「彼氏って、アカウント持ってないの?」
「わかんない。こういうのあんまり興味なさそうだから」
「紗季のは教えてる?」
「ううん。あんまり見てほしくない……かな。別に、困りはしないんだけどね! 何となく嫌だな、って言うか……」
最初は、教えてもいいと思った。だけど、彼のSNSに対する気持ちや、それを頻繁に利用する私への態度を見て、教えないことが正解だと感じた。だから結局教えていない。
「その彼氏が、ストーカーの正体だったりして」
「まさか!」
私は笑って首を振った。多分、そんな器用なことはできない。それに、彼だったら直接言いたいことを言ってくるはずだ。
私のSNSの投稿を、わざわざスマホで見せつけながら。
「そうかなー? いい線だと思ったんだけど」
「だとしたら、めちゃくちゃ怖いよ。もうホラー映画じゃん」
「それもそうだね。もしそうだったらって考えたら、めっちゃ怖いわ」
私たちはひとしきり笑って、美味しい物を堪能し、満足した気持ちのまま、家に帰った。
「由那、今日はありがとね! 話したら、すごくすっきりした!」
「私のほうこそだよ! 次は、お互い良い話ができることを祈る!」
「あははっ、そうだね! じゃあ、気を付けて帰ってね」
「うん、紗季も。じゃあね」
「またね!」
由那に手を振って、私のマンションの前で別れた。
「ええっと、鍵、鍵、と……」
バッグの中から、鍵を取り出す。
スマホは忘れたが、鍵は忘れなかったらしい、よかった。
「……ん?」
エレベータを下り、部屋の前まで歩いてから、私は異変に気が付いた。
「床、こんなに汚れてたっけ?」
ドアの前で立ち止まる。床が、黒と茶色で酷く汚れているのだ。家を出たとき、こんなものはなかった。
流石にこの色は、見逃そうにも目立ちすぎる。
気足で擦ってみたが、砂のように移動することもなければ、泥のように削れることもなかった。
まるで染みのように、それはその場にあった。
気になったが、後で水でも流せばいいかと、私は鍵をシリンダーに差し込んだ。
「……あれ?」
ガチャリ、と、鍵の開く音がしない。回したときの、手応えもない。
「やだ、私、鍵閉め忘れたの?」
せっかく楽しい気分で帰ってきたのに、自分の不注意に一気にテンションがだだ下がる。本当に最悪だ。鍵を持っているのに、鍵を閉めていなかったなんて。
「はぁ、やっちゃった……」
泥棒が入っていないことを祈りながら、私は恐る恐るドアノブに手をかけた。
ゆっくり、ドアを開く。
「うっ……!」
反射的に、息を止めた。
嫌な臭いがする。今まで、嗅いだことのない臭い。気持ち悪くて鼻をつく、肺の奥に入り込んで、心臓を抉るような、そんな臭いだ。
胸がむかむかして、それ以上吸い込むことを拒むように、いつも通りの呼吸ができない。
肌にまとわりついて、毛穴にすら入り込もうとする。全身がこの臭いに反応しているのだ。
「なんなのよ……これ」
私は、ゆっくりと中へ入ったが、どうしても、電気を点けることができなかった。電気を点けたら、嫌でもこの臭いの主がわかってしまう気がして、どうにも怖かったのだ。
リビングのドアは、半分開いていた。自分が閉めたかどうかわからない。ただ奥から、光が漏れている。
「あっ、スマホ?」
スマホは充電して、そのままテーブルの上に置いていた。だからきっと、あの光は画面の光だろう。
……なんとなくだが、臭いは向こうからしてくると、本能で感じていた。近付きたくない、が、近付かなければならない。けれど、足が前に出なかった。
近付かなくてはならないのに、近付いてはいけない気がする。
怖い、怖い、怖い。
意を決して、身体を引いたまま、腕だけ伸ばしてリビングのドアに手をかけた。そっと、中を覗く。
「……っ、ひ、いっ……!」
私の目に映ったのは、スマホの明かりが上を向く中、床に転がっている塊。大きな、塊。
直感で、それが人であると、私は理解した。この部屋の住人は私だけで、私は今ここにいる。つまりあれは、私以外の誰か、ということだ。
本当は、叫びたかった。
勝手に喉の奥が叫ぼうと道を開いたのに、その中に入ってきた異臭が、叫ばぬようにと出来た道を塞いでいく。
それが逆に、私を冷静にさせた。
暗闇に慣れてきた目で、それが何かを確かめる。きっと、本能というやつだろう。もしくは、怖いもの見たさ。
「……ん?」
人らしきものが、着ている服に、私は見覚えがあった。
私の、今日着ている服と、同じだ。
大柄のスカートに、シンプルなトップス……だと思われる服。
なぜ、思われる、なのか。
だってそれは、人の血に、塗れていたから。
一瞬『もしかしてあれは自分か』と錯覚した。でも慌てて、違う、と言い聞かせるために心の中で何度も呟く。
「と、とにかく! け、警察……と、救急車……?」
110へ、急いで電話をかけた。指は震えたが、番号を口にすることで、落ち着くことができたと思う。救急車は、警察が手配してくれることになった。「その場から動かないで」と言われたが、このままここにはいたくない。でも、警察からのお願いでは、無暗に動けない。
「え、もし犯人が戻ってきたら……私、どうしたらいいの……?」
不必要なもしも、が、私の頭をよぎる。
でも、そんなことは言っていられない。だって、誰かが死んでいるなら、放っておくわけにはいかないから。
動くこともできず、部屋を出ることもできず、私はただ、玄関のドアの前に立ち尽くしていた。立ち尽くすしか、できなかった。
「早く、早く……!」
目を閉じて、両手を胸元で組み、とにかく警察が、すぐにでも着くことを祈る。
――そうして待って、どれくらい経っただろうか。
ウー……ウー……ウー……ウー……。
サイレンの音が聞こえた。どんどんこちらへ近付いている。
「きっ、きた!」
私が通報して、何分、何十分か経ったかはわからない。気分だけなら、何時間も経っている。助けが来たことに安堵して、私は涙を流した。
コンコン――コンコン――
「すみません! どなたかいらっしゃいますか? 警察です」
ドアの外で、男の人の声が聞こえた。一人じゃない、その周りで、その人以外の声もしている。騒がしい。
「あっ、あのっ! わ、私! 通報しました!」
「お名前よろしいですか?」
「高峯紗希ですっ!」
「もう大丈夫ですからね、ドア、開けられますか?」
「はい! はい! 開けます!」
私は、ゆっくりドアを開いた。
「こんばんは」
「こっ、こんばんは……」
視界に入ったのは、制服を着た男の人。間違いなく、警官だと思った。その人の向こうで、パトカーの明かりが赤く光っている。それも、ひとつではない。
似たような制服の人が、他にもいた。こんなに沢山くるのかと少し驚いたが、とにかく、見た目の強さに安堵した。
「中に入りますね?」
「はい。あの、リビングのドアの向こうです」
「わかりました。危ないので、一旦外に出ていてください」
「こちらへどうぞ」
外で、別の警官が声をかけてくれた。彼に連れられて、私は家の外に出る。
……まるで、夢を見ているみたいだ。まさか、こんなドラマみたいな出来事が、私の身に起こるなんて。震える手を見ても、パトカーを見ても、部屋へ入っていく警官を見ても……私はまだ、どこか信じられないでいた。「これは、悪い夢なんだ」と、そちらを信じたかった。
でも、周りの音がはっきりと耳に入るたび「これは夢ではなく、現実なんだ」と、知らしめられた。
私は初めて、葬儀場以外で、人の死体というものを見たことになる。こんなに、現実味がないのか。
「すみません、少し、お話をお聞きしても?」
遠くから、声が聞こえた。
「え? あ、はい」
私を外へ連れ出してくれた、警官の声だった。すぐ近くにいたのに、遠くから聞こえた気がしたのだ。
「家主の方ですよね?」
「はい。そうです。高峯紗季といいます」
「他に、どなたかと一緒に、住まわれていました?」
「いいえ、一人暮らしです」
形式的な質問。「きちんと答えなければ」と、そう思えるから、まだ頑張れた。……本当は、誰かに一緒にいてほしい。