――この街では、人が死ぬ。
それは特別な出来事ではなく、夜のニュースで数秒触れられて終わる程度の出来事であり、誰かが撃たれたとか、誰かが刺されたとか、そういう話題は天気予報よりも早く忘れ去られていく。
つまりは、腐っているのだ。
政治家も、警察も、ギャングも、路地裏で薬を売る売人も。
だから、この街では人が死ぬ。
そして今夜もまた、一人の男が死のうとしていた。
油と鉄の臭いが染み付いた倉庫の床に横たわる男は、何かを訴えようと口を動かしていたが、その言葉は意味を成さず、涎とともに喉の奥で潰れていた。
男を見下ろしている男は細身で背が高く、黒いコートを着ていた。
整った顔立ちだった。だが、その整い方は人を安心させる類のものではなく、むしろ刃物のように鋭く、近付けば傷付くことを本能が理解してしまう種類の美しさだった。
床の男は震えていた。
恐怖で震えているのではない。
薬だ。
開き切った瞳孔と、不規則な呼吸、意味のない独り言。そして、肌一面に広がる、紫色の斑点。本来ならば、この男はもう少しまともな状態で死ぬ予定だった。
聞いていた話と違う――
男はしゃがみ込み、無遠慮に顎を掴んだ。そのまま、流れるように腕へと視線を送る。そこには、いくつもの注射痕。
薬物の利用は明らかだった。
しかも、この反応の出方は、所謂混じり物だった。安くて質の悪い。最近、出回り始めたという、存在歴の浅いアレ。
どこの馬鹿が、こんなものを流しているのか。
男は僅かに眉を寄せた。それが、彼の不快の表現だった。
「くだらん」
呟きと共に拳銃が持ち上がる。
銃口は迷うことなく右目へ向けられた。そのまま、廃人となった男に向かって、引き金が引かれる。
***
――とある部屋では、柔らかなクラシック音楽が流れていた。
古いレコード特有の僅かなノイズすら、心地良く感じるほど穏やかな旋律だったが、その音色と部屋の光景は、あまりにも噛み合っていなかった。
部屋の中央には男がいる。いや、死体だ。もっとも、その死体は一般的な死体とは少し違っていた。
椅子に腰掛けさせられた身体は不自然なほど姿勢が良く、全身には色鮮やかな花々が添えられ、天井から落とされた照明が、最も美しく見える角度で顔を照らしている。
その背後には、この部屋の持ち主が作った、手作りの額縁。とても大きなモノで、死体はその中に納まって見えた。
美術館に飾られた彫刻、と言われたほうが納得できる光景だった。
だからこそ、部屋の持ち主である、大柄の男は落胆していた。
せっかく上手く仕上がったというのに、すべてが台無しだったからだ。
「あーあ」
男は肩を竦める。が、笑っている。いつものことだった。仕事が終われば笑うし、失敗しても笑う。もちろん、腹が立っていても笑う。
だから、その笑顔だけでは機嫌を判断できない。
ただ、今は明らかに不機嫌だった。死体の腕には新しい注射痕が複数残っている。
開き切った瞳孔。濁った眼球。変色した皮膚。
どれも、この死体が生前使った、薬物によるものだった。
本来なら、もっと綺麗だったはずなのだ。
死は平等で、美しい。
少なくとも男はそう思っている。
だが薬物は違う。薬は人間を壊す。恐怖も後悔も絶望も奪い去り、ただの抜け殻にしてしまう。
そんなものは芸術ではない。
「誰だよ」
男は死体の腕を持ち上げる。その目は笑っていたが、声は笑っていなかった。
「こんなゴミを売った馬鹿は」
***
情報を買うという行為は、案外金が掛からないものだ。高い酒を奢る必要もなければ、札束を積み上げる必要もない。
必要なのは相手を見極めること。
金を欲しがる人間もいる。
薬を欲しがる人間もいる。
女を欲しがる人間もいる。
そして、誰かに話を聞いてほしいだけの人間もいる。
細身の男が会いに来たのは、最後の種類だった。
地下鉄の高架下に置かれた古びたベンチには、一人の老人が座っている。
年齢は、軽く七十を超えているだろう。白髪混じりの髭は伸び放題で、何年も洗われていないコートには、アルコールと煙草の臭いが染み付いていた。
誰が見てもホームレスだ。
そして、この界隈では、誰よりも情報を持っている男でもあった。
男は老人の隣に腰を下ろす。老人は男の顔を見ず、男も挨拶をしない。
しばらくは、高架を通り過ぎる電車の音だけが響いていた。
「最近、変な薬が出回っている」
先に口を開いたのは、意外にも老人だった。
男は答えない。ただ続きを待つ。
「若い連中が飛び付いてる。なんたって、安いからな。それに、速攻一発で飛べる」
「質が悪い」
「そうらしいな」
老人は肩を竦めた。
「死人も出てる」
男は、僅かに眉を上げて、老人の言葉に反応した。
「あぁ、見た」
「なら話は早い」
老人はようやく男を見る。彼の持つ瞳は、濁っていた。
だが、その奥には、油断ならない光が宿っている。
「あんたが追ってる連中は、最近急に羽振りが良くなった売人夫婦だ」
男は黙ったまま煙草を取り出し、火を点けた。
――老人は知っていた。
この男が煙草を吸う時は、すこぶる機嫌が悪い。大抵、誰かが死ぬ前だ。
「名前は?」
「名前はいらんだろ」
老人は苦笑した。
「住所がありゃ十分だ」
そう言って、紙切れを一枚差し出す。男はそれを受け取った。
書かれているのは、郊外の古びた住宅街の住所だった。
この地域に、目立った豪邸はない。建っているのは、どこにでもあるような家だ。だから老人は、どこにでもいるような人間が、どこにでもあるような状態で、この場所に住んでいると思った。
だが、その紙を見つめる男の目は、少しもそう思っていなかった。
***
男は人気者だった。少なくとも、この店では。
古びたジャズバーのカウンター席に腰掛けた大柄の男へ、店員が笑顔でグラスを差し出し、その隣では常連らしい客が気軽に声を掛けている。
誰とでも話す。
よく笑い、気前もいい。頭が良く、気配りもできる。だから、好かれる。
それだけの話だった。
もっとも、その笑顔の裏側を知っている人間は誰もいない。
「で?」
男は琥珀色の酒を揺らしながら笑った。
「俺の友達を台無しにした連中は見つかった?」
カウンターの向こうで。グラスを磨いていた店主が肩を竦める。
「アレが友達なのか? 随分な扱いをするもんだ」
「酷いなぁ」
「ふん。死体を絵具と花で飾るヤツにだけは、言われたくないね」
店内に笑いが起こる。
皆、冗談だと思っていた。酔いのまわった人間には、これくらいどうってことない。むしろ、気の利いたブラックジョークとさえ思っていた。
男も笑った。だが、その男の目だけは笑っていなかった。
「で?」
もう一度聞く。今度は少しだけ声が小さく低い。
店主は、小さく息を吐いた。
「最近、この辺で流れてる薬だろ」
「そうだよ。何だ、知ってんじゃねぇか」
「うるさいな、黙って聞いてろ。……売人夫婦がいる」
「へぇ」
「妙に安くてな。馬鹿みたいに売れてる」
男はグラスを置いた。同時に、指先がテーブルを軽く叩く。機嫌が悪い時の癖だった。
「名前は?」
「知らねぇよ」
「嘘だな」
「知らないほうが幸せなこともあるだろ?」
「俺は今、全然幸せじゃない」
男が肩をすくめて困ったようにそう言うと、店主は諦めたように苦笑する。
そして、紙切れを一枚差し出した。
「住所だけだ」
男はそれを笑顔で受け取った。そして、素早く視線を落とす。書かれていたのは、住宅街の住所だった。
きっと、どこにでもありそうな家。
きっと、どこにでもいそうな夫婦。
だからこそ、気に入らなかった。
「ありがとな」
男はまた笑う。今度は、本当に楽しそうだった。
「これで、俺も少し機嫌が良くなったぜ」
その言葉を聞いても、店主は少しも安心しなかった。
***
その日の夜。この街に住む人間にとって、夜は眠る時間ではない。
ネオンが灯り、酒場が開き、薬が売られ、誰かが金を失い、誰かが人生を失う時間だった。
大通りには人が溢れている。
仕事帰りの会社員に、いつの間にか出来上がった酔っ払い。羽振りの良い観光客や、腕を組んで歩く恋人たち。
笑い声とクラクション、音楽が入り混じり、街そのものが巨大な生き物のように脈打っていた。
細身の男は、その中を歩いていた。
コートのポケットに手を入れ、住宅街の住所が書かれた紙切れを仕舞い込んだまま、人波を縫うように進んでいく。
急ぐ理由はなかった。
きっと、逃げるような相手でもない。だから歩いている、ただ、それだけだった。
その時だった。
男は足を止めた。
長年獲物を追い続けてきた感覚が、小さな違和感を拾い上げたのだ。
男は、ゆっくり振り返る。
人混みの向こうで、男と同じように、誰かが立ち止まっている気がした。
だが見えない。
男はしばらくその方向を見つめたが、やがて、興味を失ったように視線を戻し「どうでもいい」とでも言うように歩き出した。
――そのころ、反対側の歩道では別の男も立ち止まっていた。
大柄の男の、楽しげな笑みは消えている。代わりに浮かんでいたのは、ほんの僅かな好奇心だった。
誰かいる。そんな気がした。
だが、違和感を覚えて振り返った時には、もう遅かった。
目の前を大型バスが通り過ぎ、人混みが流れ込み、ほんの一瞬感じた気配は跡形もなく消えている。
「気のせいか」
男は小さく笑い、それから肩をすくめると、紙切れを取り出した。
そこには住所が書かれている。
あの、住宅街だった。