で、夕食を終え風呂も済ませ、家の中に穏やかな空気が流れていたころだ。
 リリィが新しいぬいぐるみを抱えて、幸せそうに床を転がっていた時、オリオンが机の上へ一冊のノートを静かに置いた。

「宿題は?」

 その一言で空気が変わり、リリィの動きがぴたりと止まり、ジャックが楽しそうに笑う。

「終わったよな?」
「おわってない!」

 リリィは慌てて起き上がる。

「わすれてた!」
「だろうな」

 オリオンは冷静で、最初から終わっていないとわかっていたらしく、机の上には宿題と鉛筆と消しゴムが整然と並んでいる。

 完璧である。逃げ道がない。

「んー……あしたでいい?」
「駄目だ」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
「あとごふんだけ」
「駄目だ」

 リリィが助けを求めるようにジャックを見ると、ジャックは笑顔で親指を立てた。

「頑張れ」
「うらぎりもの!」

 マーサが思わず引き笑いをして、オリオンは椅子へ腰掛けた。

「座れ」

 リリィは観念したように席へ着き、ぶすっとした顔でノートを開いた。

 こうして宿題が始まる。……が、その三分後。

「わかんない」

 諦めるまでが早かった。その声に、溜息を吐いてオリオンが問題を見る。

「ここはこうだ」
「むずかしい」
「難しくない」
「よくわかんない」

 リリィはそっぽを向く。

「読め」
「よんだ!」
「ちゃんと読め」
「よんだ!!」

 リリィが頬を膨らませ、ジャックは完全に見物モードで、とても面白そうに眺めている。
 マーサも時折、くすくすと声を出して笑っていた。

 一時間後。
 ようやく宿題が終わり、リリィは机へ突っ伏した。

「おわったぁ……」

 達成感より疲労感が勝っている様子だった。
 オリオンはノートを確認する。

「よし」

 その一言で解放され、リリィはすぐソファへ飛び込み、ジャックの隣に転がり込むように座った。

「オリオンきらい」

 ぽつりと言った。
 オリオンは、素知らぬ顔で新聞を開く。

「そうか」

 興味がなさそうだった。
 ジャックが少し嬉しそうな顔をして、マーサも笑う。

「わたしはジャックのほうがすき」

 勝ち誇ったように、ジャックが胸を張る。

「当然だな」

 オリオンは反応しない。
 数秒後。リリィがジャックの袖を引っ張る。

「ねぇ」
「お? 何だいプリンセス」
「これわかんない」

 リリィの差す『これ』は、算数の教科書に載っていた問題だった。少し変わっていて、クイズのような立ち位置の、閃きも試されるような問題。
 余裕たっぷりの顔で、ジャックはその問題を見る。


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