第20話:両親が残したもの

We Killed Our Sweetheart

 あの鍵。
 逃げる準備。
 娘だけは大事にしていたという話。

 全部が本当かはわからない。

 それでも。
 少なくとも最後の瞬間、あの夫婦は金や薬ではなく、娘のことを考えていたらしい。それだけは、事実なのかもしれないという余白が、余計に後味を悪くする。
 ……もっと早くそうしていれば。もっと違う生き方を選んでいれば。リリィはあんな部屋で、一人誕生日を過ごさずに済んだのかもしれない。
 オリオンは小さく息を吐く。

「遅すぎた」

 ぽつりと零れる。取りこぼすことなく、ジャックは頷いた。

「ああ」

 その通りだった。
 どれだけ後悔しても、どれだけ娘を想っていても、過去は変わらない。
 夫婦が売った薬で壊れた人生も、リリィが見た地獄も。結果、夫婦が被った罪も。あおんなものだけ、余すところなく残る。

 だから。
 せめて。

 二人は足を止めない。

 帰る場所ができてしまった。放っておけない相手ができてしまった。その時間が恋しいと、一瞬でも思ってしまった。
 今さら、善人になるつもりはない。悪人を辞めるつもりもない。

 だが。
 守ると決めたものくらいは守る。それだけだった。

 ***

 オリオンとジャックが帰路を辿る中、街の中心部から少し離れた高層ビルの一室では、別の夜が流れていた。

 窓の外には無数の灯りが広がっており、宝石箱をひっくり返したような夜景だった。だが部屋の主は一度も外を見ていない。
 机の上には書類が並び、ノートパソコン、使い捨ての携帯電話、灰皿、そして一枚の写真が置かれている。

 男はその写真を長い時間、まるで値踏みでもするように見ていた。
 写真に写っているのは夫婦だった。リリィの両親で、すでに死んだ人間。

「無能だな」

 男が呟く。感情のない声だった。怒りも悲しみもなく、ただ事実を述べるように。
 机の向こうには数人の男が立っていたが、誰も口を開かず、視線すら上げない。部屋の温度が数度下がったような、そんな緊張感が漂っている。
 その目からは光がスッと消え去り、男は写真を裏返した。まるで、おもちゃへの興味を失った、幼子のように。死人には価値がない。価値があるのは、失われたものだけだ。

「見つからないのか」

 静かな声だったが、部下の肩が震える。

「申し訳ありません」
「質問に答えろ」
「……まだです」

 ピリピリとした空気が流れている。
 男は怒鳴らず、机を叩きもしない。それなのに、誰も堂々と息を吐けなかった。

「鍵はどこだ」

 男が言うが、誰も答えられない。理由は簡単で、答えを持っていないからだ。
 男は椅子へ深く腰掛け、指先で机を軽く叩く。一回、二回、三回。どこかで聞いたような音だった。

「娘は」
「見つかりました」

 即答だった。
 男の動きが止まる。初めて反応した。

「生きているか」
「はい」
「そうか」

 それだけだった。喜びも安堵もなく、ただ確認しただけ。まるで荷物の所在を聞くように。

「回収しろ。生かしたまま」
「ですが――」

 部下が言いかけるが、男は視線だけ向けた。それだけで十分だった。部下は黙る。

「状態はどうでもいい。だが、喋る口は残せ」

 男は言う。冷たく、淡々と。

「鍵を持っている可能性がある」

 その言葉だけで部下たちは理解した。娘に価値があるのではない。鍵に価値があるのだと。
 男は立ち上がり、窓際へ歩く。初めてまともに夜景を見るが、一ミリも美しいとは思わない。そんな感情はとっくに捨てていた。

「もし鍵を失ったら」

 静かな声が部屋へ落ちる。

「お前たちは必要ない」

 誰も返事をしない。できなかった。答えられなかった。
 男は小さく笑った。本当に小さく。
 そして「探せ」と一言言った。その一言だけで、数人の男たちは逃げるように部屋を出て行った。

 一人残された男は、再び机の上へ置かれた写真を見る。今度は夫婦ではない。どこかで撮られた少女の写真。笑っている。無邪気に。何も知らずに。
 男はその写真をしばらく見つめた後、興味を失ったように視線を逸らした。

「どこだ」

 呟く。探しているのは少女ではない。最初から、ずっと、鍵だった。

 ――その夜、リリィは夢を見ていた。
 それは小さなころの夢で、今よりもっと幼く、まだ背も低くて何もわからなかった頃の記憶だった。
 ぼんやりとしていて、まるで霧の向こうを見るように曖昧だったが、父と母がいることだけはわかった。二人とも怒鳴っていたが、言葉までは聞こえず、それでもケンカしていることだけははっきりと理解できた。
 皿が割れる音や何かが倒れる音が響き、怖くてリリィは部屋の隅で膝を抱え、泣いていた気がする。多分、きっとそうだったのだろう。

 しかし、そのあとの記憶だけは不思議と鮮明だった。
 突然、父が部屋へ入ってきて、その顔色は悪く、それは母も一緒で、二人とも泣きそうな顔をしているのに笑っていた。子供ながらに変だと思い、今思えば本当に異様な光景だった。父はしゃがみ込み、そして何かを首へ掛けてくれた。冷たい感触の小さな金属、それは鍵だった。

『なくすな』
『絶対に』

 夢の中なのに、その言葉だけははっきりと聞こえた。

『宝物なの』
『大事にしなきゃ駄目よ』

 と、母が続ける。二人とも目に涙を浮かべて笑っていた。

 そこで夢は終わる。
 リリィは小さく身じろぎし、暗い部屋の中で静かな寝息を立てていた。窓から差し込む月明かりの中、眠ったまま無意識に胸元へ手を伸ばし、指先が鍵へ触れると安心したように握り締め、そのまま再び眠りへ落ちていった。

 何も知らないまま、その鍵ひとつのために、今どれだけの人間が動いているのかも知らずに。

 朝を迎えると、リビングには穏やかな空気が流れていた。
 窓から差し込む陽射しは暖かく、深夜の不穏な話など、最初から存在しなかったかのようだった。

 ……少なくともリリィにとっては。

「マーサおばちゃん見て!」

 リリィが胸元の鍵を掲げる。
 朝日を受けた真鍮の鍵が、そこで小さく光った。

 マーサは洗い物の手を止める。

「おやおや、どうしたんだい?」
「ピカピカにしたの!」

 得意げだった。どうやら、朝から布で磨いていたらしい。大事なものを大事にしたいという、子供らしい行動だった。
 マーサは少しだけ笑う。

「綺麗だねぇ」
「でしょ!」

 リリィは嬉しそうに頷く。そして、当たり前のように鍵を握り締める。
 その仕草を、マーサは静かに見つめていた。

「大事な物なんだね」

 マーサが言う。
 リリィは機嫌よく即答した。

「うん!」

 迷いもない。

「だって、たからものだもの!」

 その笑顔に嘘はない。

 マーサは頷き、その流れでオリオンとジャックを見た。
 このやり取りを聞いているはずなのに、二人とも何も言わない。

 だが、明らかに昨日までとは違っていた。視線、空気、呼吸、言葉。

 マーサは内心でため息を吐く。
 ……きっと、面倒なことになっている。それだけは確かだった。

 しかし、この子の前では言わない。言う必要もないからだ。

「ほら」

 マーサが言う。

「朝ご飯冷めるよ」
「はーい!」

 リリィが、マーサの元へ駆け寄っていく。
 その背中を見ながら、オリオンとジャックは目を細めた。まるで、何かを覚悟するように。

 ***

 ――同じころ。数キロ離れた場所にて。

 停車した黒い車の中で、一人の男が写真を眺めていた。
 無言で。車内には煙草の匂いが充満している。

 一枚目の写真には家が写っていた。
 古い一軒家。小さな庭にガレージ、半分開いたカーテン。
 そして、楽しそうに笑っている少女。その隣には、年老いた女。さらに離れた場所には、二人の男。
 いつの間にか、撮影された写真だった。

「これか」

 男が呟く。運転席の男が頷いた。

「間違いありません」
「ふん」

 興味のなさそうな返事だったが、視線だけは写真から離れない。
 少女、鍵、家、保護者。目立つ内容を頭の中で整理する。

 そして「もう用はない」とでも言うように、写真を裏返した。

「前のヤツは?」
「失敗しました」
「知ってる」

 男は欠伸をする。見るからに退屈そうだった。まるで他人事のように。

「じゃあ今度は失敗するな」

 それだけだった。命令とも脅しとも取れない。
 だが、その言葉に運転席の男は青ざめた。理由は簡単だった。『失敗した人間は消える』それだけ。

 男は再び写真を見る。今度は、二枚目――リリィの写真を。

 そして、彼は気付いてしまった。
 その首元で揺れる、小さな鍵に。

「見つけた」

 淡々とした言葉を受け止めながら、運転席の男は車を出した。

 リリィはまだ知らない。オリオンも、ジャックも、マーサも。
 嵐が、もうすぐそこまで来ていることを。


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