あの鍵。
逃げる準備。
娘だけは大事にしていたという話。
全部が本当かはわからない。
それでも。
少なくとも最後の瞬間、あの夫婦は金や薬ではなく、娘のことを考えていたらしい。それだけは、事実なのかもしれないという余白が、余計に後味を悪くする。
……もっと早くそうしていれば。もっと違う生き方を選んでいれば。リリィはあんな部屋で、一人誕生日を過ごさずに済んだのかもしれない。
オリオンは小さく息を吐く。
「遅すぎた」
ぽつりと零れる。取りこぼすことなく、ジャックは頷いた。
「ああ」
その通りだった。
どれだけ後悔しても、どれだけ娘を想っていても、過去は変わらない。
夫婦が売った薬で壊れた人生も、リリィが見た地獄も。結果、夫婦が被った罪も。あおんなものだけ、余すところなく残る。
だから。
せめて。
二人は足を止めない。
帰る場所ができてしまった。放っておけない相手ができてしまった。その時間が恋しいと、一瞬でも思ってしまった。
今さら、善人になるつもりはない。悪人を辞めるつもりもない。
だが。
守ると決めたものくらいは守る。それだけだった。
***
オリオンとジャックが帰路を辿る中、街の中心部から少し離れた高層ビルの一室では、別の夜が流れていた。
窓の外には無数の灯りが広がっており、宝石箱をひっくり返したような夜景だった。だが部屋の主は一度も外を見ていない。
机の上には書類が並び、ノートパソコン、使い捨ての携帯電話、灰皿、そして一枚の写真が置かれている。
男はその写真を長い時間、まるで値踏みでもするように見ていた。
写真に写っているのは夫婦だった。リリィの両親で、すでに死んだ人間。
「無能だな」
男が呟く。感情のない声だった。怒りも悲しみもなく、ただ事実を述べるように。
机の向こうには数人の男が立っていたが、誰も口を開かず、視線すら上げない。部屋の温度が数度下がったような、そんな緊張感が漂っている。
その目からは光がスッと消え去り、男は写真を裏返した。まるで、おもちゃへの興味を失った、幼子のように。死人には価値がない。価値があるのは、失われたものだけだ。
「見つからないのか」
静かな声だったが、部下の肩が震える。
「申し訳ありません」
「質問に答えろ」
「……まだです」
ピリピリとした空気が流れている。
男は怒鳴らず、机を叩きもしない。それなのに、誰も堂々と息を吐けなかった。
「鍵はどこだ」
男が言うが、誰も答えられない。理由は簡単で、答えを持っていないからだ。
男は椅子へ深く腰掛け、指先で机を軽く叩く。一回、二回、三回。どこかで聞いたような音だった。
「娘は」
「見つかりました」
即答だった。
男の動きが止まる。初めて反応した。
「生きているか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。喜びも安堵もなく、ただ確認しただけ。まるで荷物の所在を聞くように。
「回収しろ。生かしたまま」
「ですが――」
部下が言いかけるが、男は視線だけ向けた。それだけで十分だった。部下は黙る。
「状態はどうでもいい。だが、喋る口は残せ」
男は言う。冷たく、淡々と。
「鍵を持っている可能性がある」
その言葉だけで部下たちは理解した。娘に価値があるのではない。鍵に価値があるのだと。
男は立ち上がり、窓際へ歩く。初めてまともに夜景を見るが、一ミリも美しいとは思わない。そんな感情はとっくに捨てていた。
「もし鍵を失ったら」
静かな声が部屋へ落ちる。
「お前たちは必要ない」
誰も返事をしない。できなかった。答えられなかった。
男は小さく笑った。本当に小さく。
そして「探せ」と一言言った。その一言だけで、数人の男たちは逃げるように部屋を出て行った。
一人残された男は、再び机の上へ置かれた写真を見る。今度は夫婦ではない。どこかで撮られた少女の写真。笑っている。無邪気に。何も知らずに。
男はその写真をしばらく見つめた後、興味を失ったように視線を逸らした。
「どこだ」
呟く。探しているのは少女ではない。最初から、ずっと、鍵だった。
――その夜、リリィは夢を見ていた。
それは小さなころの夢で、今よりもっと幼く、まだ背も低くて何もわからなかった頃の記憶だった。
ぼんやりとしていて、まるで霧の向こうを見るように曖昧だったが、父と母がいることだけはわかった。二人とも怒鳴っていたが、言葉までは聞こえず、それでもケンカしていることだけははっきりと理解できた。
皿が割れる音や何かが倒れる音が響き、怖くてリリィは部屋の隅で膝を抱え、泣いていた気がする。多分、きっとそうだったのだろう。
しかし、そのあとの記憶だけは不思議と鮮明だった。
突然、父が部屋へ入ってきて、その顔色は悪く、それは母も一緒で、二人とも泣きそうな顔をしているのに笑っていた。子供ながらに変だと思い、今思えば本当に異様な光景だった。父はしゃがみ込み、そして何かを首へ掛けてくれた。冷たい感触の小さな金属、それは鍵だった。
『なくすな』
『絶対に』
夢の中なのに、その言葉だけははっきりと聞こえた。
『宝物なの』
『大事にしなきゃ駄目よ』
と、母が続ける。二人とも目に涙を浮かべて笑っていた。
そこで夢は終わる。
リリィは小さく身じろぎし、暗い部屋の中で静かな寝息を立てていた。窓から差し込む月明かりの中、眠ったまま無意識に胸元へ手を伸ばし、指先が鍵へ触れると安心したように握り締め、そのまま再び眠りへ落ちていった。
何も知らないまま、その鍵ひとつのために、今どれだけの人間が動いているのかも知らずに。
朝を迎えると、リビングには穏やかな空気が流れていた。
窓から差し込む陽射しは暖かく、深夜の不穏な話など、最初から存在しなかったかのようだった。
……少なくともリリィにとっては。
「マーサおばちゃん見て!」
リリィが胸元の鍵を掲げる。
朝日を受けた真鍮の鍵が、そこで小さく光った。
マーサは洗い物の手を止める。
「おやおや、どうしたんだい?」
「ピカピカにしたの!」
得意げだった。どうやら、朝から布で磨いていたらしい。大事なものを大事にしたいという、子供らしい行動だった。
マーサは少しだけ笑う。
「綺麗だねぇ」
「でしょ!」
リリィは嬉しそうに頷く。そして、当たり前のように鍵を握り締める。
その仕草を、マーサは静かに見つめていた。
「大事な物なんだね」
マーサが言う。
リリィは機嫌よく即答した。
「うん!」
迷いもない。
「だって、たからものだもの!」
その笑顔に嘘はない。
マーサは頷き、その流れでオリオンとジャックを見た。
このやり取りを聞いているはずなのに、二人とも何も言わない。
だが、明らかに昨日までとは違っていた。視線、空気、呼吸、言葉。
マーサは内心でため息を吐く。
……きっと、面倒なことになっている。それだけは確かだった。
しかし、この子の前では言わない。言う必要もないからだ。
「ほら」
マーサが言う。
「朝ご飯冷めるよ」
「はーい!」
リリィが、マーサの元へ駆け寄っていく。
その背中を見ながら、オリオンとジャックは目を細めた。まるで、何かを覚悟するように。
***
――同じころ。数キロ離れた場所にて。
停車した黒い車の中で、一人の男が写真を眺めていた。
無言で。車内には煙草の匂いが充満している。
一枚目の写真には家が写っていた。
古い一軒家。小さな庭にガレージ、半分開いたカーテン。
そして、楽しそうに笑っている少女。その隣には、年老いた女。さらに離れた場所には、二人の男。
いつの間にか、撮影された写真だった。
「これか」
男が呟く。運転席の男が頷いた。
「間違いありません」
「ふん」
興味のなさそうな返事だったが、視線だけは写真から離れない。
少女、鍵、家、保護者。目立つ内容を頭の中で整理する。
そして「もう用はない」とでも言うように、写真を裏返した。
「前のヤツは?」
「失敗しました」
「知ってる」
男は欠伸をする。見るからに退屈そうだった。まるで他人事のように。
「じゃあ今度は失敗するな」
それだけだった。命令とも脅しとも取れない。
だが、その言葉に運転席の男は青ざめた。理由は簡単だった。『失敗した人間は消える』それだけ。
男は再び写真を見る。今度は、二枚目――リリィの写真を。
そして、彼は気付いてしまった。
その首元で揺れる、小さな鍵に。
「見つけた」
淡々とした言葉を受け止めながら、運転席の男は車を出した。
リリィはまだ知らない。オリオンも、ジャックも、マーサも。
嵐が、もうすぐそこまで来ていることを。