* * *
――住所に書かれていた住宅街は、細身の男が想像していたよりも、ずっと静かな場所だった。
繁華街から車で三十分ほど離れただけだというのに、夜の空気は別の街のように穏やかで、遠くから聞こえてくるのは犬の鳴き声と、同じように通りを流れる車のエンジン音くらいしかなかった。そのため、男の感じる静けさはいっそう際立っていた。
街灯の明かりは弱かったが、それでも、等間隔に並んだ一軒家の影を長く道路へ落としており、その光景はどこにでもある平凡な住宅街そのものに見えた。
男はその中の一軒を見上げる。等間隔に並んだ一軒家から、少し離れた場所にある、仲間外れの、家。
それは白い外壁に小さな庭があり、郵便受けと車庫まで備えた、ごくありふれた家だった。特別なものは、何もないように思えた。
少なくとも、表面上はそうだった。
男は向かい側の歩道へ立ったまま、しばらく家を観察していたが、焦る必要はないと感じていた。
時間なら十分にあるし、状況を確認してから動いたとしても、まったく遅くはないと考えていたからだ。
やがて、一台の車が近付いてくる。
それ自体は、住宅街では珍しくない光景だったが、その車は家の前で停まったため、男は自然と注意を向けた。
運転席から男が降り、続いて助手席から女が降りる。
そして、後部座席からは小さな何かが運び出された。
それは買い物袋には見えず――少なくとも、男にはそう見えなかった。
家の中へ戻っていく素振りを見せない夫婦を見つめながら、男はポケットから煙草を取り出す。
しかし火は点けず、ただ指先で回していた。それは彼が、考え事をしている時の癖だった。
そんな時、一人の男が夫婦に近付いた。ポケットから何か取り出して女に渡すと、小さな何かを受け取ってその場を去った。
辺りを気にしながら去っていく男を見て「薬の売買をしている」と確信した。
情報屋は正しかった。
これは偶然ではなく、勘違いでもない。間違いなく、この家から薬が流れている。この家の夫婦が、薬をばらまいている。
そう確信した男は、再び家を見上げた。
二階の一部屋。カーテンの隙間から灯りが漏れており、その姿はどこから見ても普通の家だった。
普通に見える。
だが普通の人間は、薬を売らない。
男は煙草をポケットへ戻した。
確認は終わった。後は仕事をするだけだった。
***
――大柄の男は、住宅街の角にあるダイナーの窓際席へ腰を下ろしながら、メニューも開かないままコーヒーをひとつ注文した。
夜も遅い時間だったが、店内にはまだ数人の客が残っている。
仕事帰りらしい男。
デート中の若いカップル。
一人で新聞を読んでいる老人。
どこにでもある、普通の夜の風景だった。
男はそうした光景を眺めながら、時折窓の外へ視線を向ける。
目的の家は、遠かったものの辛うじてそこから見えていた。
このダイナーに入る前、わざわざ一度目の前を通り過ぎて見送った、白い外壁に小さな庭のある、何の変哲もない住宅。
渡された情報が正しければ、あそこが薬の流通拠点だった。
「お待たせしました!」
ウェイトレスがコーヒーを置く。男は笑顔で礼を言った。
その笑顔だけを見れば、誰も彼を危険な人間だとは思わないだろう。
——たとえば、人殺し、とか。
実際、ウェイトレスもそうだった。
「お兄さん、見ない顔ね。この辺りに住んでるの?」
「いや、ちょっと仕事でね」
「営業?」
「すごいね! あぁ、似たようなものかな。この辺の家を調べていてね。価格が高騰してるそうだから、こっそり偵察だよ」
男はもっともらしい言葉を並べて、わざとらしく双眼鏡を取り出した。
ウェイトレスは「大事な商売道具ね」と声をかけて、笑いながら去っていった。
男が真顔でコーヒーを一口飲み、双眼鏡を構えたその時だった。
目的の家の前へ一台の車が停まり、運転席から男が、助手席から女が降りた。
後部座席から何かを下ろし、家の中には入らず、なぜか玄関付近でウロウロしている。
そこへ一人の男がやってくると、女と簡単なやり取りをして、挙動不審のままどこかへ去っていった。
短い時間での出来事。だが、十分だった。
男は、窓越しにその様子を眺めながら、小さく息を吐く。
「趣味が悪いな」
誰に向けた言葉でもない、ただの感想だった。
男は、薬が嫌いだった。
人を壊す。
考える力を奪う。
そして何より、自分の芸術を台無しにする。
だから嫌いだった。
男は再び家を見る。夫婦はまだ家の前にいたが、二階の一部屋、カーテンの隙間から灯りが漏れている。
それ以外は、静かな家だった。
考えていたとおり、どこにでもありそうな家だった。
だが、その中にいる人間までありふれているとは限らない。
男は、冷め始めたコーヒーへ口を付ける。
情報は正しかった。
ならば後は簡単だ。
あれを素材にして、作品を仕上げるだけだった。
ダイナーを出た大柄の男は、コートの襟を立て、ダイナーで買った紙ナプキンを指先で弄びながら、店の前でぼんやりと夜空を見上げている。
いつもなら、イヤフォンに音楽でも流したくなる時間だったが、なぜか今夜はそんな気分にはなれなかった。
昼間なら子供たちの声が響いていたであろうこの通りも、この時間になると静まり返っており、聞こえてくるのは遠くの車の走行音と、どこかの家で吠える犬の鳴き声くらいしかない。
街灯の明かりは弱く、人影も少ないため、普段なら見過ごしてしまうような小さな違和感でさえ、この静寂の中では妙に際立って感じられた。
「嫌いだよ」
そう言って、男は紙ナプキンをクシャリと潰す。それはまるで、ひとつの命が壊れる様に見えた。
紙ナプキンをゴミ箱へ捨てると、そのままポケットへ手を入れる。指先に当たるのは、よく慣れた拳銃の輪郭だった。
愛おしそうにひと撫でし、男は手を出してゆっくりと歩き始めた。
「芸術は、誰にでも平等であるべきだ」
小さく一言呟いて。
男は歩きながらふと足を止めたが、その理由を、自分でもうまく説明できなかった。ただ、背中に何かを感じたのだ。
それが視線なのか、気配なのか、あるいは匂いのようなものなのかはわからない。言葉にできない、説明のつかない何かだった。
男はゆっくりと振り返る。
だが、そこには誰の姿もなく、住宅街の道が真っ直ぐ闇の中へ伸びているだけだった。
「……気のせいか」
そう呟きながら前を向き、男は再び歩き出した。
――そのころ、一本隣の路地では、別の男が同じように足を止めていた。
街灯の影に身を置きながら、住宅街の奥へ視線を向ける彼もまた、理由は同じだった。
何かがいる気がしたのだ。説明できない何かが、すぐ近くに潜んでいるような感覚だけがあった。
細身の男は、ゆっくり振り返る。
しかし、やはり誰もおらず、そこにあるのは静まり返った夜の住宅街だけだった。
男は数秒だけ考え込んだものの、やがて小さく肩をすくめる。
考えるだけ無駄だ。
やるべきことは決まっている。
そう考えて、だが口には出さないまま、細身の男は歩き出した。
気になることがあったというのに、焦る様子は一切なく、足取りは一定で、呼吸も乱れていない。
仕事の前だからだ。
長年繰り返してきた、習慣のようなものだった。
コートの内側へ手を入れ、ゆっくりと優しく、拳銃へ触れる。
冷たくて硬い感触が、そっと指先へ伝わってくる。
男は再び前を向く。目的地はもう近い。
ただの仕事だ。ちょいと右目に、この弾をぶち込むだけで良い。それがいつものやり方で、男の美学だった。
そう考えているにもかかわらず、なぜか先ほど見た家の灯りが、頭から離れなかった。
男は理由を考えたが、すぐにやめた。
理由など必要ない。仕事に感情は要らない。
だから男は、あの夫婦の元に向かって歩き続ける。
――それぞれの夜は静かに進み、やがて同じ場所へ辿り着こうとしていた。