第7話:ありがとう

We Killed Our Sweetheart

 少女の「ありがとう」が消えた後も、部屋の中にはしばらく誰も言葉を発しなかった。

 窓の外では、相変わらず風が吹いている。どこか遠くを走る車の音が微かに聞こえ、その音もまたすぐに夜の静けさへ溶けていった。ほんの数分前まで、この家には二人の大人がいたはずなのに、今はまるで最初から存在しなかったかのように静かだった。

 少女はベッドへ腰掛けたまま、嬉しそうにパンのケーキと男たちを交互に見つめている。
 その表情には、男たちが逆に心配するほど、一切警戒心がなかった。

 目の前にいるのが見知らぬ男二人だという事実よりも、自分の誕生日を祝ってもらえたことのほうが、彼女にとってずっと大切だったのだろう。
 細身の男はそんな少女を見つめ、それから視線を逸らした。

 無性に居心地が悪かったからだ。銃口を向けられることにも、人を殺すことにも慣れているはずなのに、七歳の少女から向けられる無邪気な好意には、どうしていいのかまったくわからない。

 隣にいる、もう一人の男も似たような顔をしていた。先ほどまでの余裕が消え、少女にかける無難な言葉を、必死に探しているように見える。

 少女は二人を見比べ、それから、ふと思い出したように笑った。

「もしかして、おいわいにきてくれたの?」

 純粋な、透き通った声だった。探る意図も疑う気持ちもない、ただ嬉しくて確認しただけの言葉。
 部屋の空気が止まる。その言葉に、男たちは答えない、答えられない。目の前にいる少女は、自分たちが何者なのか知らない。玄関の向こうで何が起きたのかも知らない。ただ、自分の誕生日に来てくれた優しい人たちだと思っている。

 それが困った。とにかく、どうしようもなく困った。

 細身の男は、無意識に額へ手を当てる。そして、首を横に振った。
 大柄の男は、天井を見上げる。そして視線を忙しなく動かし、口を真一文字に変えた。

 どちらも、人を殺した直後とは思えない反応だった。
 少女だけが楽しそうに笑っている。その笑顔を見た瞬間、二人はほぼ同時に理解した。

 ――今夜はまだ終わらない。むしろ、本当に面倒なのはここからなのだと。

 無言で少女の部屋を出た後、二人はしばらく廊下に立ち尽くしていた。
 互いに何かを言いたそうな顔をしているくせに、どちらも口を開かない。言葉にした瞬間、面倒な現実が形を持ってしまう気がしたからかもしれないし、あるいは、何を言えばいいのか本当にわからなかったからかもしれない。もしくは、その両方。

 ちらちらと互いをけん制し合いながら、結局、先に酷く視線を逸らしたのは細身の男だった。

 部屋の奥からは、少女がパンのケーキを大事そうに抱える気配が聞こえてくる。それを聞いてしまったせいか、玄関に転がる死体の存在が、妙に現実味を帯びて感じられた。

「いいか。先に片付ける」

 細身の男が放つ、低くて重たい声だった。仕事の話をしている時だけの、感情を押し殺した声。
 それを聞いて、大柄の男は短く頷く。反対する理由はない。むしろ今、それ以外にやるべきことが思い付かなかった。

 二人は玄関へ向かう。

 床の上には、先ほどまで笑いながら帰宅していた夫婦が転がっている。
 本来なら、ここで終わりだった。
 細身の男は、男は死体を残して去る。それがいつものやり方だった。必要以上の痕跡は作らず、余計な感情も持ち込まない。
 撃ち、去る。ただそれだけ。

 大柄の男にも、同じような流儀があった。
 自分の作品にすると決めた相手は、殺してからアトリエまで持ち帰る。そして、花と絵具と額縁で飾る。背景は真っ白が良い。そうして完成させる。
 だが、興味があるのは自分の作品だけであり、他人の作った死体など、本来ならどうでもいい。

 だから普通なら、二人はここで別れている。別れるはずだった。
 それなのに、どちらもそうしなかった。その理由は明白だが、どちらも口にはしなかった。

 男たちは気付いていた。家の中に運び入れた瞬間から、どちらの死体かなど、もはや関係なくなっている。
 それは、互いの流儀からすれば奇妙なことだった。だが、その奇妙さを指摘する者はいない。

 階段の上から、小さな声が聞こえる。

「なにしてるの?」

 二人の動きが一瞬だけ止まった。少女だった。階段の上、廊下の奥から顔だけを覗かせている。
 男たちは思わず顔を見合わせる。質問に対する、答えが思い付かなかったからだ。
 人を殺すことなら簡単だった。死体を処理することも難しくない。だが七歳の少女へ説明する方法だけは、どうしても思いつかなかった。

「これは……そうだな、サプライズな引っ越しだ!」

 しばらくして、大柄の男がそう言った。その辺の人を相手にする時と同じ、人懐っこい笑顔を浮かべて。
 その言葉を聞いて、少女は目を瞬かせた。

「おひっこし?」
「あぁそうだ」

 男は平然と続ける。

「まー、何だ。つまりは夜逃げみたいなもんだ」

 少女は、よくわからないまま頷いた。
 納得した訳ではない。ただ、大人が言うなら「そうなのだろう」と思っただけだった。

 その様子を見ながら、細身の男はゆっくりと息を吐く。

 面倒なことになった。本当に。

 だが、その面倒の中心にいる少女は、そんなことなど何も知らずに笑っていた。

 ——死体の処理と玄関の片付けが終わったころには、空がわずかに白み始めていた。
 住宅街にはまだ人の気配がなく、夜と朝の境目だけが静かに広がっている。証拠になるものは回収した。薬も消した。夫婦がそこにいた痕跡も、可能な限り片付けた。
 仕事として考えるなら上出来だった。

 本来なら。

 だが二人とも、そんな達成感とは無縁の顔をしている。原因はわかっていた。わかりすぎるほど、嫌というほどわかっていた。
 だからこそ、お互い口にしない。

 人里離れた場所にある、大柄の男のアトリエへ到着した後も、状況は何も変わらなかった。
 古い倉庫を改装したその建物は広く、死体を隠す場所にも、作品を飾る場所にも困らない。
 丁寧に育てられる花たちに、綺麗に片づけられたが染みのある床。白い壁はところどころ落ちない色がついていて、作りかけの額縁が、ビニールシートの上に置かれていた。
 そこに、ぽつんと置かれている、作品のための椅子。
 普通の人間なら数秒で逃げ出すような空間だったが、少女は違った。

 ソファの上へちょこんと座り、両手でぬいぐるみを抱えながら、興味津々といった様子で周囲を見回している。

 怖がる様子はないし、泣きもしない。むしろ、どちらかと言えば少し楽しそうだった。

 細身の男は頭痛を覚えた。「こんな状況で楽しそうな子供がいてたまるか」と、そう思ったからだ。
 だが現実にいた。目の前に、しっかりと。

 少女は壁へ飾られた、中身のない額縁を見る。その視線は棚へと移り、天井を見てからやがて男二人へと移った。
 無邪気に笑うその姿がまた困る。怯えられるほうがまだ楽だった。泣かれるほうがまだ対応できた。だが、好意を向けられるとどうしていいかわからない。

 細身の男は視線を逸らし、隣にいる大柄の男も黙っていた。
 少女はそんな二人を交互に見つめ、それから膝の上のぬいぐるみへ視線を落とした。
 まるで宝物のように、大事に抱えている。

 その様子を見た瞬間、二人は同時に同じことを考えてしまう。

 ――どうする。

 それは薬の処分方法でなければ、死体の隠し場所でもない。この後起こるかもしれない、警察への対処でもない。
 これまで、何人もの人間を殺めてきた二人を追い詰めたのは、たった一人の七歳の少女だった。

 それでも、少女は首を傾げる。

「どうしたの?」


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