第30話:夕闇にて君を待つ

夕闇にて君を待つ

『どうやら、彼は電車を使ったようです。駅にいる要員から、連絡がきました。ペースは普通で、こちらへ向かってきているようです』
「っ!」
 身体がびくりと反応する。遂に、彼がやってくるのだ。
「わ、わかりました」
 私は、リビングのドアに、背を向けて立った。カーテンは閉まっているし、部屋の電気も点けていない。外はまだ夜ではないだろうが、この家は真っ暗だ。
 スマホは昨日のように、充電器に挿して画面を上にしてある。柔らかいブランケットを畳んだ、その上が今日の置き場だ。
 大地が来たとき、タイミングを見計らって、メッセージを送るか電話をかけると、八代さんが言っていた。
 そのときに、私たちがその音で、驚かないようにするためだ。
 わかっていても、やはり反応する可能性はある。

「あ、あの……」
『どうしました?』
 言いにくいが、言うしかない。
「ちょっと、緊張からか、疲れてきてしまって……。少し、休憩してもいいですか? ほんのちょっと、座るだけなので」
『まだ着きませんからね、大丈夫ですよ』
「ありがとうございます。助かります」

 その言葉に甘えて、私は床へ座り込んだ。酷い緊張で、ただ立っているだけなのに、そのまま倒れそうになる。
 私は身体を伸ばし、首を回した。できれば、このまま転がって、眠ってしまいたい。そう思うほどに、私は疲れていた。
「あと少し、だから」
 気持ちを奮い立たせる。お行儀が悪いことは重々承知だったが、私はテーブルに腰かけた。段差がほしかった、足を少し、伸ばしたかった。ただぼーっと、壁を見つめる。
 心なしか、身体が緊張で震えていた。

 その状態で、どれくらいか経ったころ。
『こちら、A班です。ペースが落ちていますね。どうしたんでしょう』
『不安になったか? 進行方向は?』
『変わらず、そちらのマンションです。このペースであれば、私が彼を、マンションへ着く前に追い抜かします』
『追い抜かして、連絡をください。そのタイミングで、こちらも最終準備をします』
『了解』

 刻々と、大地がこのマンションへ近づいている。
『高峯さん、要員から『追い抜かした』と連絡が来たら、位置についてください』
「わかりました」
 もう、すぐなのだ。

 その連絡を、今か今かと待つ。ここまできて、私自身、逃げることはできない。もし危なくなっても、八代さんたちが守ってれる、私はそう信じているから、絶対に大丈夫なのだ。
 一分、二分……時間だけ過ぎていくのがわかる。
 足も手も、相変わらず、緊張で震えていた。
「はぁー……ふぅー……」
 大地が家の中へ入ってきたら、私は一言も発せられない。今の内だ。大きく深呼吸する。
『――こちら、A班』

 一気に緊張が走る。あの、大地の後ろを歩いていた人だ。
『どうしましたか?』
 八代さんの声が聞こえる。
『追い抜かして、今自分がマンションへ入りました。このペースで行けば、三分後には到着する見込みです』
『わかりました、そのまま、上階で待機してください。彼が部屋へ入れば、ドアの開閉音でわかるでしょう。確認してから、下へ降りてきてください。お願いします』
『了解』

 きた、きてしまった。私は急いで立つと、またリビングのドアに背を向けた。
 暗い、怖い。だが、じっと耐える。
 ……三分経ったのか、体感ではわからなかった。もうずっと、長い時間が経っているように感じる。

 まだか。
 まだなのか。
 まだこないのか。
 辺りは沈黙に包まれている。
 誰も、言葉を発することはない。
 今できるのは、ただ黙って、彼の到着を待つこと。

 それだけだった。

 ヒュオォォォ――

 ――と、そのとき。
 雑音とともに、外から空気が入ってきた気がした。玄関のドアが開いたのだ。明らかに、家の中の空気が変わった。
 そのことに、思わず手を握る。
 大きな音は聞こえなかった。躊躇うことなく、ドアを開けたのだろう。
 だが、それが誰なのかは、まだわからない。ただひたすら、その人物から声がかかるのを、ここへその誰か来るのを待つ。

「紗季?」

 大地の声だ。私の名前を呼んでいる。出そうになった声を、必死になって唇を噛んで堪えた。
「紗季ー! 出て来いよ!」
 ドアの向こうで、私を呼んでいる。でも、私はここから動かない。
 動けないし動かない。身体が震える。辛うじて視線を変えることはできたが、他に動かせそうな場所はなかった。

「紗季!」
 少しだけ、声が近くなった気がした。そうだ、こちらへ向かっているのだ。
 しかし、玄関の電気も、廊下の電気も点かない。大地はどうして、電気を点けないのだろう。
 ヴーヴヴ。ヴーヴヴ。
 スマホが鳴る。が、ブランケットのおかげで、振動音は僅かだった。ドアの向こうから見たら、急に明るくなったように見えるだけだと思う。

「リビングか?」
 そんな言葉の後、リビングのドアが、半分ほど開いた音がした。

 ――大地だ。背後に、大地がいる。私は、必死に動かないよう努めた。
 私は人形だ。
 もしくは幽霊だ。
 動かない、動けない、動いては、いけない。
「……っ!」
 びっくりしたのか、大地が声を出す。そりゃあ、急に目の前に誰かいたら、驚いて声も出るだろう。しかも、そこにいるのは、昨日と同じ格好をした、私。
「紗季?」
 それは、小さな声だった。そして、弱弱しくも聞こえた。大地の、私の名を呼ぶ声。

 私は、動かない。振り向かないし、返事もしない。私がすべきことは、ただじっと、この場に立つだけ。
 バタン!
 リビングのドアが、全開にされた。
 くる。大地が、私の元に。
 心臓が大きく鼓動する。喉が渇いて張付く。目に涙が浮かぶ。でも、私は、動かない。

「紗季? おい、何突っ立ってんだよ」
「確保!」
「……は?」

 どたばたと、大きな音がする。私は誰かに腕を引っ張られ、その人の後ろへと身を寄せた。
「幸村大地だな。殺人容疑……及び、殺人未遂容疑で逮捕する」
「は? は? 何で? 俺が?」
 大地は、何もわかっていないようだった。
 彼女の家に来たと思ったら、家の中は真っ暗、部屋の中で立ち尽くす彼女、そして突然現れた大勢の見知らぬ人間たち。

 その状態の中、告げられる「殺人容疑」……と……?
「殺人、未遂? え?」
 私は思わず、声を出した。殺人容疑はわかる。だって、この家にいた人を、殺したから。でも、殺人未遂容疑というのは、いったいどういうことなのだろうか。

「その手。危ないからもらうよ」
「えっ、あっ! だ、だめだ! こ、これは、プレゼント! プレゼントで!」
 大地が必死になっている。

「はい、電気点けるよ」
 急に明るくなった部屋に、反射的に目を閉じた。眩しい。
「こんなもの、プレゼントなわけないでしょ」
 私は、気になって大地の手を見た。

「……ひっ……!」
 彼の手には、大きな包丁が握られていた。むき出しの、生身の包丁が。
 照明に照らされて、刃が動くたびにきらりと光っている。そんなものがプレゼントだなんて、どうかしている。
 同時に、殺人未遂の意味を深く理解した。

「紗季? なぁ、紗季!」
 警察に囲まれながらも、彼は私の名を呼んだ。
「仲直りするんだろ? 俺は、許してやるから!」
 いつもと変わらない調子。だが、今日は、いつもよりも一段上にいる気がしてならない。何かを勘違いしているような、変わらないと、思い込もうとしているような。
「はいはい。バッグの中身見せてね」
「やめろ! 触るな!」
「あのね、包丁以外に、危ないものがあると困るでしょ? そんなに大きいの、むき出しで持ってたら、銃刀法違反だよもう」
「やめろって言ってるだろ!」
 振り払おうとするも、大地は警官を振り払えずに、逆に羽交い絞めにされた。バッグを取られてもなお、必死に抵抗している。
 無駄なのに……と思いながら、私はその光景をぼんやりと見ていた。視線は合わせられない、怖くて、大地のことが見られない。

「何これ。黒の上下? 今着てるのと、同じに見えるね。それから、紙袋の中身は……ふんふん、柑橘系のニオイ、香水か?」
「さっ、触るな! 紗季にっ! 変えさせるんだ! 俺の、俺のに!」
「ほら、落ち着いて」
「あんな臭い! いらないだろ? これ、これだよ、これ!」

 その意味がわかって、私は背筋がぞっとした。
 バニラの香水を、俺の持ってきた香水に変えろというのだ。きっと、そういうことなのだ。
 ここまでして、香水を変えろという、その神経がわからなかった。そうまでして、やめさせたい理由が。 そこまでの理由を、私は聞いたのに忘れていたのか。それとも実は、彼が言ったつもりでいるだけで、本当は細部まで話していないのか。
 ……どちらにせよ、きっともう、彼に話を聞くことはできないだろう。


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