「くっそ」
独り言が冴える。冷静な気持ちでいるためには、喋り続けるしかないと思った。心を落ち着けるために、今の自分をアウトプットする。状況を整理するために、わかることを吐き出す。
「あいつが、あんな香水つけてこなけりゃよかったのに!」
愚痴だって言う。
見つけた黒のごみ袋に、着ていたものを全てぶち込み、二重にして口を閉じる。それを、燃えるごみの袋に入れて、明日捨てることにした。いつでもごみが捨てられるなんて、何とも運がいい。
まるで、今日のために設けられたようだ。
……なんて、そんなわけないと思いながらも、マンションの設備に感謝した。
「散々だよ、まったく」
お湯はまだ半分しか溜まっていなかった。が、俺は気にせず、シャワーを浴び始めた。お湯の溜まりは遅くなるが、早くまとわりつくものを洗い流したかった。
俺の汗も、吐瀉物の跡も、彼女の血も、バニラの臭いも。
「はぁ……あー……」
それでもまだ、気持ちが悪い。思い出すと吐きそうだ。
「待ち合わせして、飯食って、ケンカして」
ケンカして、紗季が店を出た後。俺は、追いかけるべきだったのだろうか。すぐに席を立って、金を払って、料理は二の次で。
そうすれば、少なくとも、あのタイミングで話はできたはずだ。
「そうしたら、引き留められたのか?」
いや、でも、悪いのは俺じゃない。俺は悪くないのに、謝ることはプライドが許さない。
紗季が、折れるべきだった。 あそこで、勝手に帰るべきではなかったのだ。
「だよな、そうだよな。うん」
だいたい、相手の許可も撮らずに、アトマイザーを顔に向けるなんて、あり得ない。しかも「そのニオイは苦手だ」と、はっきり言っているのに。
「……なんだ。あいつが、悪いんじゃないか」
そうだ、あいつが悪い。俺は悪くない。こうなった元凶は、俺じゃない。あいつだ。あいつなんだ。
となると、こうなるのは必然だったことになる。
あいつが、トイレに立たなければ。あいつが、香水をつけなければ。あいつが、俺の目の前にアトマイザーを出さなければ。
あいつが、あいつが。
あいつが、あいつが。 あいつが。
あいつが。
「くそっ!」
余計なことをしなければ、今ごろ、仲直りしていたかもしれないのに。それはもう「かもしれない」から、先に進むことはなくなってしまった。
他でもない、俺が止めたのだ。あいつが悪くても、流れを止めたのは俺だ。がからもう、永遠に過去の可能性なのだ。
俺はあいつを――紗季を愛していたのに。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「うげ、えぇ」
また吐き気がこみ上げる。もう、吐けるものなんてないのに。
「うっ、うぅぅ」
代わりに、目頭が一気に熱くなって、瞼の裏に、涙が溜まっていた。薄っすらと目を開き、それを外へ流す。お湯と混じって、排水溝の奥へ消えていくさまを、俺はじっと見つめていた。
頭を二回、身体を三回洗い、俺は浴槽へ浸かった。何度洗っても、何かが残っている気がして仕方がない。でも、気になって鏡を見ても、俺の見た目は多分きれいだった。
「なんだよ、もう」
何を言っても、シャワーの音にかき消される。
お湯を止め、ゆっくりと浴槽へ足から順に身体を落とす。
「……俺、逃げたんだ」
目を閉じて、そのまま浴槽の底へ沈む。
殺して、逃げた。逃げてしまった。通報しなかった。それは、まぎれもない事実だ。つまり俺は、逃亡犯ということになる。
「ごぽっ」
――ざばん。
「っ、ぷはっ、げほ、げほっ」
ばかみたいに、水の中で息をしようとしてしまった。思わず開けた目が痛い。慌てて立ち上がると、大きな波とともに、浴槽のお湯が外へ飛び出していった。
「はぁ、はぁ」
現実が、輪郭をもって襲ってくる。今までまだ、どこが夢のような話だと思っていた。妙にリアルな夢。
明日になったら、紗季からメッセージが届いて、当たり前のように買い物へ行く。俺は車で迎えに行って、帰りは紗季の家に寄る。
「あ、あ、違う違う違う!」
浴槽の中のお湯が、一瞬血に見えた。俺の手から、流れていく彼女の血。
「っ!」
わかってはいるものの、一度見えてしまっては、もう無理なのだ。もう、すべてが血にしか見えない。
俺は急いで浴室から出ると、擦れて真っ赤になるくらい、タオルで必死に身体を拭いた。
何もかもを詰め込んだリュックは、玄関の真ん中に鎮座している。開ける気にならないが、一番どうにかしなきゃいけないものが、沢山詰まっている。
「そのまま捨てるか」
俺は丸ごと、燃えるごみの袋に入れた。捨てちゃいけないものが入っている、それはわかっている。わかっているが、分別する余裕はない。
勢いでベッドに転がると、疲れが一気に押し寄せて来た。
「眠い、マジで」
とにかく眠い。今日という日は、二度と思い出したくないくらいに、色々あった。
「疲れた」
今の頭の中は、疲れた、と、眠いが大半を占めている。
瞼が落ち始め、身体も揺れる。
ぐぅぅ――
「はぁ」
それから、腹が減った。
「人間って、めんどくせぇ」
こんなときでも、お腹は空くのだ。本能とは怖い。でも、確かに昼から何も食べていない。あのときも、ケンカしたからあまり食べた気がしなかった。
目を閉じて、とにかく身体を休める。全身重くて、気怠くて、今はすぐに動けそうもない。
――そうして、どれくらい経ったか忘れたが、ようやく動く気になれたころ。
「……飯、食わないと」
フラフラとただ、何度もグゥと鳴る腹の音に従って、俺はコンビニへ向かった。
「いらっしゃいませ」
「あ、袋ください」
「かしこまりました」
店員は、袋に俺の買ったおにぎりとお茶を詰める。
「お支払いは?」
「えっと、電」
……子マネーにしますと言いかけて、まずいことを思い出した。
スマホだ、あいつのスマホ。確か、テーブルの上に、マグカップと一緒に置いてあった。
あれが光っていたから、俺はマグカップに気が付いたんだ。あのスマホから、俺にメッセージが届いた。そして、取り消された。俺は、それを見てあいつの家に……。
「どうかしました?」
「え? あ、いや、いえ、これでお願いします」
「電子マネーですね」
支払いを済ませ、急いでコンビニを出る。このまま、あの家に戻らなければ。……できれば、スマホが警察の手へと渡る前に。
あいつの家までの道のりが、こんなに長いことが今まであっただろうか。ない。あるはずがない。今までは、行くのが楽しみだったんだから。今は違う。それは、俺のせいであいつのせいだ。
急いで車に乗り込んで、彼女の家へと向かった。
いつものコインパーキングは、きっと使えない。そんな近くに車を置く勇気がなかった。
仕方なく、少し離れた位置のコインパーキングへ停めると、上着のフードを被りマスクをして彼女の家へと向かった。
「怪しさ満載だな」
自嘲気味に笑う。自分でも、まるで不審者だと思う。が、顔を見られたくない。彼女の家へ行くことを、誰であれ知られたくなかった。
大通りを進み、今回は停めなかったコインパーキングを越えて、いつもの角を曲がったとき、気がついた。
「パトカー? も、もう?」
白と黒の車体に、赤のランプ。ピカピカと、俺への警告のように見えるそれは、俺が踵を返すのに十分な理由だった。
「ねぇ、事件かな?」
「すご、動画撮ろ!」
「アレが規制線ってやつ?」
人の波。
「ニュースになってる?」
「家族に知らせなきゃ」
「事件?」
「死んだの?」
ざわざわと、野次馬たちの声が聞こえる。頼むから、そんなに面白がらないでくれ。
「……暇人かよ」
精一杯の悪態を吐いて、来た道を戻る。心臓は痛いくらい音を立てているし、手のひらと脇に汗もかいている。
ようやく枢間に辿り着いたとき、それほど時間も経っていないのに、服は汗でぐっしょりと濡れていた。
「また着替えるのかよ。勘弁してくれ……」
運転席に座り、俺は手でばんばんとハンドルを叩いた。続けて、こぶしを握りがんがん殴る。
「あぁぁぁぁ!」
全身を、座席に打ち付ける。反動で、車体が揺れた。
手は痛い。身体も痛い。だが、この痛みが、嫌なことを忘れさせてくれる気がした。
忘れたって、何も変わらないのに。