オリオンは、再び視線を前へ向けた。逃げ場のない直線。進むしかない道。
「だが今回は別だ」
たったそれだけだった。
それだけなのに、その一言の中に詰め込まれたものは重く、濃く、息苦しいほどだった。
あの男を丁重にお出迎えして、それからアトリエへ向かう。おの男の家は、アトリエまでの延長線上にあった。
それまでの時間が、やけに長く感じられる。いや、その実は、短すぎるのかもしれない。
――そしてそのころ。
ノアの父親は、何も知らずに今日も酒を飲んでいた。
笑い、愚痴をこぼし、何もかもを当然のように消費しながら。
自分の人生が残りわずかだということを。その終わりが、もうすぐそこまで来ているということを。
可愛そうなくらいに、何も知らずに。
そうして、何度目かの酒瓶を煽った時。
男の世界が暗転する。
視界が黒に塗り潰され、音も感覚もすべてが遠のいていく中で、男の意識は、底の見えない深い水の中へ沈んでいくように途切れていった。
次に男が目を覚ました時、何が起こったのか一切理解できなかった。
閉じたまぶたの裏にじわりと光が滲み、顔をしかめながら、重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、そこには見覚えのない天井がぼんやりと浮かび上がっていた。
知らない場所だった。
冷たい。
肌に触れる空気がひどく冷え切っていて、まるで体温を奪うようにじわじわと侵食してくる。
静かだ。
耳を澄ませても、外の音も人の気配も感じられず、ただ自分の荒い呼吸だけがやけに大きく響いていた。
どこか薬品の匂いがする。
鼻の奥を刺すような消毒液の匂いが漂い、ここが普通の場所ではないことを嫌でも理解させる。
目の前は薄暗く、天井だけが白く浮かんでいる。
蛍光灯の光が弱々しく揺れ、壁や床は影に沈み、空間全体がどこか現実感を欠いていた。
手を動かそうとして、指先に力を込めるが、思うように動かない。男は、身体が動かないことに気付く。足も。腕も。
硬い何かに押さえつけられているように、完全に固定されていた。
革のベルトのようなものが、腕や足に食い込んで、わずかに動かすだけでも、痛く擦れる感触が伝わってくる。
「……っ!」
そこで初めて、恐怖が込み上がった。
胸の奥から冷たいものがせり上がり、心臓が激しく打ち始める。頭が痛い、気持ちが悪い。
そして、暴れようとする。
拘束を振りほどこうと、思い切り全身に力を込めるが、びくともしない。
次に、叫ぼうとする。
喉を震わせ、声を出そうとするが、乾いた息が漏れるだけで言葉にならない。声が上手く出ない。喉が焼けるように乾き、舌が張り付いているようだった。
その時、足音が聞こえた。
ゆっくりと、一定の速度で。
硬い床を踏みしめる規則正しい音が、静寂の中にくっきりと響く。
男の元に、近付いてくる。
逃げ場のない状況で、その音だけが確実に距離を詰めてくるのが分かる。
そして――
「おはよう」
ジャックだった。彼は、白い作業着を着ていた。
袖口や胸元には、わずかに絵の具のような色が付着しており、まるで、作業の途中であるかのような雰囲気を纏っている。
手には絵筆。
細く長いそれを軽く指で回しながら、まるでこれからキャンバスに向かう画家のような自然な仕草だった。
彼は、穏やかな笑顔だった。
その表情はあまりにも柔らかく、ここが異常な場所であることとの落差が、かえって不気味さを際立たせていた。
男の顔から、血の気が引いていく。
唇が震え、目が見開かれ、恐怖がそのまま表情に浮かび上がる。
「な、何だよ……」
「うん」
ジャックは頷く。
軽く首を傾げ、少しだけ視線を上に向け、考えた。そして、言葉を選ぶように、ほんのわずかに眉を寄せる。
「なぁこれ、説明難しいな」
本当に困った顔だった。
だがその困惑は、どこか他人事のようで、深刻さがまるで感じられない。
「俺、普段は仕事で人を殺すんだ」
男は理解できない。
理解したくもない。
耳に入ってきた言葉を拒絶するように、頭の中が真っ白になる。
「でも今回は違う」
ジャックは言う。
その声は、不思議なほど穏やかだった。近所の人と、まるで世間話でもしているかのような軽さで。
「仕事じゃないんだ。それに、趣味でもない」
空気が一瞬止まったように感じられる。
「だから多分」
少しだけ笑う。
口元だけがわずかに歪み、その笑みには温度がなかった。
「ボランティアだ」
男の喉が鳴る。恐怖だった、純粋な。
どうしようもない。
逃げ場も、理解も、抵抗も許されない状況に、ただただ押し潰されるような恐怖。
その様子を見ながら、ジャックは壁へ掛けられた一枚の絵に目をやる。
子供が描いたような太陽。
家。花。そして、四人の人間。
色ははみ出し、線は歪んでいるが、そこには確かな温もりがあった。
これは、リリィが描いた絵だった。リリィが描いた、自分含む四人の絵。
ジャックは数秒それを見つめる。視線がわずかに柔らぎ、呼吸がほんの少しだけ深くなった。
それから、静かに男へ視線を戻した。その時にはもう、貼り付くような笑顔は消えていた。目の奥に宿る光が変わり、先ほどまでの穏やかさは跡形もなく消え去っている。
「俺、気付いちゃってさ」
一人頷く。
「子供を大事にしないヤツが、大っ嫌いなんだって」
……その言葉が、今までで一番、冷たかった。
自分を助ける人間は、ここには一人もいないのだと男は理解し、その瞬間に地下室へ響いた叫び声は最初こそ大きかったもののやがて掠れ、最後には完全に途絶える。
閉ざされたままの扉の向こうで、ジャックの望む時間だけが、ただ静かに過ぎていった。
オリオンは一人外に出て、ジャックの作業が終わるのを待っていた。あの場に残るのは野暮だ、そう考えたからだ。
しばらくして地下への扉が開き、作業着の上から新しい上着を羽織ったジャックが出てきたが、その顔は妙なほど穏やかだった。
「終わったか」
「ああ」
交わしたのはたったそれだけで、作品の話もしなければ内容も聞かず、オリオンはジャックを迎えた。
「後は私がやる」
オリオンが言うと、ジャックは珍しく素直に頷き、普段なら何か軽口を一言返してくるはずなのに、今日は違って静かだった。
二人は並んで歩き、まだ深い夜の中で帰れば、リリィが眠っていてマーサも待っているだろうとわかっていた。
「なあ」
不意にジャックが言った。
「何だ」
「笑えるようになるかな」
誰のことを指しているのかは、名前を出さずとも明白だった。
ジャックは前を、向いたまま続ける。
「わかんねぇな」
珍しく弱気だった。
オリオンは少しだけ考える。考えて結局「さぁ」とだけ言った。
想定内の言葉に、ジャックが思わず苦笑する。
「だよな」
二人ともわかっていた。
あの親を消したところで、今まで負ったノアの傷が消えるわけではなく、さらには、怖かった記憶も痛かった記憶もなくならない。が、それでも少なくとも、今夜で終わるものもある、それだけだった。
夜風が吹き抜け、二人は何も言わず車へ乗り込んだ。
――翌週、学校はいつも通りで、先生がいて子供たちがいて、チャイムが鳴り、世界は何事もなかったように回り続けていた。
リリィは少しだけ落ち着かず、朝から何度も、まだ誰も座っていないノアの席を見ていた。そして教室の扉が開き、ノアが入ってきた。その姿はやはりいつも通りで、俯き気味で静かで、相変わらず誰とも話そうとしない。それを見てリリィは少しだけ肩を落とし、変わっていないと思った。
だが昼休み、リリィが席を立った時だった。
「……リリィ」
声がして、振り返るとノアだった。リリィは目を丸くする。向こうから話しかけてきたのは、今回が初めてだった。
「なに?」
ノアは少し迷い、それから小さな紙を差し出した。
「これ」
折り畳まれた紙をリリィが開くと、中には拙い字で短く書かれていた。
『ありがとう』
たったそれだけだった。本当にそれだけで、理由も説明も何もない。だが、リリィには十分だった。
顔を上げると、ノアは相変わらず俯いているが、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。笑顔と呼ぶには小さすぎるが、確かに前より柔らかかった。リリィは紙を握り締め、胸の奥が少し温かくなる気がしていた。
放課後、家へ帰る道で隣にはマーサがいた。リリィはずっと紙を持ったままだった。
「ねぇ」
小さく呟くとマーサが、振り向いた。
「何だい?」
リリィは少し考え、それから遠くを見ながら言った。
「わらえるようになったのかな」
木の葉が舞い、マーサは少しだけ目を細めて優しく笑った。
「笑えるさ」
それは、とてもとても静かで、慈悲深い声だった。
「子供は大人が思うよりも、案外強いからね」
リリィは黙ってしばらく歩き、それから小さく頷いた。その手の中では、一枚の紙が風に揺れていた。