少女はすぐに手を合わせた。
そして一口食べる。また食べる。ベーコンを頬張り、トーストを齧って、目玉焼きも口に放り込む。
その手は止まらず、本当に美味そうに食べている。
男は困惑した。
どう考えても美味くない。少なくとも、自分なら絶対に食べたくないのに。
だが少女は違った。
皿の上から食べ物が消えていくたびに、なぜか嬉しそうな顔をする。
その様子を見ているうちに、男は気付いてしまう。
少女は料理を喜んでいるのでなければ、朝食を喜んでいるのでもない。誰かが、自分のために作った食事を喜んでいるのだと。
「おいしい!」
満面の笑みだった。想定外の反応に、男は思わず目を逸らす。
予想が外れた。見事なまでに外れた。
これなら嫌になるだろう、離れていくだろう、そう思っていた希望が、少女の笑顔によって粉々に砕かれていく。
絶望に打ちひしがれる男のその横で、少女は幸せそうにトーストを齧っていた。
こうして、少女が最後の一口を飲み込んだころ。ようやく一息ついたその瞬間に、アトリエの奥から重たい足音が聞こえてきた。
それは寝起き特有の、どこか気怠く、やる気の欠片も感じられない足取りで、床を引きずるように近づいてくる。
数秒後、髪をぐしゃぐしゃにした大柄の男が、大きな欠伸を噛み殺しながら姿を現した。
まだ完全には目が覚めていないらしく、焦点の合っていない半分閉じたような目でリビングをぼんやりと見回し、それからゆっくりと、しかし確実にテーブルの上へ視線を止めた。
そこにあったのは、空になった皿と、口の端にパンくずを付け、その手に食べのトーストを持った少女。……そして、無表情で立ち尽くす細身の男。
それらがひとつの光景として並んだ瞬間、状況を理解するまでに数秒も掛からなかった。
いや、むしろ理解したくなかったが、理解してしまった。
「え、あんたが作ったの?」
「違う」
男は即座に答える。考える余地もなく、反射的に。
「このひと!」
少女が元気よく、細身の男を指差す。
その無邪気さが、余計に状況を悪化させた。
「おい」
男の制止は遅かった。
質問の主は、すでに吹き出しそうな顔をしている。
テーブルへ近付き、少女が持っていた、残ったトーストを持ち上げてしばらく観察する。
そして、どうしても言わずにはいられなかったのだろう。
「何これ。靴底?」
細身の男は無言になる。
言い返す言葉がないというより、一言言い返したところで、どうにもならない現実がそこにあった。
少女は笑う。大柄の男は肩を震わせてながら、少女に聞いた。
「いや、お嬢ちゃんこれ、本当に食ったの?」
「おいしかったよ!」
少女は即答した。その迷いのなさが、逆に痛い。
だが、それがまた面白かったらしく、男はとうとう声を上げて笑い始めた。
「あー……優しいなぁ。優しすぎて、俺思わず泣いちゃいそうだよ」
その言葉に、細身の男の眉間へ深い皺が刻まれた。
料理の出来は、ただの偶発事故だ。少女がそれを食べたのは、ただの空腹からだ。
何なら、今すぐ撃ちたい。この男を、撃ち殺してしまいたい。
本気でそう思った。
だが少女がいる。だから我慢する、そうだ、我慢するしかない。無表情のまま、拳を握り締める。
細身の男は今、人生でもかなり上位に入る理不尽を味わっていた。
しかも、自分で招いた結果だという事実が、さらにやってしまった感を強めていた。
それなのに、大柄の男は、そんなことなど気にしないどころか、むしろ余計に調子に乗った。
「よし! 見てろよ」
嫌な予感がする。細身の男は即座にそう思った。
そしてこの類の悪い予感は、これまでの経験上、ほぼ確実に当たる。嬉しくないことに、当たってしまう。
「本物の朝飯、ってやつを見せてやる!」
少女の目が輝く。
期待という名の火に油が注がれる。
「ほんと!?」
「あぁもちろんだ! 見てな!」
大柄の男は胸を張る。だが、その自信に根拠はない。ある訳がない。それでも言い切るあたりが、この男の厄介なところだった。
細身の男は止めようか一瞬だけ迷ったが、結局やめた。おそらく、言っても聞かない。この男はそういう男だと、彼はわかっていた。だから好きにさせる。
……そして、ここで止めなかったことを後で後悔する未来が、うっすらと見えていた。
つまりは、半ば諦めに近い判断だった。
――数分後。
キッチンから、派手な音が聞こえ始めた。何かが落ちる音。ぶつかる音。金属が転がる音。そして何かを炒める音。
そのどれもが、辛うじて料理としての体裁を保つものの、料理というよりは事故現場に近い響きを持っていた。
少女は興味津々でそちらを見ている。
細身の男は見ない。決して見ようとはしない。見たくなかった。見れば、目を逸らしたい現実を直視することになる。
さらに数分後。
嫌な匂いが漂い始める。焦げた匂いだった、しかも、かなり酷い。自分が作った時の比ではなかった。
少女も気付いたらしく、小さく鼻をひくつかせる。
男は額へ手を当てた。予想通りだった。……いや、違う。予想以上だった。
こいつは、大柄の男は、期待を裏切らない男だった。悪い意味で。
やがて、キッチンの向こうから白い煙が立ち上る。これはもう、どうにも隠しようがないレベルだった。
「おい」
相乗以上の事態に、男が声をかける。
その瞬間だった。
甲高い警報音がアトリエ中へ響き渡る。火災報知器だ。煙を感知して、派手な音を鳴らしている。
そのけたたましい音に、少女がびくりと肩を震わせ、細身の男は目を閉じた。
ここまでくると、もう驚きもしない。むしろ「やっぱりか」という諦めが先に来た。
しばらくして、煙の向こうから煙の主が姿を現した。咳き込み、少し煤だらけになりながら。
それでもどこか誇らしげだった。
腹が立つ。その表情が、さらに状況を悪化させる。
「ごほっ、ごほっ……しまった、あー、気にすんな。ちょっと火力が強かっただけだ」
細身の男は無言だった。言葉にする価値すら感じなかった。
それから数秒後。
「帰れ」
低い声でそう言った。
その一言に、これまでのすべての後悔とやってしまった感が詰まっていた。
「いや、ここ俺のアトリエだし。帰ってるし」
「もうお前は家に帰れ、帰ってくれ」
少女は堪えきれず吹き出した。
火災報知器がようやく止まり、アトリエの中から煙がゆっくりと薄れていくころには、騒ぎの余韻だけが空気に残り、そこにいた全員がどっと疲れを感じていた。
焦げた匂いと、まだ微かに漂う熱気が、つい先ほどまでの混乱を物語っている。
正確には、一人だけ元気だった。
少女である。
先ほどまで声を上げて笑っていたせいか機嫌も良く、ソファへ座ったまま足をぶらぶらと揺らし、まるで何事もなかったかのように周囲を見回している。その無邪気さは、この場の空気とはあまりにも対照的だった。
反対に、細身の男は疲労の塊のような顔をしていた。
朝から料理を作り、馬鹿にされ、さらに危うく火事に巻き込まれるところだったのだ。しかもその原因となったのは、今このアトリエの持ち主であり、殺害するターゲットの被った、知りもしない赤の他人の大柄の男である。
疲れないほうがおかしい。
もう一人の男はというと、そんな惨状を引き起こしたにも関わらず、その表情は妙に満足そうで、煙の消えかけた天井を見上げながら、どこか達成感すら漂わせていた。
残念ながら、反省、という言葉を知らないのかもしれない。
……いや、これは多分本当に知らない。絶対に知らない。そうに決まっている。でなければ、あんな表情はできない。
細身の男はそう結論付け、何度目かの深い溜め息を吐いた。