「で? 他には?」
思わず、目をぱちくりさせてしまった。そんなことを聞いてくるなんて、意外だ。
「他に、って?」
「だから、そのストーカー野郎の所業だよ」
もしかして、このままもっと大きな被害にあったことを話したら、もっともっと、心配してくれるんじゃないか。少しだけ、期待が顔を出す。
「所業って……でも、うーん。鍵閉めたはずなのに、家に帰ったらドアが開いてるとか?」
「……つまり、不法侵入されてるってこと?」
私が、鍵をかけ忘れただけかもしれない。けれど、先日家に帰ったら、確かに鍵が開いていたのだ。
「言い切れないけど……実際は、私が鍵を閉めたって、思い込んでるだけかもしれないし?」
「はぁ。なくなった物は? ないの? 逆にさ、身に覚えがないのに、いつの間にか増えた物とか」
「ない、かなぁ、多分」
よく覚えていない。そのときは、自分が鍵をかけ忘れたと思ったから。調べもしなかった。
「多分、って。……お前、危機感ないの?」
大地の口調が強くなる。怒っている証拠だ。
「ないわけじゃないよ! って、そんな言い方しなくてもいいんじゃないの?」
私もつい、むきになって応えた。よくないことはわかっている。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
落ち着くために、私は一度、席を立つことにした。
「……はぁ、どうしてこうなっちゃうんだろう」
私は鏡を前に、大きな溜め息を吐いた。ケンカなんかしたくない。するつもりもない。それなのに、最近いつもこうだ。言葉も態度も、選んでいるつもりなのに。
もうひとつ、大きく溜め息を吐く。今日は、久し振りのデート。もっと、楽しい時間を過ごしたかった。空気を変えようと席を立ったが、どんな顔をして戻ればいいのかわからない。
「はぁ、疲れちゃったな」
バッグからスマホを取り出して、私はSNSを開いた。
「あ、朝の投稿に、リプライきてる!」
この瞬間は、本当に嬉しい。反応があるから、やめられないのだ。
「『デートですか? いいですね、楽しんできてください! 今日のコーデも素敵です!』だって。ふふふっ、嬉しいなぁ」
私の、癒しの時間。優しい世界。大地といるよりも、ずっとずっと。
気分転換に、さっき撮った料理の写真を載せる。それから、お店の外観。今日行ったお店の履歴だ。
それと、今朝の空の写真。載せるのを忘れていたから、続けて投稿する。気分は落ち込んでいても、今目に映る空は青い。それだけで、頑張れるような気がした。
大地には教えていないが、ほんのちょっとだけ、大地の写真も載せた。と言っても、絶対本人にバレると怒られるから、後ろ姿やほんのちょっとの横顔。それから、手元がメインだ。彼氏がいることは公言しているし、そういう目で見てくる人は、今のところ湧いていない。
ペアルックが載せられたらいいのに、と思うが、大地は嫌がるだろうから言わない。可能なら、手を繋いで一緒に撮った写真を載せたいのに。
……よく考えたら、大地に褒められたことはなかった。
「私は一生懸命、大地の好きな女性になろうとしている」と自負しているからこそ、嬉しい反応が一切ないのは悲しい。
たまには、彼に褒められたかった。
だから、今日はサプライズでプレゼントも持ってきたのに。
空気を悪くして、渡せなくなったら困る。
「うんん。大丈夫。平気、平気!」
私には、SNSのみんながついている。
不安になっても、話を聞いてくれるし、反応もくれる。もし、今日上手くいかなくても、ちょっと愚痴ったらみんな聞いてくれるから。何も心配しなくて良い。
「紙袋、は……うん、潰れてないね、よかった」
厚手だからか、紙袋は無事だった。
今日私は、これを大地に渡す。
「私、ちゃんと笑顔、できるかな?」
鏡を見て、口角を上げる。大地が、忙しいことはよくわかっている。そんな中、時間を縫って、私のメッセージに返信し、デートの時間を設けてくれていることも。
だけど、周りと話をすると、その時間は圧倒的に少なかった。そして「なんか大事にされてないよね」「本当に付き合ってる?」と、心無い言葉を投げられることもある。
その人たちに、悪気がないことはわかっている。心配してくれているのだ。だって、昔からの友人だから。それに、私も友人が同じ状況だったら、同じことを言ってしまうだろう。
「ほんとは、色んなところに大地と行きたかったよ……」
私の投稿を大地が見たら「羨ましい」とか「お前は気楽でいいよな」と言われそうで怖い。私は、自分で自分の機嫌を取っているだけなのに。
大地がいないから、一人でその時間を潰す。ただ潰すだけだと虚しいから、新しいお店を開拓して、自分の好きそうなものを探している。球に友人と行ければいいが、そういう日に限って、大地から連絡が来る。嬉しいが、私が予定を合わせることを、当たり前だと思っている大地を見ると、腹が立つこともあるのは確かだ。
だから、私から友人を誘うのは難しい。だめになったとき、申し訳なさ過ぎて、胸が痛いから。
バッグから、アトマイザーを取り出して、私はひと吹き自分に香水をかけた。飲食店だから、控えめに。これは、私の大好きな匂いだ。
「大丈夫、大丈夫」
そうして、自分に魔法をかけるように呟くと、笑う練習をしてトイレを後にした。
「……お待たせ」
席に戻ると、大地がスマホを見ていた。珍しく、文字ばっかりではない、写真のページ。
「あれ、何見てるの?」
何気なく聞いてみる。
「あ、いや。なんでもない、うん、別に。気にするなって。てか、急にスマホ覗くなよ、ビックリするだろ?」
慌てた様子で、大地は画面を閉じた。……怪しい。怪しいが、ここで何か言っては、また機嫌が悪くなる。
「なんか感じ悪い」
しかし、ついうっかり言ってしまった。
「ごめんって。……てか、そのニオイ」
「あ、これ? いいでしょ、香水変えたの」
すぐに気付いてくれた。それがとにかく嬉しくて、食い気味に話す。
――が。彼は、すぐに口と鼻を手で覆ったかと思うと、思い切り顔をしかめたのだ。
「いい、か?」
その状態で、大地は話す。……あまり、気分はよくない。
「うん。店員さんにもお勧めされたし。これ、今人気みたいだよ、私も結構好きな匂いだから、買っちゃった」
嘘じゃない。久し振りに、自分で選んだもの。好きを共有したくて、自分の好きを忘れたくなくて、私はこれを買った。
「紗季さ、忘れてない?」
「何を?」
何か、忘れていることはあっただろうか。今のところ、思い出せない。何だろうと、私は大地の次の言葉を待った。
「いや、だからさ。その香水なんだけど」
「え、それがどうかしたの? いい匂いでしょ? これなの」
私はバッグから、さっきのアトマイザーを出した。そして、大地に向けてみる。
「……わからないの?」
「あのさ、その上から目線みたいな言い方、やめてくれる?」
わかって当たり前、そんな言い方に苛々して、ついむっとしてしまう。
「ごめん、俺、そのニオイ苦手なんだわ」
予想外の言葉だった。言われてみれば、ニオイを避けるような手つきではある。
「うそ、なんで? こんなにいい匂いなのに?」
「紗季はそう思っても、好みがあるじゃん? 俺は違うの」
香水は、人が付けているにおいと、自分が付けているにおい、香水そのもののにおいで、全部違うと思っている。私がつけているのをいまいちだと思っても、自分がつけたら違うかもしれない。香水そのもののにおいは、苦手じゃない可能性もある。
「えー、でも、慣れたら好きになるかもよ? ほら」
私はそう言って、アトマイザーのキャップを外し、大地に向かって発射口を向けた。
「うわっ! おい、やめろよ!」
私の手から、アトマイザーが落ちた。大地に叩かれたのだ。
「やだっ!」
