むせかえるような鉄のニオイ。ゆっくりと染み出す赤と黒。ぐったりとして動かない――
「あ、あ……」
――彼女。今俺が殺した、彼女だったモノ――
「やばいやばいやばい、これバレる」
俺は、テーブルの上のマグカップを手に取り、背負っていたリュックを急いで下ろして、その中にしまった。
これは、俺と彼女でお揃いだったものだ、置いてはいけない。まるで俺が、彼女とこのテーブルを囲んで、今までくつろいでいたみたいだから。
だって、彼女のマグカップが、隣に置いてある。
「あ、いや、あ? 違う、俺の服は? 歯ブラシ、箸と、あと……なんだったっけ……」
片っ端から、俺の物を片付けていく。そのたびに、部屋が荒れたってかまうものか。むしろ都合がいい、泥棒と勘違いしてくれ。
俺の嫌いな香水の臭いに混じって、彼女の血の臭いが鼻を突く。目が自然と、臭いの元へ向かう。……違う、今じゃない、今はあれを見ている場合じゃない。手を動かすんだ、手を。
視界に入る俺の指は、微かに震えていた。鼻を通る空気の音も、いつもよりはっきりと聞こえる気がする。そりゃそうだ。だって俺は、人を殺したのだから。この手で、そこに横たわっている、血にまみれた彼女を。この手で、確かに。
「早く、早く……!」
気持ちだけ焦る。思うように身体は動かないのに。
「これ、どうやって」
――動かそうか。死体を、肉の塊を。
「あいつが、あいつが悪いんだ! 俺じゃない、俺じゃ……」
声が震える。唇も震える。そんな自分に無性に腹が立った。
「おい、なんとか言えよ! ……言ってくれよ」
言うわけがない。わかっている。だって、もう死んでいるのだから。それくらい、俺は今冷静じゃない。……当たり前だ。
なんとなく、喋った口から俺の痕跡が漏れそうで、急に怖くなった。だから、独り言を止めた。本当は、ずっと喋っていたい。だって、そうでもしないと、頭がどうにかなりそうだったから。
多分、他のものには触っていない。手袋はしていないが、べたべたなんか触れていない。最悪俺の存在がバレたって構わない。……いや、正直困る。困るが、今日死体とともに、俺がいたことが、バレなければいいんだから。
でも、俺のものは持って帰らせてもらう。もう恋人関係は解消されたから。そういうことにしておく。置いていく必要がない。この部屋にはいらない。
……ごめん、ごめん。いや、だって、わかるだろ? 俺が必死になる理由も。
「とりあえず、これだけ」
気が付いたら、リュックの中身はいっぱいになっていた。全部、この家にあったものだ。そんなに私物があったのかと、自分でも驚く。と同時に、警察がこれに触れていたかもしれない未来を考えて、思わず目を見開いた。そしてごくりとつばを飲む。残ったのは「あぁ、助かった」という、端から見れば最低な感想だった。
だが、この感想に間違いはない。俺は今、安堵している。
「とにかく、とにかく離れよう」
俺は自分の荷物だけ持って、彼女だったモノを放置して家を出……ようとしたところで、一番忘れてはいけないことを思い出した。
――凶器だ。
俺は刺した。キッチンに置いてあった包丁で、彼女のことを。
ぷつりと皮膚に入り込む感触も、肉を抜けて骨に当たった感触も、通り道ができて抵抗のなくなった感触も。……何度もそれを繰り返したことも。俺の手は余すところなく覚えている。
「あれ、も、持って帰らないと」
最後に刺したのは、横っ腹だった。柔らかな肉を割いて、まだ塊を保っている部分に刺した。刺しっぱなしだったのだ。
転がったその身体から、パッと奪うようにナイフを抜いた。もう血は出ない。やっぱり、死んでいる。未だ、彼女の顔は見られない。怖いのだ。「彼女が死んでいるという事実を、改めて確認すること」が。
だから、俺はそのナイフを、リュックに無理やり詰め込んで。振り返らずに、できるだけ平常心を装って。両足を外に出し切った後、そっとドアを閉めた。
――世の中の殺人犯は、人を殺した後、まず何に目を向けるのだろうか。死体の片付け? 証拠の隠滅? それとも、偽造工作? アリバイの立証か?
俺はただ「自分の物があるのは駄目だと思った」から、それを片付けることに必死だった。
「……見つかるよな? 絶対」
速足で歩きながら呟いた。死体が見つからないとは思っていない。遅くとも明日には見つかるだろう。
彼女の職場の人が、会社に連絡なく来ないことを心配して、きっと連絡を入れる。返事がいつまでもなければ、家に行くかもしれない。
「そしたら、疑われるのは……」
俺だろうか。でも、俺はあの場に今日行っていない。行っていないから、俺は犯人ではない。
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」
俺はそうなることを祈りながら、ただ前へと進んだ。平気なふりをして、何もなかったかのように。