結局その日、マーサは帰らなかった。正確には帰ろうとし、本当に玄関までは行ったのだが、途中で冷蔵庫の中身を見てしまい、そのまま帰るのをやめたのだ。
「帰る」と言っていたはずが「買い物行ってくる」に変わり、気付けば大量の食材を抱えて戻ってきていた。
オリオンもジャックも、彼女の行動がまったく理解できなかったが、リリィだけは喜んでいた。
「マーサおばちゃん!」
「はいはい」
マーサは慣れた手つきで頭を撫で、それだけでリリィは嬉しそうに笑う。オリオンは視線を逸らし、ジャックは少しだけ黙った。
そして夕方前、問題が起きる。
「私たちは仕事がある」
オリオンが言い、ジャックが頷く。その一言で、場の空気が変わった。
マーサが何か言いかける前に「行くぞ」とオリオンが立ち上がり、ジャックも迷わず続く。視線を合わせることも説明もなく、ただ仕事へ向かうという選択だけが共有されていた。
マーサの声は届かなかった。いや、届いていたが二人とも聞かなかった。
リリィは何も知らずにお菓子を食べていた。平和だった、嵐の直前までは。
日が落ち始めたころ、リリィはリビングの床に座って色鉛筆で絵を描き、マーサはキッチンに立っていた。
「なにつくるの?」
リリィが尋ねる。
「そうだね……シチューだよ」
「やった!」
元気な返事が返ってきたその時、マーサの手が止まる。何か小さな音が聞こえたのだ。普通なら聞き逃すような音だったが、マーサはそれを逃さなかった。窓の外、裏口の方に誰かいる。
マーサは包丁を置き、音を立てないようゆっくりと動く。
「リリィ」
「なあに?」
「ここにいな」
「わかった」
リリィは素直に頷く。何も知らず、何も気付いていないからこそ、マーサは笑って「大丈夫だよ」と言い、頭を撫でてから裏口のほうを見る。
ガチャ、と小さな音がした。鍵だ。誰かが開けている。マーサは深く息を吐く。近所の猫でも泥棒でもない、もっと慣れた、もっと嫌な手付きに思えた。
マーサはフライパンを構え、リリィを背後に置きながら、ゆっくりと裏口へ近付いていった。極力音を立てないよう、あの日の、オリオンとジャックのように。
やがてゆっくりと扉が開き、黒い服の知らない男がナイフを手に室内へ足を踏み入れる。そしてマーサと目が合い、数秒の沈黙が流れた。男は戸惑う。話が違う、子供一人のはずだったのに、なぜ女がいるのか。
その隙をマーサは逃さなかった。フライパンを持つ腕に力を込め、男が動くのと同時に自分も動く。
そしてゴンッ!! と乾いた音が家中に響き、男は一撃で崩れ落ちた。それはそれは綺麗な一撃で、マーサは息ひとつ乱していない。男は床に倒れたまま動かず、リリィだけが目を丸くしていた。
「マーサおばちゃん? どうかした?」
「大丈夫だ。だからこっちに来ちゃだめだよ」
マーサはそう答え、床に転がる男を見て「まだ若いねぇ」と感想を漏らす。それ以上でもそれ以下でもない。
リリィは遠目に男とマーサを見比べ、それから嬉しそうに笑った。
「マーサおばちゃんつよい!」
マーサは少しだけ考えてから答える。
「昔はあたしだってねぇ」
その時、床に転がった男が小さく呻いた。マーサは無言でフライパンを握り直し、男は気絶したふりを続ける。彼女を前に、賢明な判断だった。
――男は動かなかった。
いや、正確に言えば動けなかったのだ。
身体が言うことを聞かないというよりも、動こうとする意思そのものを押し殺していた。彼はただ、床に倒れたまま、呼吸を浅く整え、気絶したふりを続けていた。
起き上がる理由がなかった。むしろ、起き上がることには明確な危険が伴っていた。
目の前には、どう考えても常識の通じない、頭のおかしい女がいる。この女がどれほどの力を持っているのか、どれほど理不尽な行動を取るのか、男はすでに身をもって知っていた。
フライパンを構え、侵入者とはいえ相手めがけて容赦なく振り抜く。そんな芸当、普通の女にはできないと思っていた。もしここで目を覚ましたと気づかれれば、もう一発、いやそれ以上の何かが飛んでくるかもしれない。
それならば、寝ていたほうがいい。隙あらば、逃げ出せばいいのだから。
そう判断するのは、ごく自然なことだった。
男は自分の選択を合理的だと確信していた。むしろ、これ以上に安全な選択肢は、この世に存在しないとさえ思っていた。
しかしやがて、玄関の扉が開く音がした。
誰かが帰ってきたらしい。
男は目を閉じたまま、耳だけを研ぎ澄ませる。
「ただいま」
落ち着いた男の声が響く。
「おかえりー!」
それに応えるように、元気な子供の声が続いた。
そして、その直後だった。
「アンタらぁぁぁ!!」
耳をつんざくような女のの怒鳴り声が、家中に響き渡った。
男は思わずびくりと身体を震わせる。何が起きているのかはわからない。
だが、誰かが怒られていることだけは明白だった。
しかも、その怒りは尋常ではない。
「こんなのが来るなんて、あたしゃ聞いてないんだけど!?」
女の声には、怒りだけでなく呆れや焦りのようなものも混じっていた。……そして、女の言う「こんなの」が、自分のことを指しているのは、明白だった。
「……」
返事がない。
「返事!」
「私だって知らない」
短く、ぶっきらぼうな返答。
「だったらこれは何なんだい!!」
「マーサ待てよ。俺たちだってほら、今帰ってきたばかりなんだからさぁ」
「仕留め損ねたんじゃないのかい!?」
「し損ねた仕事はない」
「だったら! これは! 誰なんだい!!」
再び怒鳴り声が響く。
男は床に転がったまま、必死に状況を整理しようとする。
誰が怒られているのか。自分ではないことは確かだ。だが、それ以上のことはわからない。
ただひとつ、はっきりしていることがあった。
それは――この場には、自分を殺そうとした女よりも、さらに恐ろしい存在がいるかもしれない、ということだった。
それだけは、直感的に理解できた。
だって「仕留め損ねた」何かがいると女はいい、男は「し損ねた仕事はない」と言うのだから。
しばらくして、怒鳴り声は収まり、家の中は静けさを取り戻した。
それでも男は動かなかった。いや、動けないというほうが正しいだろう。
動けないまま、床に身体を貼り付かせて、どうにか逃げるチャンスを窺う。そうして次に聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。
「いただきます!」
明るい声が響く。
男は混乱した。今度はいったい、何が始まったのか。いや、食事を摂ろうとしていることはわかった、なぜ食事が始まっているのか。
なぜ、誰も自分の存在を気にしないのか。なぜ、自分は放置されているのか。
理解が追いつかない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。漂ってくる匂いだ。
それは、温かくて優しい香り。シチューだった。しかも、かなり美味そうな匂いだった。
非常に。悔しいことに。本当に、とても美味そうだった。
「マーサおばちゃんおいしい!」
子供の無邪気な声が弾む。
「そうかい」
女――マーサの声は、先ほどまでの怒りが嘘のように穏やかだった。
「これ旨いな。マーサは料理上手だな」
男の声が続く。
「ふふん。当然だろう」
誇らしげな返答。
「オリオンも見習えよ」
「黙れ」
そのやり取りは、まるで普通の家庭の食卓のようだった。
楽しそうだった。信じられないほどに。
つい先ほどまで、怒号が飛び交っていたとは思えないほど、穏やかで温かい空気が流れている。男はその光景を想像しながら、なおも気絶したふりを続けた。
まだ、動くことができなかった。いや、今度は、動きたくなかったのかもしれない。