――数時間前。
「……ぇ、ねぇ」
遠くから声がした。
「あ? あ、うん」
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの?」
と、紗季の声がした。うるさいな、聞こえているのに。
「ごめん、ちゃんと聞いてるよ」
俺は、ぶっきらぼうに答えた。
「本当に? じゃあ、返事は?」
「あー……ごめん」
返す言葉が見当たらなくて、俺は適当にごめんと言った。
「どういう意味なの? それ」
彼女――高峯紗季――が俺の顔を覗き込みながら、怒ったように聞いてくる。ちゃんと聞いているつもりだったが、彼女の言葉は俺の脳には届かなかったらしい。
……そう言ったら彼女は、さらに怒るだろう。
だから、敢えて言う必要はない。
今日は、紗季とのデートだった。最近仕事が忙しく毎日残業したうえに、こっそりと休日出勤までしていた俺は、今までにないほどへとへとに疲れていた。
それで紗季に会うために朝早く起きて車を出した。それに、紗季が前に「行きたい」と言った、人気のカフェにもこうして足を運んでいる。わざわざ、予約までしたのだ。
紗季はきれいだし、稼ぎも悪くない。俺の友人からの評判も上々で、連れて歩くにはピッタリだった。
「はぁ。だから、明日の買い物だって。一緒に行くんでしょ? 会社の鞄見に」
何の話か、わからなかった。
「え? そうだったっけ?」
「何? 忘れたの? 嘘でしょ?」
今度は、心底驚いたような顔をした。俺は、少しだけムッとなる。何も、そんなに大袈裟な顔をしなくてもいいのに、と。
「もうさ、自分が言ったんじゃん! 仕事用の鞄が古くなったから、買い換えたい。一緒についてきてほしいって!」
「あー……そんなこと言ったっけ……?」
思ったことが、そのまま口から出てしまった。しかも、覚えていないような言い方。これはまずい。
「自分で言い出しておきながら、忘れるなんてほんと最悪」
やはり、火に油を注いだようで、みるみるうちに、紗季の眉間にしわが寄る。どうにか話題を変えようと、俺は頭をフル回転させた。
「そういえばさ、仕事は順調?」
話を変えてみる。
「仕事? 別に、普通だけど」
トーンダウンして、一応話には乗ってきた。
「ほら、この間、何か上司の話してなかった?」
必死になって、そのまま会話を続ける。怒られる話題は避けたい。
「んー、先輩の愚痴も減ったし、繁忙期も過ぎたからなぁ」
目の前のアイスコーヒーを、ストローで氷ごとかき混ぜている。汗をかいたグラスは、紗季の指に沿ってツツツ――と、その水滴をコースターへと落とした。
俺も同じように、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜた。
「そっか。ならよかった」
「あ、でもさ」
かき混ぜるのをやめて、紗季は一口ずつアイスコーヒーを飲む。ごくりと液体が喉を通るさまを、俺は思わず見つめた。
「またあの、変な人が動き出したっぽくて」
「えーっと、誰だっけ? あ、あのストーカーみたいなやつ?」
よかった、これはちゃんと覚えていた。正しい言葉が出てきて、俺は安堵した。
「そうそう。いい加減にしてほしいよ、気味悪いし」
苦い顔をして、紗季は口を真一文字にきゅっと締めた。
これは、俺も何度か聞いている話で、あまり気持ちのいいものではない。紗季が、ストーカーらしき人物に、嫌がらせをされているというのだ。
相手は誰かはわからない。そして、警察に訴えるには実害がなさすぎる。聞いた感じ「嫌な思いはするものの、困ってはいない」のだ。いや、困っていないというと語弊があるかもしれないが、普通の生活ができてしまえているのだ。
「最近は何があったの?」
紗季だって、こういう話は聞いてほしいに違いない。俺はその期待に応えるべく、興味のあるフリで聞いた。
「それが、私の行く先々に、ついてきてるみたいなんだよね」
思ったよりも濃い話で、背中に寒気が走る。見ず知らずの人間が自分を追いかけてやってくるなんて、怖すぎるだろう。寛容に見たとしても、とても嬉しいものではない。そんなの、わかった瞬間に走って逃げだしたくなるに決まっている。あぁ、俺だったら逃げ出したい。
そのせいか、平然とそう答える紗季が、まるで宇宙人のように見えた。
「何だよそれ。早く言えよ! そういうことは!」
「だ、だって! 絶対そうだ……とは言い切れないし……」
煮え切らない態度。歯切れが悪い。自分で言い出したくせに、腹が立つ。
「てか、相手が誰かわからないんだろ? ついてきてるなんて、どうしてわかったんだ?」
「それは……」
紗季自身、確実な証拠がないからなのか、言い淀んでいた。
「はぁ。で? 他には?」
別に今聞かなくてもいい。そう思った俺は、他に被害がないか、話す気のあるうちについでに確認することに決めた。
「他に、って?」
『他』について、逆に聞かれるとは思わなかった。
「だから、そのストーカー野郎の所業だよ」
会話の流れで、それくらいわかってほしいものだ。
「所業って……でも、うーん。鍵閉めたはずなのに、家に帰ったらドアが開いてるとか?」
「……つまり、不法侵入されてるってこと?」
相手が誰かわからない、得体のしれないストーカーが、明確な犯罪者になった瞬間だった。
「言い切れないけど……実際は、私が鍵を閉めたって、思い込んでるだけかもしれないし?」
だとしても、もっと焦るべきだ。
自分がかけ忘れても、他人は侵入してくる。
誰かに開けられたのなら、そちらのほうが大問題だが。
「はぁ。なくなった物は? ないの? 逆にさ、身に覚えがないのに、いつの間にか増えた物とか」
「ない、かなぁ、多分」
首を傾げている。
「多分、って。……お前、危機感ないの?」
呆れた。思わず態度が声色に出る。そんな調子だから、狙われるんだ。どうして、わからないんだろう。
「ないわけじゃないよ! って、そんな言い方しなくてもいいんじゃないの?」
紗季も語気が強くなっている。ケンカをしに来たわけじゃないのに。……近頃、こんなことばかりだ。
「ちょっとお手洗い行ってくる」
空気を読んでか、紗季が席を立った。
「……何だよ、せっかく人が心配してやってるのに」
前のめりだった身体を、椅子の背もたれに預ける。はぁ、と大きく溜め息をついて、俺は頭を掻いた。
「ったく、上手くいかねぇな、ほんと」
スマホを触りながら、俺は紗季が戻るのを待った。
あの調子なら、少し時間もかかるだろう。それでも、気持ちを落ち着けて戻ってくる。俺はそう思っていた。
「毎日楽しそうなくせに、ストーカーねぇ」
俺は、テーブルの脇に置いていたスマホに、すっと手を伸ばした。
「ほんとに、困ってるんだかどうだか」
今見ているのは、SNSだ。そう、紗季のアカウントの。紗季は頑なに、アカウントを教えてくれなかったが、俺は探しまくって自力で見つけた。
そうして見つけられるほど、紗季のアカウントはわかりやすかった。見る人が見れば、すぐに断定できると思う。
隠している割に、バレバレなのだ。やっぱり、危機感がない。
「本人は、わからないものなのかねぇ」
今のところ、よっぽどまずい、と思える投稿はないが、今度いつ出てくるかわからない。だから俺は、保護者のように確認してやってる。
おれがあるから、知っていることは内緒だった。俺だとバレぬようフォローもしていないし、見るのも所謂捨てアカウントを使っている。
一度も紗季から指摘を受けたことはないし、当然ながら、俺から指摘したこともない。
「はぁ。『友だちと新しいカフェ』に『居酒屋で一人飲み』、それから『新作ドーナツ食べ比べ』だろ? 一人で飲みに行くなんて、ストーカーに遭ってるやつの、やるべき行動じゃあないっつーの」