第31話:私を愛した恋人(完)

夕闇にて君を待つ

 動けなくなっても、彼はまだ、逃れようとしていた。どんなに逃れようとしたって、ここまで来たら、後はもう悪い方向へしか行けない。
 諦めたほうが良いはずだ、今この場にとっても、将来的にも。
「ほっ、ほら、ほら! 包丁! 俺、持って帰っちゃったから! 代わり、代わりに! これ! な、な?」
 何を言っているのか、まったくわからない。私は大地に、包丁なぞ貸していない。

「あー、へぇー。それって、自白?」
「自白? 自白ってなんだよ!」
 警官に言われ、また突っかかる。
「殺害に使った包丁だよ。キッチンにあった包丁、使ったんでしょ? その代わりに、元に戻そうと買ってきたんでしょ?」
「殺害……?」
 そう言うと、大地はおとなしくなった。
「え? やだなぁ、あははははっ!」
 今度は突然、笑い始めた。誰もが困惑しているようで、お互いに顔を見合わせている。
「俺は殺してない! 紗季を殺してない! だって、今目の前にいるじゃないか! なぁ紗季!」

 反射的に、私は八代さんの後ろへ身を隠した。
 声がおかしい。
 ちらり、と、影から大地を見る。
 口元は笑っているのに、目は笑っていなかった。
「うん、ちょっと、落ち着こうか」
 私は八代さんに賛成だ。大地は今、とても冷静であるとは言えない。冷静でいなければ、何が正しくて何が間違っているのか、きちんと理解はできない。

「紗季は生きてる! だから俺は、何も悪くない! 誰も殺してない!」
「高峯さんはこちらへ」
「紗季!」
「はいはい、君はこっちね」
「紗季! 紗季!」

 大地の声が、耳の奥へ響く。私は、八代さんに促されて、一度リビングから出ることになった。大地は、警察に囲まれて、リビングにいる。ドアの前にも警官が立ってくれていて、ドアは閉められた。中の様子は見られないが、声は聞こえてくる。
「あのね、今、容疑がかかってるの、あなた、幸村大地さんにね」
「……」
「昨日、この家で、殺人事件があってね。その、殺害容疑ね。あなたは、第一容疑者なの」
「……紗季は、死んでないだろ? だから俺は、殺人犯でも何でもないんだよ!」

 大きな声で、そう話している。そうだ、私は死んでいない。私、は、死んでいない。大地は何も、気付いていないのだ。
「殺されたのはね、高峯紗季さんじゃないのよ」
「は――?」
 低く、唸るような声。今まで、大地のこんな声は、聞いたことがなかった。

「だから、この部屋で亡くなったのは、高峯さんじゃないの。別の、女性なの」
「そ、そんなわけ……。だ、だって、だって俺は、確かに、確かに紗季を……」
「高峯さんにね、そっくりだったよ。背格好も、メイクも。服装は同じで、香水も一緒だった。彼氏であるあなたが、見間違えるくらいなんだから。ほぼほぼ同じだったんだろうね」
「まさか……」
「あなた、ストーカーの話、高峯さんから聞いたことある? あるよね? その相手だよ。高峯さんをね、ずっと模倣してたの」
 沈黙が流れる。大地の声が聞こえない。

「だから、間違えて刺したんだよ、あなた。高峯さんと。とんでもない話だけどね。暗くて、よく見えなかったんじゃない? 何で断定したのかはわからないけど、本当に、酷い話だよ」
「間違えて……刺した……?」
「そう。言う通り、高峯さんは死んじゃいない。今ここにいる。でもね、間違いなく、あなたは殺人を犯してるの。人を、殺してるの」
 また、大地の声が聞こえなくなってしまった。
 この沈黙が、無性に怖く感じる。

「……紗季と、紗季と話をさせてくれ」
「それはできないよ。だって、あなた、元々彼女を殺すつもりだったんでしょ? それに、今日だって凶器を持ってきてる」
「違う!」
「よく違うだなんて言えるね」
 掠れているが、まだはっきりと聞こえる、大地の声。
「あのね、被害者の状態、ちゃんと見た?」
「死んでないだろ! だから、被害者じゃない! 見る必要もない!」
「うーん」
 刑事さんは、呆れたような声を出した。

「刺し傷がね。いっぱいあったの。何十か所も」
「だからなんだよ!」
 大地が食って掛かっている。穏やかに話す刑事さんとは、対照的だった。
「高峯さんのいる場で、あまり言いたくないけどさ。致命傷の後も、被害者は刺されてるの」
「俺は殺してない!」
「めった刺しってやつよ。わかる?」
「ケンカしただけなんだ!」

 私は、刑事さんの言いたいことが、わかってしまった。
 それだけの刺し傷で「殺意がなかった」わけ、ないじゃないか。
 殺すつもりで、刺しているじゃないか。
「はぁ」
 また、刑事さんが溜め息を吐いた。

「だいたい、何で手に包丁持ってきたのよ」
 それはそうだ。
 むき出しで包丁を持ってくるなんて「今から私は、何かしでかすつもりです」と、言っているようなものだ。
「それは! そのまま置いてあったから」
 声が、急に小さくなった。
「どこにあったの?」
 刑事さんの声は、相変わらず優しい。

「その、りんごの、隣に」
「りんごの隣? じゃあ、キッチンだね」
「それがどうしたんだよ!」
 今度は、怒鳴るような声に変わる。情緒不安定だ。
 身体が震えた。流石に、少し距離があるとはいえ、怖い。
「今、ないのよね。そこに、包丁。どうして、包丁があること、知ってたの?」

「違うんだ! 紗季なら、紗季ならわかってくれる……!」
 よくわからない主張に、私は身構えた。
 だって私は、理解してしまったんだ。
 大地が理解していなくても、関係ない。
 私は、理解した。
 何を話すつもりなのか、気になる部分はある。正直、聞いてみたい。だがそれは、ただの私の興味であって、捜査の邪魔になってはいけないのだ。
「どうする?」

 声をかけてくれたのは、八代さんだった。
 これはきっと、イレギュラーだと思う。
「二人きりにはできないけど、そこで話すぶんには構わないですよ」
 指をさしたのは、リビングだった。周りは警察だらけ。
「紗季、こっちに来て」
 それでも構わないらしく、大地は私を呼んだ。

「なぁ、紗季、俺たち、ちょっとケンカしただけだよな?」
 いつもの大地とは、雰囲気が違った。
「ケ、ケンカって……昨日のお昼のこと言ってる?」
「そうだよ! ちょっと言い争いになっただけだろ? お前だって、俺と仲直りするつもりだっただろ?」
 有無を言わせない言い方。でも今日は、いつもほどの圧がない。
「それは……」

 それでも、言い淀む。私は由那と話して、別れてもいいと思っていた。今日のメッセージのことならば、あれは八代さんと話し合って決めた内容だ、私個人の意見ではない。
「だから、ほら! 俺、こうして香水も買ってきてやったんだよ!」
「ねぇ、大地、私の好きなもの、覚えてる?」
「え?」

 一度、聞いてみたかった。もっと早く、聞くべきだったのかもしれない。案の定、大地は黙ってしまった。
「大地はさ、いつも「してやった」とか「お前のため」とか言うけど、それ、本当に私のためだったことある?」
「なっ、何言ってんだよ! 当たり前だろ?」
 声が震えている。

「大地はさ、全部自己完結してるんだよ。私のことも、他人のことも、自分のいいように捉えて、型にはめてるの」
「は? 俺はいつも、お前のためを思って」
「それだよ。まだわからないの? そのせいで、人が死んじゃったんだよ?」
 私はムキになって、大地に強く言った。しかし、大地の顔が、みるみる般若のように変わっていく。

「あのな、俺がストーカー殺してやったんだぞ? 感謝されても、文句を言われる筋合いはないね」
「……ストーカーだって、気付かなかったくせに。私だと思ってたくせに!」
「はいはい、自供、ありがとね」
「自供? 違う! こいつが俺に命令したんだ! だから、悪いのはこいつだ!」
「えっ」
 予想外の言葉に、喉の奥の奥から、声が漏れた。

 言い訳の次は、責任転嫁だった。
 もしかして。この人がストーカーと私を間違えて認識したように、私も、大地とこの人を間違えて認識しているのだろうか。見た目は大地だ。声も、仕草も。でも、私の知っている大地とは、存在から違って見えた。
 私の彼氏は、幸村大地は、どこへ消えてしまったのだろう。
「うんうん、高峯さんも、混乱してるからね。一度、警察署でお話ししましょう」
「嫌だ! なぁ紗季! 俺、殺してないよな? な?」
 やんわりとした刑事さんの言葉を、大地が無理やり破る。目は血走って、口の端に泡が付いている。私が彼を避けるには、十分な理由だった。

「ほら、機嫌直せよ! 香水、買ってやったんだから。あれは捨てろよ。あんなのつけるお前は、お前じゃないんだ、わかるだろ?」
「幸村さん、行きましょう」
「だから! あれは! 紗季じゃない! 紗季はここにいる! だから、俺は誰も殺してない! 愛してる、紗季、愛してる! お前も、俺のこと愛してるだろ? だから、だからこの警官を、止めてくれよ!」

 ――もう無理だ。私はそう思った。言っていることが、段々破綻していく。すべて、自分の都合のいいように、塗り替えられていく。
「早く、早く! 俺が捕まったら、困るのはお前だろ? 俺がいなくなってもいいのか? よくないよな?」
「ほら、いくぞ!」
「紗季、紗季!」
 両脇で、大地を支える二人の警官を、彼は振り払おうと必死だった。そんなこと、できるわけないのに。
「私たちは、もう少し後で出ましょうか。一緒は、よくないと思いますので」
 八代さんの言葉に、私は意識を取り戻す。
 ぼんやりと、暴れては項垂れるを繰り返す大地を見ていた。

 彼らに続いて、私と八代さんも、外に出た。
 辺りは、闇に染まっている。
 知らないうちに、パトカーが赤く光り、いつの間にか、昨日と同じように野次馬が増えていた。

「紗季!」
 大地が振り返る。

 私は目を合わせないように、咄嗟に下を向いた。

「下に着いて、パトカーに乗ったのを確認してから降りましょう」
「そうですね……」
 私は、家の前で、大地がパトカーに乗るのを待った。

「そろそろですね」
 八代さんがそう言ったとき、不意に大地がこちらを向いた。
 そのまま、頭を抑えられ、パトカーに乗せられる。
 ……今度はちゃんと、視線を外さずに見送る。

 こうして。

 私を愛した恋人は、私を殺した犯人は――警察とともに、夕闇の中へ溶けていった。


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