第18話:好きな香り

夕闇にて君を待つ

 アトマイザーがお皿にぶつかったとき、私は思わず手を引っ込めた。ジンジンとした痛みが、後からやってくる。アトマイザーは、そのままテーブルの上をコロコロと転がっていった。
 何を言って良いのか、どう動けばいいのか、全然わからない。そんな状況の中、先に口を開いたのは大地だった。

「あ、いや、その」
 ……呆れた。「大丈夫?」でも「ごめん」でもない言葉に、私は一瞬で頭に血が上ったとわかった。これはもう無理だ。
「はあぁ? 最っ低! 私もう帰る!」
 私はアトマイザーを拾って、ティッシュで全体を拭いた。怒りと悲しみで手が震えて、上手くバッグにしまえない。
 私は悲しくて悔しくて、勢いよく店を飛び出した。

 ポロポロと溢れる涙を、両手で必死に拭う。鼻を啜りながら、バッグの中からハンドタオルを取り出して顔を覆う。泣きながら歩くなんて、恥ずかしくて顔を見せられない。
「うう……」
 でも、大地はいないから、車では帰れない。駅までとぼとぼと歩きながら、私はせめてメイクをし直そうと、近くにあったデパートへ入った。

「はぁ……」
 休日だからか、トイレも混んでいた。少し薄いメイクが好みの大地。彼の好みに合わせて、今日は目元はアイシャドウだけだ。それがよかった。
 きれいに拭き取ってメイクをし直す。手持ちの道具は少ない。サッと泣いた跡を隠せれば、それで構わなかった。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう……」
 私は溜め息を吐いた。良かれと思ってしたことが、どうしても裏目に出てしまう。

「この香水、ダメだったの……?」
 大地には悪いが、覚えてなかった。彼の好みの香水は覚えているが、苦手な香水は覚えていない。好きなものだけつければいい、最初はそう思っていたから。
 これは、私の好きな匂い。ずっと、彼好みの香水を使っていたから、たまには自分の好きな匂いをと思って買った。店員さんにお勧めされたのは本当だ。女性に人気で、男性用もあるから、お揃いでつけるカップルも中にはいるんだとか。

「私も、それやりたかったなぁ……」
 一緒につけられたらいいなと思っていた。大地は私が普段よりも大きなバッグを持っていることに、まったく気付いてなかった。この中には、大地のために買った男性用の香水が入っている。プレゼント用のラッピングに、ロゴ入りの小さな紙袋。お店で渡すはずだった。
「何だ。渡さなくて、よかったのかもね」
 香水のニオイで、あれだけ怒ったのだ。もし、の香水を渡していたら、いったい私はどうなっていたのだろう。
「あはは、殴られてたりして」
 嫌な想像をして、自虐的に笑う。出も正直、あの剣幕ならやりかねない。
「……帰ろ」
 メイク直しは終わった。もう用はない。私は足早に、デパートを後にした。

 家に着いたら、どっと疲れが押し寄せてきた。本当に今日は疲れた。
「あーあ。勿体無い。せっかくの、デートだったのに」
 久し振りに会えたのに、まさかケンカ別れするなんて。勢いでお店を出てしまったが、あのまま残っていたとしても、きっといい結果にはならなかった。自分にそう言い聞かせる。今の状況が最善だった。

 ベッドサイドに置いた、香水の瓶。見た目も可愛くて癒される。それをテーブルまで運んで、大地に買ったプレゼントと一緒に並べて置いた。
「お揃いって、難しいね」
 男性向けも、女性向けとそこまで香りは変わらないと思う。匂いを嗅がせてもらったが、少し爽やかさのあるほうが男性用だ。

「これでもダメなのかなぁ」
 まったく同じではない。だが、バニラの香りには変わりなかった。あれだけ怒られた後に、これはもう渡すことはできない。わざわざ怒られるために渡すこともない。
「いい匂いなのに」
 これでも、カフェだったから控えめにつけた。今は家の中だから遠慮なくつける。
 シュッ、とひと吹き。
「あぁ、やっぱり好きだな」
 大地の好きな匂いも、悪くはない。けれど、やっぱり。自分の一番好きな匂いが、最も落ち着くのだ。

 それに、大地だって忘れてイる。
 大柄のロングスカートが好きなのは、私ではなく大地のほうだ。
 今日の格好だって、大地に合わせたのに。
 一言目で「ほんと、お前そういう服好きだよな。たまには、違うデザインにすりゃいいのに」と言われた。
「着られるなら、私だって着たいのに」

 ちゃんと付き合ってから初めてのデート、服装もダメ出しされた。「男に会う服じゃない」とか「全然俺の好みじゃない」とか。だから、向こうに合わせるようにしたのに。
 デートのときは彼の言う「男に会うための」「大地の好みの」服を、選ぶようにしたのだ。
「自分だって、忘れてるくせに」
 大地は自分にとって、都合のいいことしか覚えていない。今日それを、まざまざと見せつけられた気がしている。

 スマホを充電しつつ部屋着に着替える。本当は、大地と夜まで一緒にいる予定だった。その後は、うちか大地の家に、行ったかもしれない。でも、その予定はもう消えた。
「疲れたー!」
 ソファの背もたれに、身体を委ねた。ぐぐっと背伸びをして、はぁ、と大きな溜め息を吐く。やっと自分になれる、そんな気がした。
 ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
 ――ヴーヴヴ、ヴーヴヴ。
 スマホが鳴る。
「え、もしかして大地?」
 私は、急いでスマホを見た。
「『俺が悪かった』とか?」
 ちょっとだけ期待する。大地は素直に謝らない。自分が悪くても「でも」「だって」と、なんやかんや言い訳をするのだ。それが私は嫌だった。
 「俺は悪くないのに」が、全身に滲み出ている。
「あー、なんだ」
 期待したぶん、落胆が大きい。大地じゃなかった。……わかっていた。彼が自ら、謝るわけないのだ。きっと今も、私が『ごめんね』『私が悪かったの』『許してくれる?』と言うことを、期待して待っているに違いない。

『ねぇ、紗希今日暇?』
「えぇ、暇になりましたよ、と」
 友人の由那だ。連絡は久し振りかもしれない。
「どうしたんだろう?」
 彼女は大学から一緒で、今でもたまに飲みに行く仲だ。
 ヴヴヴヴ――ヴヴヴヴ――ヴヴヴヴ――ヴヴヴヴ――
「え、あ、電話?」
 電話が鳴った。由那からだ。急ぎの用でもあったのだろうか。
「――もしもし?」
『あ、もしもし? 紗希?』
「うん、久し振りだね!」
『ね、久し振りー!』
 明るい声。由那の声は、いつも私に、元気をくれる。
「どうかした?」
『あ、あのね、実は私、彼氏と別れてさ』
「え、そうなの?」
『うん。しかも、ついさっき』
「え、さっき?」
 驚いた。由那と彼氏は、誰が見ても仲良しすぎるくらいで、何年付き合っても、ケンカなんて聞いたことなかったのに。それが急に「別れた」だなんて。
『やっぱ、結婚についてはちゃんと決めないとダメなんだね』
「それ関係で、別れちゃったの?」
『うん』
 短く返事した由那の声は、少しトーンが下がっていた。
「そっか。大変だったね」
『ありがと。……それでさ、もし、今日暇だったら、ちょっと話聞いてもらいたいな……って思って』
「え、全然聞くよ! 今から? ちょっと準備する時間、もらってもいい?」
『待つ待つ! 迎えに行くよ!』
 ぱあぁ、と、由那の声が、一気に明るくなった気がした。
「ありがとね! 準備終わったら、連絡するから。えっと、三十分くらいかな?」
『了解! それくらいに着くように向かうけど、急がなくていいからね、私待ってるから』
「うん、わかった」
『じゃあ、また後でね』
「はぁい、後でね」

 電話を切る。思わぬ予定が入った。一人で過ごさなくても良いのは、今の精神面嬉しいことだった。
「……私、今日大地とケンカしたけど、悪いことばかりじゃないじゃん」


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