第3話:帰りを待つ

We Killed Our Sweetheart

 それでも、まだ大丈夫だと思っていた。父親も母親も、もともと昼間から家にいるような人ではないし、大事な仕事だってある。
 何の仕事をしているのかはよく知らなかったが、二人とも忙しいのだということだけは知っていた。いつもいないから。だから、帰りが遅いのも仕方がない。
 今日は自身の誕生日だけれど、大人には大人の事情があるのだろう。
 少女はそう考えることにした。

 そうしないと、少しだけ不安になってしまうからだった。
 テーブルの上に置いた、パンのケーキを見る。

 乾かないように、透明な蓋で覆ってみたものの、ジャムは朝よりも艶を失い始めていて、パンも少しだけ乾いているように見えた。バランスが悪かったのか、また傾いて見える。
 さっきと同じように形を整えようとしたが、触れば触るほど崩れてしまいそうな気がして、途中で手を止めた。

 大丈夫。
 まだ大丈夫。
 そろそろ帰ってくる。
 ケーキはこのまま残ってる。

 少女はそう自分に言い聞かせると、冷蔵庫からコップに水を注いで飲み、空腹を誤魔化すようにお腹を撫でた。

 ……本当は少し食べたかった。
 けれど我慢する。
 せっかく作ったケーキなのだから、最初の一口はみんなで食べたいと思ったし、その方がきっと誕生日らしい気がした。

 窓の外では、街が少しずつ夜の準備を始めている。

 空は茜色に染まり、家々の窓には灯りが点き始め、どこからか夕飯の匂いも漂ってきた。そんな気がする。
 少女は膝を抱えるように椅子へ座りながら、玄関の方へ何度も視線を向ける。
 家の前でわずかに大きな音がすると、その度に胸が少しだけ弾み、その度に静かになる。

 それでも、少女は待っていた。
 今日は誕生日だから。
 きっと帰ってきてくれるはずだから。

 そして帰ってきたら、このケーキを見せるのだ。
 「上手にできたね」と褒めてもらえるかもしれないし、一緒に笑ってくれるかもしれない。
 そんな小さな期待を胸に抱きながら、少女は再び時計を見上げた。

 だが、期待も虚しく、気が付けば窓の外はすっかり暗くなっていた。
 夕焼けの照りはとっくに消え、住宅街の灯りだけが、ぽつぽつと夜を照らしている。

 少女は何度も時計を見ていたせいで、短い針がどこを指しているのか、もうよくわからなくなりそうだった。
 それでも間違いなく、時間は確実に過ぎている。

 帰ってこないまま、電話が鳴ることもないまま、 玄関の扉が開くこともないまま。

 少女は、椅子へ座ったり立ち上がったりを繰り返しながら、その度に窓の外を覗いていた。が、期待していた車が通ることはなく、聞き慣れた足音が近付いてくることもなかった。

 お腹は空いていた。
 朝よりも。
 昼よりも。
 ずっと。

 どこかを探せば、食べられるものはきっとある。それに、ケーキに使ったパンだって、耳が残っている。
 それでも、少女は手を付けなかった。
 食べてしまったら、今日の頑張りが、そこで終わってしまう気がしたからだ。

 ケーキも同じだった。
 パンは少し乾いているし、ジャムも朝ほど綺麗ではない。

 それでも、少女にとっては大切な誕生日ケーキだった。

 テーブルの前へ座り、ふたを開けてそっと形を整える。何かしていないと、気が狂いそうだった。
 崩れていた部分を指で押さえ、零れそうになっていたジャムを戻しながら、少女は小さく笑った。

「だいじょうぶだよ」

 誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからない。

 ケーキに言ったのかもしれない。
 自分に言ったのかもしれない。
 とにかく、そう言わなければ泣きそうな気がした。

 テレビでは楽しそうな番組が流れている。どこかの家族が笑っていて、どこかの子どもがお祝いされている。映像は、知らない子供の誕生祝いだ。
 その光景は、あくまでも画面の向こう側の話で、少女の潤んだ瞳には、ただ他人の幸せそうな様子が映し出されていた。

 少女は膝を抱え、今度はソファへ身体を沈める。

 眠い。
 だが、ここで眠ったら、両親が帰ってきたことに気付けないかもしれない。
 だから起きている。
 待っている。

 誕生日だから。今日だけは。今日だけは、帰ってきてくれると信じていたかった。
 少女は静かな部屋の中で、泣きそうになりながら、もう一度だけ時計を見上げた。

 ……カチカチと音を鳴らしながら、時計の針は随分と進んでいた。
 少女には正確な時間までは分からなかったが、もう遅い時間なのだろう、ということだけは理解できる。

 窓の外を歩いている人もほとんどおらず、向かいの家の灯りも消えていた。
 家の中のテレビだけが、部屋の中で喋り続けている。
 少女は膝を抱えたまま、その音をぼんやりと聞いていた。

 帰ってこない。
 もしかしたら、今日は本当に遅いのかもしれない。
 仕事が長引いているのかもしれない。
 道が混んでいるのかもしれない。
 トラブルが起きたのかもしれない。
 それ以外に、何か理由があるのかもしれない。

 けれど、どれだけ理由を考えてみても、その間、玄関の扉は一度も開かなかった。

 仕方なく、少女はゆっくりと立ち上がり、そしてテーブルへ近付いた。
 パンのケーキはまだそこにある。
 朝からずっと、手直しはしたものの、自分が作ったままの形で。

 朝、出来上がった時ほどの輝きは、もうとっくに失っていた。
 それでも、少女にとっては特別なケーキだった。
 だって、今日のために作ったのだから。
 少女はそっと椅子へ腰掛ける。

 少しだけ考えた。本当に、少しだけ。
 それから、テーブルの端に置いてあったライターを手に取る。
 いくらか探してみたが、悲しいことにろうそくはなかった。見つけられなかった。

 だから、代わりだった。

 少し、いや、だいぶ変かもしれない、でも、これでも火は点くし、手に持っていれば問題ない。
 ケーキに刺せないのは残念だが、ケーキを輝かせてみせることはできる。

 今日は、誕生日だから。
 私の、誕生日なのだから。

 何もしないで終わるのは嫌だった。

 少女はライターを握ったまま、小さく息を吐く。

「……もうすこしだけ、まとうかな」

 誰もいない部屋へ向かって呟く。

 帰ってくるかもしれない。そうやって、もう長い時間待った。
 あと少ししたら。
 あと少しだけ。
 だからその時まで。
 ケーキも。
 誕生日も。
 歌も。
 取っておこうと思った。

 少女は、テーブルの上のパンを見つめながら、静かに微笑む。

 その笑顔は寂しかった。

 けれど、まだ諦めてはいなかった。

 数えられないくらい、時計の針は随分と進んでいたが、少女が何度も窓の外を見ても、どれだけ待っても父親も母親も帰ってこない。

 お腹は空いていて、強い眠気もあった。
 知っている、まだ誕生日が終わるまで、時間はある。それは僅かな気がしたが「残っている」という事実に変わりはなかった。

 少女は、テーブルの上のパンのケーキを見つめる。もう、何度目だろうか。それすらわからない。
 気になって、結局、朝から何度も形を直したそれは、その柔らかさと輝きを、とっくに失っていた。

 それでも、少女にとっては世界にひとつだけの誕生日ケーキだった。

 両手でそっと持ち上げ、落とさないように、壊さないように慎重に、そのまま自分の部屋へ向かった。
 狭い部屋だった。
 ベッドと小さな棚があるだけの部屋で、窓際には色褪せたぬいぐるみが並んでいる。

 少女はベッドの横へケーキを置き、ライターも一緒に置く。誰も褒めてくれない代わりに、少しだけ笑った。

「これをみたら、きっとおどろく、よね」

 誰に聞かせるでもなく呟く。
 ママも、パパも、きっと、多分、帰ってきたら。
 その時は見せよう。
 上手にできたんだよって。
 七歳になったんだよって。
 それまで、大事にしておこうと。

 少女は毛布を膝へ掛け、玄関の音が聞こえるよう、部屋のドアを少しだけ開けた。帰ってきたらすぐにわかるように、すぐに迎えに行けるように。

 それから少女はベッドの横に置いたケーキを見つめる。
 少しだけ嬉しくて、少しだけ寂しかった。
 そして何より、まだ期待していた。
 だから少女は、もう少しだけ待つことにした。


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