アパートの中から、再び怒鳴り声が聞こえる。ガラス越しなのに、酷く耳障りだった。その声に混じって泣き声も聞こえる。子供の、必死に堪えるも堪え切れなかった泣き声。
ジャックは目を閉じた、そしてゆっくり息を吐く。
「リリィ」
ぽつりと名前が零れる。
オリオンは何も言わない、だが、同じことを考えていた。
あの日、不衛生な部屋の中で、一人親の帰りを待っていた少女。その状況でも、助けを呼ぶことすらできなかった子供。
その姿と、目の前の光景が重なる。
「見るだけだ」
もう一度オリオンが言う。まるで、自分に言い聞かせるように。
ジャックは笑った、乾いた笑いだった。
「うん。そうだ。そりゃ無理だ」
その言葉を、オリオンは否定できなかった。
なぜなら、二人とももうわかっていたからだ――この家の結末を。
その結末を見届けるために、その日の夜、二人はそれぞれの役割を胸に抱えながら、静かに動き出していた。
オリオンは薄暗い住宅街を歩き、街灯の下で影を伸ばしながら近所を回り、ジャックは人気のない学校周辺を巡りながら、昼間とは違う静けさに耳を澄ませていた。
それは決して難しい話ではなく、子供の悲鳴というものは、思っている以上に空気に滲み出てしまい、どれだけ隠そうとしても完全には消えないものだった。
誰かが聞いている。誰かが知っている。ただ、その一歩を踏み込む勇気を、理由があって持たないだけだった。
……最初に口を開いたのはアパートの隣人で、年配の女性は玄関先に立ちながら疲れた顔をしており、長年積み重ねてきた諦めがその表情に滲んでいた。
「またですね」
そう言って苦笑したその様子は、まるで天気の話でもするかのように軽く、しかし、その奥には重たい現実が沈んでいた。
「もちろん、通報もしましたよ」
女性は、声を揺らしながら言う。
「何度も、何度も」
オリオンは何も言わず、ただ静かに頷きながら、女性のその言葉を受け止めていた。
「でも駄目でした」
その声には諦めが混じり、長い時間をかけて削られてきた、希望の残骸が感じられた。
「普段はあんなでも、警察が来るとおとなしくなるんです」
「それで終わり」
「子供も、よせばいいのに庇っちゃって」
「あんなのでも、子供にとっては親なのね」
「親だって、必死に見せるのが上手なの」
女性は肩を竦め、乾いた笑みを浮かべている。
「おかげさまで、次の日には元通りですよ」
静かな夜の空気がその言葉を包み込み、遠くで犬が鳴く声がやけに寂しく響いていた。
――一方で、ジャックも別の場所に立ち、校舎の影に寄り添うようにして話を聞いている。その相手は、疲れ切った顔をした女性教師だった。
最初は警戒していたが、それは当然の反応であり、見知らぬ男に簡単に心を開く理由などなかった。
だがノアの名前が出た瞬間、その表情はわずかに揺れ、押し殺していた感情が浮かび上がる。
「知っています」
教師は震えた声で言う。
「学校でも問題になっています」
「相談は?」
「しています」
ジャックの問いに答えるその声は、よくできた強いものだった。しかし、どこか諦めが漂っている。
「児童相談所も動いています」
「ですが」
そこで言葉が止まり、教師は視線を落としながら唇を噛み締める。
ジャックは何も言わず、その続きを待った。
教師は拳を握りしめ、震える指先を隠そうともせずに、言葉を絞り出す。
「証拠が足りないんです」
その声には悔しさが滲み、自分だけではどうにもならない、現実への怒りが混ざっていた。
「本人が話さない」
「親は否定する」
「家へ行けば普通の家庭を演じる」
「むしろ、私たちがおかしいと」
「学校が悪いと」
沈黙が落ち、教師は目を伏せたまま動かない。
「私たちも、無力じゃあないんです」
その言葉は、決してその場しのぎの言い訳などではなく、必死に抗っている者の本音だった。
だからこそ、ジャックは余計に不憫だと感じていた。
「……わかってますよ、もちろん」
ジャックはそう答え、その声には珍しく柔らかな響きがあった。
本当にそう思っていた。
深夜になり、二人は再び落ち合うと、人気のない駐車場に立っていた。
街灯の白い光がアスファルトを照らし、冷たい空気が足元から這い上がってくる。
「どうだった」
ジャックが低く聞く。
オリオンはまずタバコを取り出し、火をつけずにゆっくりと指で弄ぶと、満足したのか指の動きを止めた。
「駄目だな」
短い答えだった。ジャックも小さく頷く。
「こっちもだ」
それだけで十分だった。二人とも、同じ結論に辿り着いていることを、よくよく理解していた。
しばらく誰も喋らず、街灯が微かに唸る音だけが耳に残る。
やがて、オリオンはタバコをしまい込み、まだ指にふわりと残る葉の匂いを噛み締めながら、一言呟く。
「やるか」
短い言葉だったが、その重さは空気を変えるには十分だった。
その言葉を聞いて、ジャックは笑わなかった。これは冗談でもなければ、仕事の話でもない。だからこそ、その一言は彼の胸に重く沈んだ。
「もちろん」
ジャックが答える。その声もまた静かだった。
これが依頼なら、もっと気楽で、もっと簡単に割り切れたはずだった。だが今回は違う。
初めてだった。
二人が誰かのために、人を殺めようとしていたのは。
――彼らの乗る車は、夜の街を抜けていく。
ネオンが滲み、アスファルトに溶けた光が流れ、まるで何かを隠すように、何もかもを覆い隠すように、静かに、しかし確実に夜は深まっていく。
その先にあるのは、ジャックのアトリエ。
そして、その地下には誰にも見せられない――見せてはいけない、見た者の呼吸を奪い心を壊し、存在そのものを否定するような――保管室がある。
作品は地上で作る。展示は地下でする。保管も地下にする。自分だけが楽しむために、己の芸術のために。
そんな地下があることを、オリオンはジャックから聞いていた。だから知っていた。実際に見もした。
自分の拘りと、おそらくさほど変わらない。それが、オリオンの意見であり、感想だった。
あの、リリィの家に来た男。あれは、運が良かった。
ジャックは、あれをわざと逃がした。オリオンも見逃した。たとえ逃げだしたところで、その末路がもうわかっていたからだ。
案の定、額に一発、銃弾を食らって捨てられていた。
……普段なら、止めていたかもしれない。
いや、止めていた。必ず。どんな理由があろうと、どれほどの正当性を並べられようと、オリオンは必ず口を開いていただろう。
やり過ぎだ。趣味が悪い。時間の無駄だ。
そう言って、冷たく切り捨てていたはずだった。
だが今日は違った。違いすぎた。
言葉が喉に引っかかり、吐き出すことすらできないほどに、胸の奥で何かが膨れ上がっていた。
だから、オリオンは何も言わない。いや、正確には言えなかった。
車窓の向こうを流れていく夜景を眺めながら、その視線はどこにも焦点を結ばず、ただ虚ろに、しかし確実に何かを見ていた。
頭の中には別の光景が浮かんでいた。
消えない、消えてくれない、ノアの泣き声。耳にこびりついて離れない、あの細く震えた声。
それが、あの日のリリィと重なって見えた。
何度も何度も重なり、重なり、重なり、まるで脳の奥を削るように繰り返される。
消えない。消えない。消えない。
今までだったら、まったく気にもならなかったのに。視界の端にも、残らなかったのに。変わってしまった。
「珍しいな」
ジャックが運転しながら、軽く笑って言う。
その声音はいつも通りで、何も変わらないように聞こえるのに、その軽さが逆に、今のオリオンの内側を逆撫でする。
「何がだ」
「止めない」
オリオンは、窓の外を見たまま答えない。
答えられない。
言葉にすれば、何かが決壊してしまいそうだった。
そんなオリオンを尻目に、ジャックは続ける。
「いつもなら、説教のひとつくらいあるだろ? 『趣味がー』とか『時間がー』とか」
「ない」
「ないの?」
「ない」
「へぇ」
赤信号。車が止まる。
怖いくらいに、静かな夜だった。
静かすぎて、逆に耳鳴りがするような、息をすることすらためらうような、そんな夜。
ジャックは、ハンドルへ肘上を乗せる。
「じゃあ今回は本気だ」
楽しそうだった。
その笑顔は、いつもと同じはずなのに、どこか鋭く、どこか冷たく、どこか期待しているように見えた。
その笑顔を見て、オリオンは小さく息を吐く。
吐き出したはずの息は、胸の奥に残ったまま、負の感情を広げるようにまとわりつく。
「勘違いするな」
低い声だった。
押し殺したような、しかし押し殺しきれていない、底に沈んだ怒りが滲む声。
ジャックが片眉を上げる。
「私は、お前の芸術を理解した覚えはない」
「知ってる」
「趣味も悪い」
「知ってる」
「気色悪い」
「おい言いすぎだろ!」
ジャックが笑う。
その姿は、本当に楽しそうだった。
笑い声が、車内の空気をわずかに震わせたが、その震えは、すぐに別のものに飲み込まれる。