紗季の家に着くまで、カップルは目の前で話し続けた。一方的に、彼女が喋っているように見えたが、彼氏はおとなしく、彼女の話を聞いていた。ときどき頷いたり、突っ込んだり。
なんと言うか、良く言えば優しい、悪く言えば弱弱しい。俺には関係ない話だが、この彼氏はもっと、威厳を持つべきだと思う。
そう、俺には関係のない話だが。
駅について、俺が電車を降りようとしたとき、彼氏と目が合った。「うるさくしてすみません」とでも言うように、ほんの少し頭を下げる。彼女のほうは「ねー、何してんの?」と、彼氏を見て言った。一言言ってやろうかと思ったが、俺は面倒になって、そのまま何の反応もせず、電車を降りた。
「……まだ、まだいいな」
すぐ紗季の家へ向かうには、まだ惜しい時間だった。きっと今、紗季は今か今かと、俺のことを待っているに違いない。
俺からの連絡がないか、スマホを随時チェックして、そわそわ落ち着かないはずだ。そして、準備しておくという何かを、早く見せたくて楽しみにしているはずだ。
そこへ、時間をかけて俺が行く。
完璧だ。
何も考えず歩けば、駅から紗季の家まで、あまり時間はかからない。この、暗く闇に染まりそうな空が、完全に黒へと染まる前に、着くことができるだろう。まだ、オレンジと紫が残っている。切り替わるぎりぎりで、俺は紗季の家に入るつもりだ。
夕方ごろという、あいまいな時間を指定した、紗季が悪い。「もっと早く来てほしかった」なんて言わせない。もちろん「着く前に、連絡してほしかったのに」とも。
ゆっくりと、俺は歩いた。人通りはそこそこに、車の通りも相変わらずだ。今日はいい天気だった、見上げた空も、深く澄んだいい色をしている。
俺はもう一度、鞄の中身を整理した。間違えて、必要なものをロッカーにしまっていないか確認する。
「大丈夫、大丈夫」
ちゃんと入っていた。大事なものだ、絶対に、忘れてはならなかった。
「……はぁ」
なぜか、足取りが重くなってきた。思うように、足が上がらない。前に進まない。理由はわからなかった。ここまで順調に歩いてきたのに、半分を過ぎたところで、急に歩きづらくなってきたのだ。
胸が痛い、肺が苦しい、頭ががんがんする。脚は、引きずりたくなるほどに、重く動かなくなった。
「何でだ……?」
意味が解らない。俺は早く、紗季の家に行かなければならない。行くべきなのに。焦らしたい気持ちはあったが、完全に暗くなる前には、家へ着く算段だった。
このペースで歩くと、きっとそれは無理だろう。
「動け、動け……!」
自分を鼓舞しながら、俺は必死に足を動かした。気が付いたら、全身汗まみれだ。手に汗をかき、額と首筋も、汗が伝って下へと落ちていく。
ひんやりとしていて、身体の熱が奪われそうだ。……この感覚、前にもあったような気がする。が、今はそんなこと、気にしていられない。
とにかく前に、進まなければ。
「早く、早く!」
ずるずると、結果身体全体を引きずるように、俺は進んだ。気持ちに身体が追い付いたのか、このペースで行けば、ぎりぎり暗くなる前に間に合う。夜になる前に、紗季の家に着ける。
「はぁ、はぁ」
息を切らしながら、視界に紗季の家を捕らえたとき、俺の身体が一気に重たくなった。力ずくで歩いてきたのだ、その反動だろう。俺は袖で汗を拭い、ゆっくりと呼吸を整えた。
ここで、プレゼントを取り出す。まぁこれは、言いたくないが、お詫びの品だ。ないと困るだろうし、俺も困る。
「すぐ、使えるようにしておくか。時間も遅いからな、早くやり始めないと……」
疲れている頭と身体。言葉を口にして、しっかり俺の行動と、現状を確認する。――失敗は、許されない。
俺は今、のそのそと歩いている。全身真っ黒、そして汗だくだ。不審者と間違われても、おかしくない。それは困るから、俺は一生懸命背筋を伸ばした。家に入るまででいい。そこまで、俺の姿勢が保てれば、それでいい。
「中に入れば、誰も見てないから」
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
言い聞かせながら、俺は一歩、また一歩と、足を紗季のいるマンションへ向けた。辺りは静まり返って、俺の心音しか聞こえない。昨日の夜、あんなにいた警官とパトカー、それに野次馬も、今は誰一人いなかった。ありがたい話だが、その静けさが、妙な緊張を俺に運ぶ。
緊張しなくていい。俺はただ、プレゼントを持って、紗季の家のドアを開ける。それだけでいいんだ。
それで、紗季が出てきたら、俺は勢いよくプレゼンを渡して、紗季の顔を見る。俺からのプレゼントに、驚いた顔をして、そのまま動きが止まったら……サプライズは大成功だ。
その後、俺は紗季の目を見ながら、にっこりと笑ってやればいい。そうしたら、俺の意図も伝わるはず。
「……おっと」
俺は小さく呟いた。俺のことを、一人追い抜かしていったのだ。ペースを落とし、その後ろにつく形で俺は進んだ。
行き先は、同じだった。どうやら、紗季と同じマンションに住んでいるらしい。
スマホを見て、時間を潰す。この時間になっても、紗季からの連絡はなかった。従順に、俺の到着を待っている、ということだ。
マンションの中に、俺を追い抜かした人が入るのを見届けて、少し時間を置いてから、俺も同じようにマンションへ入った。
エレベータが、動いている。目で階数を追いかけると、それは紗季とは違うフロアで止まった。
「じゃあ、俺も」
エレベータに乗ろうとして、俺は足を止めた。辺りを見渡して、誰もいないことを確認する。今、誰かと同じ空間には、いたくなかった。
「よし」
今度こそ乗り込んで、紗季の家のフロア階のボタンを押す。着くまで、ほんの一瞬。その時間が、俺にとってはとても長く感じた。
落ち着かず、俺はプレゼントを手で握り締めた。その硬さが、俺を落ち着かせてくれる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
心の中で、何度でも言う。
エレベータを降り、部屋へ向かう。ふと、空を見ると、もうほとんど淡い闇に染まりかけていた。うっすらとまだ、夕方が空の境目に残っている。
「あぁ、きれい、だな」
ぽかんと口を開けて、俺は空を見ていた。家まであと数メートル。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
言い聞かせるように、俺は続けた。
「……早く、行かなきゃ」
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
空に、吸い込まれそうだった。
「きれい、なんだよ」
俺の足は、ドアへ向かわず、ずっと外側を歩いている。
まるでそこから、離れたくないみたいに。
それでも、前に進んでいることに、変わりはない。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。
やっと、俺は紗季の家の目の前に着いた。聞き耳を立ててみたが、部屋の中からは、何も聞こえない。でも、ここに、紗季はいるんだ。
はぁはぁ、と、自分の呼吸音が聞こえる。人生の中で一番緊張しているかもしれない、と思えるほど、俺の手は震えていた。一緒に唇も震えている。
そんな身体を落ち着けてから、俺はぐっと、ドアノブを握った。そしてそのまま、下に手を動かす。
キィィィ。
中と外の空気が、ドアの隙間からゆっくりと混じる。
「開いてる」
本当に、開いていた。
壊れていると言っていたが、それなら早く直したほうがいい。
悪いやつが、簡単に入ってきてしまうから。
「遅い時間まで、待ってる場合じゃないぞ」と、そう教えてやろう。
俺はゆっくりとドアを開いた。中は真っ暗で、何も見えない。……まるで、昨日のように。
「紗季?」
声をかける。サプライズと言って、紗季もどこかに、隠れているのかもしれない。
「紗季ー! 出て来いよ!」
俺は自然と、プレゼントを持つ手に、力を込めていた。
「紗季!」
怖くて、電気は点けられなかった。手探りで進む。
風呂場も、トイレも、電気は点いていない。物音もしない。
もう一度、紗季の名前を呼ぼうとしたとき、不意に、リビングから灯りが漏れた。
「リビングか?」
俺は、リビングのドアを、半分開けた。
「……っ!」
びっくりして、声が出る。そこには、人が立っていた。見る限り、紗季だ。あの髪型、大柄のスカートに、シンプルな……。
「紗季?」
小さな声で呼んでみる。が、紗季は振り向かない。微動だにしない。
これは、幽霊なのか。それとも、生きている人間なのか。
だって、昨日と同じ格好で、昨日俺が殺した紗季が、今目の前に立っている。
思い切って、俺はリビングのドアを全開にした。