第16話:いつもの朝

We Killed Our Sweetheart

 ――翌朝。

 まだ、空気に夜の名残がわずかに残る時間帯。
 同時に陽の暖かさも感じながら、オリオンがゆっくりと目を覚ました時、家の中には何かを焼く軽やかな音と、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂っていた。

 一瞬だけ警戒する。
 それは、考えるよりも先に、身体が勝手に反応した結果だった。

 知らない匂い。知らない音。知らない気配。
 普段ならあり得ないはずの違和感が、寝起きの意識を一気に引き上げる。
 自分と、ジャックと、リリィ。その三人では、到底あり得ないすべて。

 だが数秒後、その理由を思い出した。

 ……マーサだ。

 昨夜、帰っていなかった。彼女はリリィを置いていくことはせず、家の中に留まることを選んでいた。
 その事実が頭の中で繋がり、張り詰めていた神経が自然と緩む。オリオンは小さく、だが長く息を吐き、ゆっくりと身体を起こしてから寝室を出た。

 その足で、リビングへ向かう。すると、案の定だった。

 マーサがキッチンに立っている。
 エプロン姿だった。妙に似合っていると、そう思ってしまった自分が腹立たしい。

 彼女は、長年使い込まれたような手付きでフライパンを操り、卵を焼いている。
 男を殴ったフライパンは、昨日処分したはずなのに。あれはいったいどこから持ってきたのか。などと、どうでもいいことを考えてしまい、オリオンはまた腹立たしく思った。
 答えは簡単で、料理を作る前にマーサが自宅から持ってきた、それだけだった。

 意識を戻すと、油の弾ける音とともに、焼き上がる香りがさらに強くなった気がする。

 その光景は不思議と自然だった。自然過ぎて、逆に違和感があるくらいだ。
 ここはリリィの家だったはずだ。それなのに、いつの間にかマーサの家のような空気になっている。馴染んでいる。

「起きたのかい」

 振り返りもせずにマーサが言う。
 まるで、最初からすべてわかっているような、落ち着いた声だった。

「ああ」

 短く返す。

「顔洗ってきな」

 当然のように言われる。
 オリオンは数秒考えた。反論しようか。「ここは私の家ではないし、マーサの家でもない」と。
 つまりは、命令される筋合いもない。それを聞く筋合いもない。
 そう思ったのに。

「……わかった」

 気付けば従っていた。
 自分でも理由はわからない。ただ、逆らう気が起きなかった。それに、違和感も少ない気がした。

 洗面所へ向かうその途中、ソファを見るとジャックが寝ていた。
 とても豪快に。
 毛布を半分落とした状態で、身体を大の字に広げていて、口まで同じように開いている。聞こえる寝息もやたらと大きい。
 オリオンは無言で通り過ぎた。

 起こす義理はない。落ちないよう、助ける義理もない。
 むしろ、そのままにしておくほうが自然だと判断した。

 数分後、洗顔を終えて戻る。冷たい水で顔を洗ったことで、意識は完全に覚醒していた。

 そのころにはリリィも起きていて、顔を見ると寝癖だらけだった。髪があちこちに跳ねている。だが、逆にその寝癖が、ぐっすりと眠れている証拠に見えた。

「おはよう!」

 元気だった。朝から信じられないほど元気だった。大きな声に、きらきらの笑顔。
 その声、その存在だけで、部屋の空気が明るくなるような勢いだ。

「おはよう」

 オリオンは淡々と返す。

「おはよ!」

 リリィはさらに元気よく返す。二度目の挨拶に、どうしたものかと思案すると、マーサが口を開いた。

「おはようございます、だろ?」

 その一言で、リリィがぴたりと止まった。

「あ」

 気付いた顔をする。

「ほら。言ってみな」

 マーサが促す。

「おはようございます!」

 慌てて言い直す。

「よろしい」

 マーサは満足そうに頷いた。
 その様子は、まるで教師のようだった。

 オリオンは思う。
 ただの近所の住人にしては、自然に溶け込みすぎている。自分とジャックが揃っても、動じないどころか、文句を言ってくる。
 本当に、何なんだこの人間は。火とのことを人殺し呼ばわりして――それは間違っていないが――躊躇なくフライパンで殴り、怖がる様子もなく飯を作る。そして、当たり前のように、いる。

 そんなことを考えていた時、ソファから呻き声が聞こえた。

「ふあぁ、腹、減った」

 ジャックだった。どうやら生きていたらしい。

「さっさと起きな」

 マーサが言う。

「あと五分」

 ジャックは寝ぼけた声で返す。

「駄目だよ」
「十分」
「駄目」
「十五分」
「何で延びてるんだよ!」

 その様子を見て、リリィがくすくすと笑っていた。

「わかった。フライパンを食らいたいんだね? いいね、今なら熱々だよ?」
「そんなもの食らいたくねぇよ!」
「なら起きな」

 淡々としたやり取りの末、ジャックは諦めたように起き上がると、眠たそうな顔に、ソファのエンボス模様をつけていた。

 リリィがそれを見て笑い、マーサもつられて笑った。
 オリオンだけが黙っていた。
 だが。悪くないと思ってしまった。この、騒がしくも穏やかな朝の光景を。
 本当に少しだけだ。だが、そんな自分に気付いてしまい、オリオンは小さく眉をひそめていた。

 ――朝食を終えたころには、窓から差し込む陽射しもすっかり強くなっていた。
 リリィはマーサに髪を梳かれており、最初は嫌そうにしていたくせに、今ではすっかり大人しくなっている。その様子を眺めながらジャックはコーヒーを飲み、オリオンは窓の外を見ていた。
 昨夜侵入した男から、聞いた名前が頭から離れない。
 ハロルド――たったひとつの名前だが、それだけで十分だった。その名が持つ意味も、そこに繋がる過去も、すべてが重くのしかかってくる。静かな朝の空気の中で、その重さだけが角を立てて浮かび上がっていた。

「出るぞ」

 オリオンが言うと、ジャックが顔を上げる。

「今から?」
「ああ」

 その返事を聞いて、ジャックは肩を竦める。

「うちの大黒柱は、超働き者だな」
「……お前も来るんだ」
「だと思った」

 軽い口調だったが、その目は笑っていない。昨夜からずっとそうだった。
 ハロルド――その名前は、二人にとってそれだけの重さを持っている。軽く扱えるものではないと互いに分かっているからこそ、余計な言葉は交わさない。

「どこいくの?」

 リリィが尋ね、マーサは髪を結びながら耳を傾けていた。

「仕事だ」

 オリオンが答える。

「すぐ帰る?」
「……多分な」

 煮え切らない態度に、リリィは首を傾げる。

「たぶん?」
「多分だ」

 リリィは少しだけ不満そうな顔をするが、決して引き留めはせず、代わりに小さく手を振っている。

「いってらっしゃい」

 その言葉に、オリオンは一瞬だけ動きを止めるそれはジャックも同じだった。「いってらっしゃい」という言葉。それは、帰ってくる人間に向ける言葉であり、待つ人間がいるから成立する言葉だ。だからこそ少しだけ胸の奥がざわつく。自分たちには縁遠いはずだった温もりが、今は確かにここにあった。

「ああ」

 オリオンは短く答える。

「行ってくる」
「良い子に待ってるんだぞ、プリンセス!」

 その言葉に、リリィはパジャマの裾を掴み、足をまげてお辞儀をした。

「立派なプリンセスだ!」

 ジャックは笑い、そして二人は家を出る。
 扉が閉まるその時まで、朝の空気は穏やかだったが、歩き始めた瞬間に空気が変わる。リリィもマーサもいない。残るのはオリオンとジャックだけだった。背後に残した温もりが遠ざかるほどに、現実が輪郭を取り戻していく。

「で?」

 ジャックが言う。

「どこから当たるつもりだ?」
「まず情報屋だ」

 ジャックは頷く。

「やっぱりか」
「ハロルドが動いている理由を知る」

 オリオンは迷いなく真っ直ぐ前を見る。その視線の先には、避けて通れない何かがあると気付いていた。

「リリィのために?」

 揶揄うようにジャックは聞く。数秒の沈黙のあと、結局、オリオンは答えなかった。だがジャックは笑う。答えを聞く必要はなかった。昨夜、リリィの元へ帰宅した時点で、もうわかっていたからだ。

 街の外れにあるその店は、昼間だというのに薄暗く、看板は色褪せていて、窓ガラスは埃を被っている。営業しているのかどうかすらわからないが、それでもオリオンは迷わず扉を開いた。
 古びたベルが鳴り、乾いた音が店内に響く。外見を裏切らず、中に客の姿はない。店内に並んだ棚には、古本やレコードの他に、得体の知れない置物が雑多に積まれている。そのラインナップに統一感はなく、価値があるのかもわからないが、この店を訪れる人間は商品を買いに来るわけではなかった。


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