第21話:学校へ行こう

We Killed Our Sweetheart

 リリィがマーサの手を借りて、学校へ通い始めてから既に、数週間が経っていた。
 最初こそ緊張していたリリィだったが、持ち前の明るさと優しさのおかげで、少しずつ学校にも慣れ始めていた。マーサは少し心配していたものの、今では毎朝元気よく登校するよほどだ。
 友達もでき、先生にも可愛がられていた。食事も美味しいし、授業も難しいこともあるが面白い、そんな日々が続いていた。

 ――その日も、いつも通りだった。昼休みになると、教室のあちこちで子供たちが騒ぎ始める。バスケットボールをしに行く子や、教室でお絵描きをする子がいて、静かに本を読む子もいた。

 リリィも、友達と話していた。笑い声があちこちから聞こえていて、賑やかな空気が広がっている。
 そんな中で、彼女はふと気になった。

 教室の隅に目を向けると、一人だけ机に向かって座っている子がいたのだ。
 その少女の名はノア。リリィが知る限り、いつも一人でいる子だった。
 彼女は休み時間も一人で過ごしていて、昼食の時間も誰とも話さなかった。それは放課後も同じだったが、別にいじめられているわけではない。
 ついでに言えば、誰かに嫌われているわけでもなかった。嫌うほどの接触も、ないのかもしれない。でも、どこか壁があるように見えた。近づきにくい雰囲気。そんな子だった。

「ノアー!」

 リリィが声を掛ける。何も気にすることなく、他の子へもするように明るく呼びかけた。その声は、教室のざわめきの中でもはっきり響き、ノアはびくりと肩を震わせた。
 それだけなのに、リリィにとっては少し気になる反応だった。どこか、驚き方が大きすぎるように感じたのだ。それに、何かを隠しているようにも見えた気がした。

 リリィは、さらに声をかける。

「いっしょにあそぼ!」
「……いい」
「なんで?」
「いいから」

 断られるのはいつものことらしく、周りの子も特に驚くことも、間に入ることもなく、当たり前のように受け流していた。そんな中、リリィだけが首を傾げた。

「つまんないじゃん」
「へいきよ」

 ノアは目を逸らした。これ以上、視線を合わせようとしなかったのだ。何かを避けるように。

 その時だった。袖が少しずれるくらいの、ほんのわずかな動き。
 手首の辺りに、青黒い痣が見えたのだ。本当に一瞬だった。

「それ」

 リリィが言う。思わず口に出していた。
 気付いたことを、そのまま本人に伝えただけなのに、ノアが慌てて袖を引っ張り、その痣を隠す。

「なんでもない」
「けがしたの?」
「ちょっところんだだけ!」

 即答だった。あまりにも早いと思えるくらいに、迷いが一切なかった。
 ……まるで、何度も同じことを言ってきたみたいに。
 リリィは、初めてノアが声を荒げるところを見た。大きな声を聞いた。語気が強く、少し怖く感じたが、何も言えない。

 リリィが黙ると、ノアも黙る。教室だけが騒がしいままだ。それなのに、同じ教室の中なのに、二人の周囲だけ静かだった。
 やがてノアが小さく言う。声はかすれていたし、感情を押し殺しているようだった。

「みないで」

 その声は怒っているようにも聞こえたし、同時に泣きそうにも聞こえる、不思議な音だった。複雑な感情が混ざっている気がしたが、上手く言葉に出来ないこともあり、リリィはそれ以上聞かなかった。
 ……聞けなかった、踏み込んではいけない気がしたのだ。
 そして、リリィ自身、何かを思い出したようだった。

 ――そうだ、昔の自分も、同じ顔をしていた気がする。

 その日の帰り道、リリィは珍しく静かだった。いつもなら、学校であった出来事を話しながら歩き、給食の話や友達の話、先生の話を思いつくままに語っては、マーサを困らせることも少なくなかったのに。
 だが今日は違う。何度もノアの顔が頭に浮かび、痣や怯えた目、そしてあの言葉が離れなかった。

『みないで』

 あの声を、家へ着いても忘れられなかった。

 夕方になり、食卓にはマーサの作ったマカロニ&チーズを筆頭に、いくつか料理が並んでいる。ジャックは相変わらず大盛りで、オリオンは黙って食べていた。いつもと変わらない光景だったが、それなのにリリィだけが上の空だった。

「どうしたんだい」

 マーサが気付き、スプーンを持つ手が止まる。リリィは少し迷い、話していいのかわからなかったが、それでも誰かに聞いてほしかった。

「ねぇ」

 小さな声に三人が顔を上げる。

「がっこうのおともだちがね」

 その瞬間、オリオンの視線が少しだけ鋭くなり、ジャックも話を聞く姿勢になるが、リリィは気付かない。

「けがをしてたの」

 誰も口を挟まない。

「ころんだ、っていってたけど」

 少し俯きながら続ける。

「たぶんちがう」

 マーサがゆっくりスプーンを置き、オリオンもジャックも何も言わずに聞く。だから、リリィはそのまま続けた。

「こわそうだった」

 その言葉だけで十分だった。部屋の空気が少し変わるが、リリィ自身は気付いていない。だが大人たちは知っている、そういう子供の顔を、そういう目を見たことがあった。

「きのせいかもしれないけど」

 リリィは小さく言い、無意識に胸元の鍵を握る。

「でも」

 少しだけ唇を噛む。

「あのかおは、たすけてほしいときのかおなの」

 三人は、ここまで聞いても何も言わない。誰も言わないからこそ、リリィは初めて本音を口にした。

「たすけてあげられないかな」

 静かな食卓だったが、その一言はどんな大声よりも重く響いた。

 しかし、誰もすぐには答えなかった。
 マカロニ&チーズの湯気だけが、食卓にゆっくりと立ち上っている。静かな中で、時計の秒針が大きく聞こえた。

 ……最初に口を開いたのはオリオンだった。

「無理だ」

 即答だった。相変わらず、迷いもない。冷たいほどに。
 リリィは顔を上げる。

「なんで?」
「私たちには関係ない」

 その言葉にジャックも頷く。

「そうだな、そりゃきっと面倒事だ」

 スプーンを口へ運びながら言う。

「先生がいる」
「警察もいる」
「つまり、俺たちの仕事じゃない」

 淡々と続けるジャックの言葉に、納得のいかない表情を浮かべながら、リリィは黙る。感情がすべて、顔に出ていた。

「でも」

 小さく呟く。
 オリオンは答えない。ジャックも答えない。

「でも、あのこ」

 リリィは唇を噛む。

「かなしそうだった」

 また沈黙。その中に、カトラリーを動かす音が響く。
 オリオンは、黙ったままマカロニ&チーズを食べた。同じくジャックも食べる。まるで、聞こえてなどいないように。

 だから。
 リリィは少しだけ声を大きくした。

「なんで?」

 初めてだった、こんな風に食い下がるのは。

「なんでたすけちゃだめなの?」

 オリオンが顔を上げると、リリィと視線がぶつかった。
 それは、いつも見ている大きな瞳だった。真っ直ぐで、キラキラしていて、この子の前では、何も誤魔化せないくらいの。

「だって」

 リリィは言う。その声は震えていた。

「わたしだってたすけてもらったのに」

 その瞬間、再び食卓が静まり返った。ジャックの手が止まり、オリオンも言葉を失う。
 二人の様子を気にすることなく、リリィは続ける。

「わたしだって」

 胸元の鍵を握る。

「こわかった。だから」

 顔を上げる。

「こんどは、わたしがだれかをたすけたい」

 その言葉に、誰も何も言えなかった。マーサだけが静かに目を伏せる。そして、小さくため息を吐いた。

「一回くらい、見てやったらどうだい」

 穏やかな声だった。

「見るだけならタダだろう?」
「マーサ、本気か?」

 ジャックが苦笑する。

「あたしが本気じゃなかったこと、あるかい?」

 ジャックは両手を上げ、オリオンは眉をひそめる。

 また、面倒なことになった。

 本気でそう思った。
 だが、二人ともわかっていた。リリィの話を聞いた時点で、もう断れなくなっていたことを。

 翌日の夕方、オリオンは車の中で煙草を弄んでいた。火はつけていない、相変わらず、ただ指先で回しているだけだ。
 隣では、ジャックが窓の外を眺めていた。

「聞いても良いか?」

 ジャックが言う。

「俺たちは何をしてるんだ?」
「見てるだけだ」

 オリオンが答える。

「そうだったな」

 小首を傾げて、諦めたようにジャックは言った。

 見るだけ、調べるだけ、確認するだけ。昨夜はそういう話だった、少なくとも建前では。
 二人の視線の先には、古びたアパートがある。それが、ノアの家だった。

 学校の書類、聞き込み、近所の情報。
 半日も掛からなかった、その程度の調査能力は二人とも持っている。

「当たりか?」

 ジャックが聞く。
 オリオンは答えない、代わりに視線だけを向ける。

 視線の先、アパートの二階、カーテンが閉まった部屋。いかにも怪しい。
 そこから、怒鳴り声が聞こえた、男の声だった、酔っている。

 ついでに、呂律も怪しい。
 しばらくして何かが倒れる音と、何かの割れる音が響く。続いて小さな悲鳴……子供の声だった。
 車内が静まり返り、ジャックの表情から笑みが消える。オリオンも何も言わず、ただその音を聞いていた。
 数秒後また音がする。今度はもっと、鈍い音だった。殴る音、壁にぶつかる音、瓶の割れる音。聞き慣れている人間にしか、わからない音だった。

「……」

 ジャックが、窓の外を見たまま呟く。

「あー……見るだけ? だっけ?」
「そうだ」

 オリオンが答える。

「見るだけだ」

 ジャックは、落ち着きのなさそうに揺れていたが、オリオンの言葉を聞いて黙った。


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