リリィがマーサの手を借りて、学校へ通い始めてから既に、数週間が経っていた。
最初こそ緊張していたリリィだったが、持ち前の明るさと優しさのおかげで、少しずつ学校にも慣れ始めていた。マーサは少し心配していたものの、今では毎朝元気よく登校するよほどだ。
友達もでき、先生にも可愛がられていた。食事も美味しいし、授業も難しいこともあるが面白い、そんな日々が続いていた。
――その日も、いつも通りだった。昼休みになると、教室のあちこちで子供たちが騒ぎ始める。バスケットボールをしに行く子や、教室でお絵描きをする子がいて、静かに本を読む子もいた。
リリィも、友達と話していた。笑い声があちこちから聞こえていて、賑やかな空気が広がっている。
そんな中で、彼女はふと気になった。
教室の隅に目を向けると、一人だけ机に向かって座っている子がいたのだ。
その少女の名はノア。リリィが知る限り、いつも一人でいる子だった。
彼女は休み時間も一人で過ごしていて、昼食の時間も誰とも話さなかった。それは放課後も同じだったが、別にいじめられているわけではない。
ついでに言えば、誰かに嫌われているわけでもなかった。嫌うほどの接触も、ないのかもしれない。でも、どこか壁があるように見えた。近づきにくい雰囲気。そんな子だった。
「ノアー!」
リリィが声を掛ける。何も気にすることなく、他の子へもするように明るく呼びかけた。その声は、教室のざわめきの中でもはっきり響き、ノアはびくりと肩を震わせた。
それだけなのに、リリィにとっては少し気になる反応だった。どこか、驚き方が大きすぎるように感じたのだ。それに、何かを隠しているようにも見えた気がした。
リリィは、さらに声をかける。
「いっしょにあそぼ!」
「……いい」
「なんで?」
「いいから」
断られるのはいつものことらしく、周りの子も特に驚くことも、間に入ることもなく、当たり前のように受け流していた。そんな中、リリィだけが首を傾げた。
「つまんないじゃん」
「へいきよ」
ノアは目を逸らした。これ以上、視線を合わせようとしなかったのだ。何かを避けるように。
その時だった。袖が少しずれるくらいの、ほんのわずかな動き。
手首の辺りに、青黒い痣が見えたのだ。本当に一瞬だった。
「それ」
リリィが言う。思わず口に出していた。
気付いたことを、そのまま本人に伝えただけなのに、ノアが慌てて袖を引っ張り、その痣を隠す。
「なんでもない」
「けがしたの?」
「ちょっところんだだけ!」
即答だった。あまりにも早いと思えるくらいに、迷いが一切なかった。
……まるで、何度も同じことを言ってきたみたいに。
リリィは、初めてノアが声を荒げるところを見た。大きな声を聞いた。語気が強く、少し怖く感じたが、何も言えない。
リリィが黙ると、ノアも黙る。教室だけが騒がしいままだ。それなのに、同じ教室の中なのに、二人の周囲だけ静かだった。
やがてノアが小さく言う。声はかすれていたし、感情を押し殺しているようだった。
「みないで」
その声は怒っているようにも聞こえたし、同時に泣きそうにも聞こえる、不思議な音だった。複雑な感情が混ざっている気がしたが、上手く言葉に出来ないこともあり、リリィはそれ以上聞かなかった。
……聞けなかった、踏み込んではいけない気がしたのだ。
そして、リリィ自身、何かを思い出したようだった。
――そうだ、昔の自分も、同じ顔をしていた気がする。
その日の帰り道、リリィは珍しく静かだった。いつもなら、学校であった出来事を話しながら歩き、給食の話や友達の話、先生の話を思いつくままに語っては、マーサを困らせることも少なくなかったのに。
だが今日は違う。何度もノアの顔が頭に浮かび、痣や怯えた目、そしてあの言葉が離れなかった。
『みないで』
あの声を、家へ着いても忘れられなかった。
夕方になり、食卓にはマーサの作ったマカロニ&チーズを筆頭に、いくつか料理が並んでいる。ジャックは相変わらず大盛りで、オリオンは黙って食べていた。いつもと変わらない光景だったが、それなのにリリィだけが上の空だった。
「どうしたんだい」
マーサが気付き、スプーンを持つ手が止まる。リリィは少し迷い、話していいのかわからなかったが、それでも誰かに聞いてほしかった。
「ねぇ」
小さな声に三人が顔を上げる。
「がっこうのおともだちがね」
その瞬間、オリオンの視線が少しだけ鋭くなり、ジャックも話を聞く姿勢になるが、リリィは気付かない。
「けがをしてたの」
誰も口を挟まない。
「ころんだ、っていってたけど」
少し俯きながら続ける。
「たぶんちがう」
マーサがゆっくりスプーンを置き、オリオンもジャックも何も言わずに聞く。だから、リリィはそのまま続けた。
「こわそうだった」
その言葉だけで十分だった。部屋の空気が少し変わるが、リリィ自身は気付いていない。だが大人たちは知っている、そういう子供の顔を、そういう目を見たことがあった。
「きのせいかもしれないけど」
リリィは小さく言い、無意識に胸元の鍵を握る。
「でも」
少しだけ唇を噛む。
「あのかおは、たすけてほしいときのかおなの」
三人は、ここまで聞いても何も言わない。誰も言わないからこそ、リリィは初めて本音を口にした。
「たすけてあげられないかな」
静かな食卓だったが、その一言はどんな大声よりも重く響いた。
しかし、誰もすぐには答えなかった。
マカロニ&チーズの湯気だけが、食卓にゆっくりと立ち上っている。静かな中で、時計の秒針が大きく聞こえた。
……最初に口を開いたのはオリオンだった。
「無理だ」
即答だった。相変わらず、迷いもない。冷たいほどに。
リリィは顔を上げる。
「なんで?」
「私たちには関係ない」
その言葉にジャックも頷く。
「そうだな、そりゃきっと面倒事だ」
スプーンを口へ運びながら言う。
「先生がいる」
「警察もいる」
「つまり、俺たちの仕事じゃない」
淡々と続けるジャックの言葉に、納得のいかない表情を浮かべながら、リリィは黙る。感情がすべて、顔に出ていた。
「でも」
小さく呟く。
オリオンは答えない。ジャックも答えない。
「でも、あのこ」
リリィは唇を噛む。
「かなしそうだった」
また沈黙。その中に、カトラリーを動かす音が響く。
オリオンは、黙ったままマカロニ&チーズを食べた。同じくジャックも食べる。まるで、聞こえてなどいないように。
だから。
リリィは少しだけ声を大きくした。
「なんで?」
初めてだった、こんな風に食い下がるのは。
「なんでたすけちゃだめなの?」
オリオンが顔を上げると、リリィと視線がぶつかった。
それは、いつも見ている大きな瞳だった。真っ直ぐで、キラキラしていて、この子の前では、何も誤魔化せないくらいの。
「だって」
リリィは言う。その声は震えていた。
「わたしだってたすけてもらったのに」
その瞬間、再び食卓が静まり返った。ジャックの手が止まり、オリオンも言葉を失う。
二人の様子を気にすることなく、リリィは続ける。
「わたしだって」
胸元の鍵を握る。
「こわかった。だから」
顔を上げる。
「こんどは、わたしがだれかをたすけたい」
その言葉に、誰も何も言えなかった。マーサだけが静かに目を伏せる。そして、小さくため息を吐いた。
「一回くらい、見てやったらどうだい」
穏やかな声だった。
「見るだけならタダだろう?」
「マーサ、本気か?」
ジャックが苦笑する。
「あたしが本気じゃなかったこと、あるかい?」
ジャックは両手を上げ、オリオンは眉をひそめる。
また、面倒なことになった。
本気でそう思った。
だが、二人ともわかっていた。リリィの話を聞いた時点で、もう断れなくなっていたことを。
翌日の夕方、オリオンは車の中で煙草を弄んでいた。火はつけていない、相変わらず、ただ指先で回しているだけだ。
隣では、ジャックが窓の外を眺めていた。
「聞いても良いか?」
ジャックが言う。
「俺たちは何をしてるんだ?」
「見てるだけだ」
オリオンが答える。
「そうだったな」
小首を傾げて、諦めたようにジャックは言った。
見るだけ、調べるだけ、確認するだけ。昨夜はそういう話だった、少なくとも建前では。
二人の視線の先には、古びたアパートがある。それが、ノアの家だった。
学校の書類、聞き込み、近所の情報。
半日も掛からなかった、その程度の調査能力は二人とも持っている。
「当たりか?」
ジャックが聞く。
オリオンは答えない、代わりに視線だけを向ける。
視線の先、アパートの二階、カーテンが閉まった部屋。いかにも怪しい。
そこから、怒鳴り声が聞こえた、男の声だった、酔っている。
ついでに、呂律も怪しい。
しばらくして何かが倒れる音と、何かの割れる音が響く。続いて小さな悲鳴……子供の声だった。
車内が静まり返り、ジャックの表情から笑みが消える。オリオンも何も言わず、ただその音を聞いていた。
数秒後また音がする。今度はもっと、鈍い音だった。殴る音、壁にぶつかる音、瓶の割れる音。聞き慣れている人間にしか、わからない音だった。
「……」
ジャックが、窓の外を見たまま呟く。
「あー……見るだけ? だっけ?」
「そうだ」
オリオンが答える。
「見るだけだ」
ジャックは、落ち着きのなさそうに揺れていたが、オリオンの言葉を聞いて黙った。