第22話:泣いている子ども

We Killed Our Sweetheart

 アパートの中から、再び怒鳴り声が聞こえる。ガラス越しなのに、酷く耳障りだった。その声に混じって泣き声も聞こえる。子供の、必死に堪えるも堪え切れなかった泣き声。
 ジャックは目を閉じた、そしてゆっくり息を吐く。

「リリィ」

 ぽつりと名前が零れる。
 オリオンは何も言わない、だが、同じことを考えていた。

 あの日、不衛生な部屋の中で、一人親の帰りを待っていた少女。その状況でも、助けを呼ぶことすらできなかった子供。
 その姿と、目の前の光景が重なる。

「見るだけだ」

 もう一度オリオンが言う。まるで、自分に言い聞かせるように。
 ジャックは笑った、乾いた笑いだった。

「うん。そうだ。そりゃ無理だ」

 その言葉を、オリオンは否定できなかった。
 なぜなら、二人とももうわかっていたからだ――この家の結末を。

 その結末を見届けるために、その日の夜、二人はそれぞれの役割を胸に抱えながら、静かに動き出していた。
 オリオンは薄暗い住宅街を歩き、街灯の下で影を伸ばしながら近所を回り、ジャックは人気のない学校周辺を巡りながら、昼間とは違う静けさに耳を澄ませていた。
 それは決して難しい話ではなく、子供の悲鳴というものは、思っている以上に空気に滲み出てしまい、どれだけ隠そうとしても完全には消えないものだった。
 誰かが聞いている。誰かが知っている。ただ、その一歩を踏み込む勇気を、理由があって持たないだけだった。

 ……最初に口を開いたのはアパートの隣人で、年配の女性は玄関先に立ちながら疲れた顔をしており、長年積み重ねてきた諦めがその表情に滲んでいた。

「またですね」

 そう言って苦笑したその様子は、まるで天気の話でもするかのように軽く、しかし、その奥には重たい現実が沈んでいた。

「もちろん、通報もしましたよ」

 女性は、声を揺らしながら言う。

「何度も、何度も」

 オリオンは何も言わず、ただ静かに頷きながら、女性のその言葉を受け止めていた。

「でも駄目でした」

 その声には諦めが混じり、長い時間をかけて削られてきた、希望の残骸が感じられた。

「普段はあんなでも、警察が来るとおとなしくなるんです」
「それで終わり」
「子供も、よせばいいのに庇っちゃって」
「あんなのでも、子供にとっては親なのね」
「親だって、必死に見せるのが上手なの」

 女性は肩を竦め、乾いた笑みを浮かべている。

「おかげさまで、次の日には元通りですよ」

 静かな夜の空気がその言葉を包み込み、遠くで犬が鳴く声がやけに寂しく響いていた。

 ――一方で、ジャックも別の場所に立ち、校舎の影に寄り添うようにして話を聞いている。その相手は、疲れ切った顔をした女性教師だった。
 最初は警戒していたが、それは当然の反応であり、見知らぬ男に簡単に心を開く理由などなかった。
 だがノアの名前が出た瞬間、その表情はわずかに揺れ、押し殺していた感情が浮かび上がる。

「知っています」

 教師は震えた声で言う。

「学校でも問題になっています」
「相談は?」
「しています」

 ジャックの問いに答えるその声は、よくできた強いものだった。しかし、どこか諦めが漂っている。

「児童相談所も動いています」
「ですが」

 そこで言葉が止まり、教師は視線を落としながら唇を噛み締める。
 ジャックは何も言わず、その続きを待った。
 教師は拳を握りしめ、震える指先を隠そうともせずに、言葉を絞り出す。

「証拠が足りないんです」

 その声には悔しさが滲み、自分だけではどうにもならない、現実への怒りが混ざっていた。

「本人が話さない」
「親は否定する」
「家へ行けば普通の家庭を演じる」
「むしろ、私たちがおかしいと」
「学校が悪いと」

 沈黙が落ち、教師は目を伏せたまま動かない。

「私たちも、無力じゃあないんです」

 その言葉は、決してその場しのぎの言い訳などではなく、必死に抗っている者の本音だった。
 だからこそ、ジャックは余計に不憫だと感じていた。

「……わかってますよ、もちろん」

 ジャックはそう答え、その声には珍しく柔らかな響きがあった。
 本当にそう思っていた。

 深夜になり、二人は再び落ち合うと、人気のない駐車場に立っていた。
 街灯の白い光がアスファルトを照らし、冷たい空気が足元から這い上がってくる。

「どうだった」

 ジャックが低く聞く。
 オリオンはまずタバコを取り出し、火をつけずにゆっくりと指で弄ぶと、満足したのか指の動きを止めた。

「駄目だな」

 短い答えだった。ジャックも小さく頷く。

「こっちもだ」

 それだけで十分だった。二人とも、同じ結論に辿り着いていることを、よくよく理解していた。

 しばらく誰も喋らず、街灯が微かに唸る音だけが耳に残る。
 やがて、オリオンはタバコをしまい込み、まだ指にふわりと残る葉の匂いを噛み締めながら、一言呟く。

「やるか」

 短い言葉だったが、その重さは空気を変えるには十分だった。
 その言葉を聞いて、ジャックは笑わなかった。これは冗談でもなければ、仕事の話でもない。だからこそ、その一言は彼の胸に重く沈んだ。

「もちろん」

 ジャックが答える。その声もまた静かだった。
 これが依頼なら、もっと気楽で、もっと簡単に割り切れたはずだった。だが今回は違う。

 初めてだった。
 二人が誰かのために、人を殺めようとしていたのは。

 ――彼らの乗る車は、夜の街を抜けていく。
 ネオンが滲み、アスファルトに溶けた光が流れ、まるで何かを隠すように、何もかもを覆い隠すように、静かに、しかし確実に夜は深まっていく。

 その先にあるのは、ジャックのアトリエ。
 そして、その地下には誰にも見せられない――見せてはいけない、見た者の呼吸を奪い心を壊し、存在そのものを否定するような――保管室がある。
 作品は地上で作る。展示は地下でする。保管も地下にする。自分だけが楽しむために、己の芸術のために。

 そんな地下があることを、オリオンはジャックから聞いていた。だから知っていた。実際に見もした。
 自分の拘りと、おそらくさほど変わらない。それが、オリオンの意見であり、感想だった。

 あの、リリィの家に来た男。あれは、運が良かった。
 ジャックは、あれをわざと逃がした。オリオンも見逃した。たとえ逃げだしたところで、その末路がもうわかっていたからだ。

 案の定、額に一発、銃弾を食らって捨てられていた。

 ……普段なら、止めていたかもしれない。
 いや、止めていた。必ず。どんな理由があろうと、どれほどの正当性を並べられようと、オリオンは必ず口を開いていただろう。

 やり過ぎだ。趣味が悪い。時間の無駄だ。
 そう言って、冷たく切り捨てていたはずだった。

 だが今日は違った。違いすぎた。
 言葉が喉に引っかかり、吐き出すことすらできないほどに、胸の奥で何かが膨れ上がっていた。
 だから、オリオンは何も言わない。いや、正確には言えなかった。

 車窓の向こうを流れていく夜景を眺めながら、その視線はどこにも焦点を結ばず、ただ虚ろに、しかし確実に何かを見ていた。

 頭の中には別の光景が浮かんでいた。
 消えない、消えてくれない、ノアの泣き声。耳にこびりついて離れない、あの細く震えた声。
 それが、あの日のリリィと重なって見えた。
 何度も何度も重なり、重なり、重なり、まるで脳の奥を削るように繰り返される。

 消えない。消えない。消えない。

 今までだったら、まったく気にもならなかったのに。視界の端にも、残らなかったのに。変わってしまった。

「珍しいな」

 ジャックが運転しながら、軽く笑って言う。
 その声音はいつも通りで、何も変わらないように聞こえるのに、その軽さが逆に、今のオリオンの内側を逆撫でする。

「何がだ」
「止めない」

 オリオンは、窓の外を見たまま答えない。

 答えられない。
 言葉にすれば、何かが決壊してしまいそうだった。
 そんなオリオンを尻目に、ジャックは続ける。

「いつもなら、説教のひとつくらいあるだろ? 『趣味がー』とか『時間がー』とか」
「ない」
「ないの?」
「ない」
「へぇ」

 赤信号。車が止まる。
 怖いくらいに、静かな夜だった。
 静かすぎて、逆に耳鳴りがするような、息をすることすらためらうような、そんな夜。

 ジャックは、ハンドルへ肘上を乗せる。

「じゃあ今回は本気だ」

 楽しそうだった。
 その笑顔は、いつもと同じはずなのに、どこか鋭く、どこか冷たく、どこか期待しているように見えた。
 その笑顔を見て、オリオンは小さく息を吐く。
 吐き出したはずの息は、胸の奥に残ったまま、負の感情を広げるようにまとわりつく。

「勘違いするな」

 低い声だった。
 押し殺したような、しかし押し殺しきれていない、底に沈んだ怒りが滲む声。

 ジャックが片眉を上げる。

「私は、お前の芸術を理解した覚えはない」
「知ってる」
「趣味も悪い」
「知ってる」
「気色悪い」
「おい言いすぎだろ!」

 ジャックが笑う。
 その姿は、本当に楽しそうだった。
 笑い声が、車内の空気をわずかに震わせたが、その震えは、すぐに別のものに飲み込まれる。


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